クムラン・イスラエル国

紀元前06年03月20日


日本時間0時




クムラン周辺地図
クムラン Qumran

 イスラエル国 Medinat Yisrael は地形が変化に富み、肥沃な海岸平野、東部にヨルダン渓谷、死海、南部にネゲブ砂漠を持つ地中海式気候の国です。住民の8割はユダヤ人ユダヤ教徒、公用語はヘブライ語になっています。

クムランとは死海北西端の沿岸から約1kmにある遺跡で,ユダ王朝時代(前7〜前6世紀)に要塞が築かれた「塩の町」(ヨシュア記15:62)と同定されています。死海はカリ塩の産地なんですね。おおよそ、北緯31°50′東経35°30′になります。この遺跡が有名になったのは,1947年に近くの洞穴から紀元前に書かれた完全な「イザヤ書」巻物写本がベドウィンの少年によって発見され、その後次々に同種の古代写本が周辺の洞穴群から発見されたからです。1951-56年には、古い要塞の跡からこれら古代写本の所有者と思われる共同体の大きな建物の全構造が明らかにされました。それは「クムラン共同体(教団)」と呼ばれ、出土写本群 Dead Sea Scrolls は「死海写本」または「クムラン写本」と呼ばれます。

クムランの洞窟
死海写本
クムランの洞窟。中央に見えている
のが少年が偶然発見したもの。
死海写本。これは旧約聖書の断片。

クムランの遺跡 この共同体は修道院的性格をもった祭司集団で、前130年ころ「義の教師」なる人物によってエルサレムの神殿祭儀に反対して創設されたと言われます。一般にヨセフスその他の古代文献に見えるパリサイ、サドカイと並ぶ第3のユダヤ教団エッセネ派と同一視されています。彼らは独自の律法解釈にもとづく厳格な規律に従って禁欲的共有財産制の共同生活を営なみ、その中心思想は世界も人間も生と死、光と闇、善の霊と悪の霊といった二つの力や霊によって支配されているとする二元論的終末観によって特徴づけられています。毎日清めのための全身沐浴を実行し、そのための大きな水槽も多数発見されています。その他、作業場や食堂の跡も発見されていますが、寝室はなく、テントを張って質素な生活をしていたようです。また、エルサレムの正統ユダヤ教とは異なる独自の暦を使用していました。千以上の墓が発掘されているところから、何世紀にもわたった共同体だっと思われます。また、女性の骨も見つかっています。この共同体は紀元後70年の第1次ユダヤ戦争のとき、ローマ軍によって破壊されて消滅しました。ただし、出土貨幣から第2次ユダヤ戦争のとき、ユダヤ反乱軍がこの遺跡を使用したと思われるふしもあります。洗礼者ヨハネ、そしてイエスもクムラン教団に属していたのではないかと推測されています。

(地図の上にカーソルを乗せると詳細地図を表示します)


ベツレヘムの星


 さて、ここではキリストの誕生日と誕生地を特定してベツレヘムの星を見ようという企画です。なんと無謀な!星の世界は天文学的数値の世界であり、間違っていても楽しんだ者勝ちです。真剣に読む人がいると可哀想なのではっきり言いますが、ここでの推論は絶対に間違っています。今あるデータから推論して楽しむためのものです。真実は単純であると言いますが、そんな単純なものではないです。道を誤っていたら世界の王になったかもしれない男なのですから。でも、クムランとは関係ないじゃないかって。それが関係あるんです。なお、このページは「星の旅」の「クリスマス・イヴ」と連動するものとなっています。

ベツレヘムの星にちなんで、銀の星がはめ込まれている誕生の洞窟。生誕教会。 イエスの誕生について記しているのは「マタイ伝」と「ルカ伝」です。キリスト教ではその生まれより死と復活が重要なわけですから、他の伝では記されなかったのかもしれません。古代の教会では誕生日を祝う習慣は異教徒の風習だとされていたようです。ですからクリスマスとして祝うこともありませんでした。教会からは認められていない外典や偽典にはその誕生や少年期について記しているものもありますが、それはともかく、この二つの福音のうち、ベツレヘムの星について語っているのは新約聖書のマタイ伝です。ルカ伝では主の御使が現れる形になっています。マタイ伝の第2章にこの星が重要な引き回し役として登場しているので、星が記されているところのみ抜粋して紹介します。

マタイ伝での星の記述
第2節「ユダヤの王といてお生まれになったかたはどこにおられますか。わたしたちは東の方でそのを見たので、そのかたを拝みにきました」
第7節そこで、王(註:ヘロデ王)はひそかに博士たちを呼んで、の現れた時について詳しく聞き、
第9節彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見たが彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
第10節彼らはそのを見て非常な喜びにあふれた。

