プリオシン海岸  カムパネルラの切符


たこ八郎

おねしょの天使


たこ八郎肖像

Tako Hachiro 1940-1985




めいわくかけて

ありがとう




キンチョーのCMに出演 たこ八郎は何か人のためにしたわけではありません。あえて言えば、人を笑わせた人です。コメディアンとしてTVに出演し、家を建てるわけでなし、金を貯めるわけでもなし、6畳一間のアパートで一人暮らし、ある日焼酎をあおって海の中へ消えていった人です。左のCMのようにただの蟹になったのかもしれません。今回はだれのためにもならなかったけれど、むしろだれかの世話になっていただけのことかもしれないけれど、まわりの人々を幸せにしたちょっと変わったデクノボーのお話です。

全日本フライ級チャンピオンになる たこ八郎のもうひとつの顔はプロボクサーです。ボクサー時代は「河童の清作」として日本チャンピオンにまで登りつめました。ただこれもコメディアンになるための足がかりとしてやっていたと言われています。彼のボクシングの特徴はノーガードという闘い方でした。漫画「あしたのジョー」のスタイルのヒントにもなったと言われていますが、失明状態の左目をカバーするために彼に唯一残されていた闘いのスタイルだったのです。両腕を下げて、殴らせるために顔をあえて突き出すようなスタイルはまさしく「捨て身」としか言いようがありません。ボクサーをやめた後、彼は後遺症で苦しむことになりますが、おねしょもそのひとつでした。

 こんなエピソードがあります。喜劇役者の由利徹の弟子になっていた時、由利が飲み屋で客に馬鹿にされて暴力事件を起こし、留置場で3日間過ごすことになりました。その時、たこ八郎は寒空の下、3日間警察署の前で待っていたそうです。彼のバカがつく純粋さはこんなエピソードをたくさん残しています。

溺死する直前に撮影されたもの> 子どもの時に弁当を持ってこれない級友のために弁当を持っていったり、失明状態になっても黙っていたこと、芸能界でも後輩に敬語を使うという頭の低さなど、たこ八郎はもともと優しさを持っていた人でしたが、それだけでなく、彼は他人からも優しくされるという人でした。友だちの家を泊まり歩いてもいつも歓迎され、バーからはただ酒で歓待されたのです。友人の外波山文明はこう言っています。「彼には声をかけたくなったし、声をかける自分にこんなやさしい部分があったんだと気付かせる」人だったと。彼は他人に迷惑をかけることで、他人を幸せにする人だったのです。

【備考】 たこ八郎関係の書籍は10冊足らず発行されていることを確認しましたが、どれもこれも絶版か品切れ、増刷予定なしという状況です。そんなわけで資料不足のまま書くことになりました。本文中引用したものは、ほぼ孫引きになっています。古本屋ででも手に入ることがあれば改訂します。




年  譜


たこ八郎肖像


本文中の「 」内の文はたこ八郎の著作からの引用です。

1940年
11月23日、斉藤清次・とくの8人きょうだいの次男として、宮城県仙台市はずれの農村に未熟児で生まれる。家は富農であった。本名、斉藤清作。
1947年
仙台市立東仙台小学校に入学する。弁当を持っていけない級友たちのために母とくに弁当を4、5個作ってもらうが、まるで足りないことがわかり、そのまま学校を引き返して欠席する。
1949年
泥団子のぶつけ合いで、泥団子が左目に当たる。だれにも言わず、視力が低下。ほぼ0になる。サーカスのピエロに興味をひかれ、あこがれる。
1953年
中学校入学。喜劇映画に親しむ。喜劇俳優にあこがれる。
1956年
仙台育英学園高校入学。
1957年
ボクシングに入部。県大会モスキート級で優勝。左目が見えない不利を自覚して、ボクシングをあきらめる。
1958年
農業が嫌で、集団就職列車に乗りコメディアンを夢見て上京。宝石店に就職するが、漢字がろくに読み書きできないことがばれて、会社系列の映画館に配置転換させられる。フィルム運びをしながら、いつか映画会社の目に留まることを夢見る。
1959年
フィルム運びをしている途中で笹崎ボクシングジムに出くわし、入門する。プロテストのために視力表を暗記して合格する。左目の不利をカバーするため、両腕を下げてノーガードで闘い、相手に打たせるだけ打たせてから疲れたところで反撃する戦法を採る。同門のファイティング原田のため新人王決定戦準々決勝を不本意ながら棄権。同門同士は闘わないことが習わしになっていた。
1961年
頭のてっぺんを剃り、「河童の清作」と呼ばれる。打たれても打たれても突進するそのリング上の姿で多くのファンを熱くした。第13代全日本フライ級チャンピオンになる。
1963年
3度目の防衛戦に敗れたあと引退。喜劇役者由利徹の内弟子となる。半年後、パンチの後遺症のため、言語障害と寝小便が始まる。近くのおでん屋「たこきゅう」から「たこ八郎」と芸名をつける。
1965年
後遺症のため、セリフ覚えられない、しゃべれない状況で、師匠に申し訳なくなり、由利徹の家を離れる。6畳一間のアパート暮らしをするが、ほとんど帰らず、友人宅を転々とする。友人たちにはなぜか歓迎される。浅草のキャバレーやストリップ劇場をコントでまわる。人々のやさしさに触れる。
1969年
自ら映画監督山本晋也に売り込み、未亡人下宿シリーズなどに出演する。この時代に、酒場での喧嘩で拳を使わず、右耳をかじり取られる事件が起こる。酒場ではいつも金を払わなかったが、請求されたこともなかった。右耳のため役者を断念しようとしたが、山本の「なったものはしようがない」という言葉で、後悔しない生き方を知る。「この耳もこれでけっこういいんだよ。人の話がすこしずつ聞けるようになった」
1971年
東映「新網走番外地」に出演。
1976年
山田洋次監督作品「幸福の黄色いハンカチ」に出演。車のボンネットに頭を叩きつけられるシーンで、高倉健が遠慮するので、自分から頭を打ち付ける。この後、TVドラマやバラエティ、CMに出演していく。
1984年
7月24日、酒を飲んでから真鶴・岩海水浴場に入り、心臓発作で死去。44歳。何故かこの前日に由利へお礼だと金を渡しに行ったり、友人たちのところを訪れていた。