 マタイ伝からわかることは、イエスはヘロデ王が生存中に生まれたということです。そして星は東方から来た博士たちが後を追ってきたことになりますので、西方にあったということです。

ベツレヘムの人口調査。左に提督が座り、右にマリアが立つ。(1316-21。コーラ修道院) ここでもうひとつのルカ伝に記されていることを検証します。第2章1節から7節にかけてヨセフと身重のマリアが皇帝アウグストスの命による(シリア提督クレニオの)人口調査のためにベツレヘムに向かい、そこで初子を産んだという記述があります。これは何年かを判断するひとつの材料になります。第8節には「この地方で羊飼い達が夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」と書かれています。これは季節を推理する材料になります。季節については冬の時期に羊飼いが野宿することがないということから、冬をはずすことができます。しかも、12月は当時雨期であったという説もあります。この地方ではおおよそ3月から11月ぐらいが羊の放牧の時期に当たるそうです。

 ベツレヘムの星が何であったのか、いろんな天文現象の説があり、いちいち紹介しきれません。有望な説と併せて、ここまでのところをまとめてみましょう。 以下のようにほぼこの範囲に絞ることができます。ただし、事象の年については異説もあります。

キリスト生誕関連年表
紀元前歴史事象天文事象
7年ローマ皇帝による国勢調査木星と土星が会合。うお座で3回(6/8,9/12,12/17)方角が合わない
6年シリア提督の国勢調査月による木星食(3/20日と4/17)。西
5年 大彗星
4年ヘロデ王統治終わり(3月20前後死亡)彗星(尾がない)


 ここまではそんなに怪しい話ではありませんが、これでは一向に特定できないことになります。何とか月日を特定しないと星空がみられませんから、もう少し怪しい話を拾っていきます。では、マタイ伝へ戻って、「」についての記述を見ます。なぜ魚なのか?キリスト教にとって魚は特別な意味合いがあるからです。第4章19節にペテロとシモンがイエスに「私についてきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と言っています。第7章10節には「魚を求めるのに、蛇を与えるものがあろうか」とイエスは言っています。そして有名な奇跡の場面。第14章19節に「5つのパンと2匹の魚を手に取り」とあります。この奇跡の場面からキリスト教がまだ弾圧されていた時代から双魚の印はキリストを示すものになりました。一尾の魚であることもありますが、カタコンベに記された暗号としてのものはほとんど双魚です。ちなみにローマ教皇の帽子も魚の口が開いた形になっています。

ドミティッラのカタコンベ壁画パンと魚の奇跡の教会・モザイク
ドミティッラのカタコンベ壁画。
錨は教会を示す。3世紀のもの。
ガラリヤ湖西岸タブハ村の
「パンと魚の奇跡の教会」にあるモザイク。
パンに十字がつけてある。

 ところで、「双魚」と言えば星の好きな人ならだれでも連想するものがあります。そう、魚座です。これはギリシャ神話に基づくもので、すでに占星術師はこの紋を使用していました。暗号が双魚であった理由は聖書に基づくものではなく、生まれた時に太陽が魚座にあった人、つまり「魚座に生まれた人」を表していた可能性も否定できません。魚座とは2月20日から3月30日になります。また、占星術においては春分点がどこの星座に入っているかで運命を占ったりしますが、紀元前後はちょうど魚座に入った時代でもありました。もっとも、聖書では占星術は妖しきものとして否定されています。話の逸れついでに言えば、偽典にはイエスは双子だったと解釈できるものもあり、そのため双魚なのだという説もあります。

銅の巻物 今度は「クリスマス・イヴ」のページで紹介したバーバラ・スィーリングの「イエスのミステリー」について触れます。クムランの洞窟で発見されたものの中に「銅の巻物」と呼ばれているものがあり、ここにイエスの誕生について紀元前7年3月という記述がみえるとあります。銅の巻物とは神殿の宝物の表とその隠し場所を記した銅板の巻物です。 3月という説は魅力があります。3月の天文現象と言えば、6年に面白い現象があります。この現象は聖書の記述ともかなり一致するところがあり、しかもドラマチックです。なぜなら星が西の地平線上に現れるからです。

 エルサレムでは日没1分間後、地平線すぐ上に細い月(月齢18)があり、空の明るさのため実際には見えませんが、木星が隠されて、薄明終了後5分して木星が出現します。そしてその5分後には月も木星も沈んでいました。そして、月から8度ほど上にはユダヤを支配する星と解釈されていた火星がありました。地平線を見ていた人にとっては、空が暗くなると同時にとても明るい星(なにしろ木星ですから)が一瞬輝いて見えたはずです。人を導く星としては格好の現れ方ではないでしょうか。そこで、日付は紀元前6年3月に決めつけたいと思います......(^^) 死海写本については年代測定がまだはっきりしていません。イエス誕生前のものか後のものかによって、その信憑性はまるで違ってくることは言うまでもありません。

ブリューゲル「幼児虐殺」部分 1567年
ブリューゲル「幼児虐殺」部分 1567年 ブリューゲルらしく、一見のんびりした風景ですが、取りすがる母子の姿が描かれています。

 今度は場所です。ベツレヘムというのは聖書に記されていることはすでに述べました。公式にはベツレヘムの馬小屋とされていますが、スィーリングによれば、「銅の巻物」に見出される記述からクムラン台地の南約1kmのところにあった「女王の家」と呼ばれていた建物だと主張しています。エン・ゲディのすぐ北になります。もう少し南に下がるとマサダの要塞があったところです。この建物は別名で馬小屋と呼ばれており、後に「ユダヤのベツレヘム」となったと言います。ヘロデ王は生まれた場所を単純に「ベツレヘム」と聞き、その無知からイエスは救われたとスィーリングは記します。この真偽はともかく面白い説です。

 また、当時は救世主はダビデ王の出身地であるベツレヘムで生まれる(ミカ書 5:2) と信じられていました。これはイエスをキリストと認定させる上で重要な問題であったに違いありません。どこで生まれようが聖書はイエスはベツレヘムで生まれたと記述する以外なかったと思われます。それを補強するかのように、イエスの父はダビデ家の子孫とまでされたのです。

エレサレムから見た西空 ようやく星空を描くところまできました。ベツレヘムの星を見るために、イエスの生誕地ではなく、エレサレムの設定(北緯31°5′東経35°1′)で見ます。ところが、これをやってみたところ、木星食を確認することはできませんでした。月とわずかの角度差があります。では、どこなら木星食になるのか探ったところ、相当な距離を移動しなければなりませんでした。これはソフトに問題があるのか、説に問題がるのかよくわかりません。しかし、西の地平線上に一瞬木星が輝くという事実は変わりません。

 がっかりさせて申しわけないですが、そんなわけでわざわざ生誕地以外の場所で星空を見上げる必要もなくなりました。せっかくですから、紀元前6年3月20日、クムラン台地の南約1kmの設定(北緯31°4′東経35°2′)で、つまり生誕地と考えられる場所から星空を見たいと思います。これは間違ってはいるけれど、季節がそれほど間違っていなければ,ほぼイエスが生まれた場所と時期の星空であることに違いはありません。ベツレヘムの星を除いては。そもそもベツレヘムの星というのは事実ではなく、物語だと思えます。事実であれば、もっと記録されたと考えるのが妥当ではないでしょうか。真実は単純であると言いますが、ただの伝説と考えるのが最も単純なのです(冒頭で言っていたことと違うかな)。なお、クムランの地図にはその生誕地と考えられる場所を黄色のでその位置を示しました。イスラエルの地図の上にカーソルをのせると表示します。

 今回は解説が長くなったので、星空のページを切り離しました。

(※このページの続きとして「星の旅」コンテンツに「ベツレヘムの星2」というページがあります。ご参照ください)




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資料


マサダの要塞


マサダの要塞
マサダ要塞前のローマ軍陣地跡

 死海西岸のユダの荒野のほぼ中央に位置するひし形の丘で、死海から比高約400m。南北約600m、東西は中央部で約300m。「マサダ」とはヘブライ語で「要塞」という意味です。前37-前31年にヘロデ王が要塞宮殿を築いたことで知られています。ヘロデの死後ローマ軍が駐留していましたが、第1次ユダヤ戦争の時ユダヤ反乱軍が奪取してここに籠城し、73年ローマ軍の総攻撃を前に960名全員が自害しました。

「炎の要塞マサダ」シーン画像へ

 1963〜65年の発掘で、西の宮殿と北のけわしい崖を削って造られた三段テラス式懸崖宮殿、1000名以上の籠城軍の生活を支えた大貯水槽と巨大な穀物倉庫、ローマ式大浴場跡などが見つかっています。ふもとの周囲にはローマ軍の築いた方形の陣地跡が今も残っています。上の4枚の画像はTVドラマ「炎の要塞マサダ」のものです。紀元70年のエレサレム陥落からマサダでの攻防、そしてユダヤ人たちの自害に至るまでを、ローマ軍のシルバ将軍 Cornelius Flavius Silva とユダヤ人リーダー「エリアザル Eleazar ben Yair」の二人を軸として大スケールで描いています。劇場版も編集されました。ビデオパッケージをクリックすると、シーン画像(126kb)がご覧になれます。



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