      資  料


出演作品

た、た、たこでーす。 ひとつぐらい見てね。 あっ、成人映画は18歳になってからね 【映画】

1971 「新網走番外地 吹雪の大脱走」
1972 「現代やくざ 人斬り与太」
1972 「新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義」
1974 「聖獣学園」
1977 「女子大学(秘)レポート 肉体入学式」
1977 「幸福の黄色いハンカチ」
1978 「未亡人下宿 初のり」
1979 「気分を出してもう一度」
1979 「下落合焼鳥ムービー」
1979 「新痴漢地下鉄」
1980 「痴漢師 土手さがし」
1980 「未亡人下宿 あの道この道教えます」
1980 「未亡人下宿 初濡らし」
1985 「カポネ大いに泣く」
1985 「ビッグマグナム 黒岩先生」

【テレビドラマ】

「ムー一族」

 

他にも出演していますが、確認できたものだけあげてあります。yu は「幸福の黄色いハンカチ」以外は見ていないので、演技についてはわからないです。「幸福の黄色いハンカチ」での出演シーンはチンピラ役で数十秒しかありません。殴る時の身のこなしはやはりボクサーのそれです。そもそも存命中はいっこうに関心がなかったので、肝心のコメディ番組なんかもまるでわかりません。



たこ語録


「た、た、たこでーす」

これだけで笑えたと聞いています。死んだときにはスポーツ紙が「たこが溺死」と報道。その死でさえも人を笑わせることになります。壮絶の一語です。

 
めいわくかけて、ありがとう

論理がねじれたこの言葉には謝罪と感謝の気持ちがつよく表れています。言語不明瞭と言われた彼ですが、自分の気持ちを的確に表現する言葉を持っていたと言うべきです。




たこアルバム


前列左から3番目河童の清作幸福の黄色いハンカチうちゅうにたいしてしつもんしたい きみはだれだ
小学校時代
ボクサー時代
コメディアン時代
酒場で書いたノート


      語の解説


あしたのじょー 両腕を下げたノーガード原作を高森朝雄(梶原一騎の別名)書き、画をちばてつやが描いた漫画。多くの熱烈なファンがいるようです。連載が終了して20年ぐらい経っているようですが、 yu は読んでいないのでよくわからない。それでも登場人物の何人かや大まかな話の筋を知っているので、それほどに有名だということです。梶原一騎は「巨人の星」の成功により、名前による先入観から読まれるのを嫌い、別名を使ったと言われています。
しゅうだんしゅうしょく 高度経済成長時代に入り、地方の中高生が集団で都会へ就職しました。そのための列車が編成されたりもしました。
ふぃるむはこび 当時の映画館はフィルムを自前で持つことがなく、1本の映画だけを上映することもほとんどありませんでした。そのため、時間をずらしていくつかの映画館で使い回すことが可能でしたし、実際そうしていました。そのため、映画館から映画館へと運ぶ役割を担う人がいたのです。映画館も自転車でまわれるぐらいたくさんあったんだよね。
ゆりとおる 宮城県石巻市出身で、チャールズ・チャプリンにあこがれ上京。東北弁まるだしで、身をくねらせる芸が人気を呼びました。1956年に南利明、八波むと志とともに結成した脱線トリオでは、東京喜劇を代表する人気者になりました。テレビや映画、舞台で活躍し、「オシャ、マンベ」「チンチロリンのカックン」などのギャグや、持ちネタの「一人裁縫」が有名です。自ら人間嫌いと言っていた由利が心を許すことができたのはたこ八郎だけだったようです。「たこに芸を褒められると本当にうれしかった、どっちが弟子がわからない」と語っていました。1998年死去。享年78。
やまだようじ 1931- 映画監督。大阪府生れ。1954年松竹大船撮影所入所。川島雄三、渋谷実、野村芳太郎らの助監督を務めました。「二階の他人」(1961年)でデビューし、以後「馬鹿まるだし」(1964年)、「なつかしい風来坊」(1966年)など、クレージー・キャッツのリーダー、ハナ肇を主演に迎えた馬鹿シリーズで注目されます。ハナ肇のこのキャラクターは「男はつらいよ」シリーズ(1969年―1996年)で、「馬鹿まるだし」にも出演している渥美清が演じた車寅次郎に発展していくことになります。「いいかげん馬鹿」はほとんど寅さんそのものです。しかし、面白くない。
 「馬鹿まるだし」では終盤に植木等がお坊さん役で登場しています。彼の実家は三重県のお寺です。父親は植木徹誠という浄土真宗の僧侶でした。この人は反差別と反戦を貫いた、ここで1ページを捧げたいような人物です。彼の信念は息子の名前「等」にも表れているのです。(※2012年、「プリオシン通信」の「当たらないように撃て」のページで植木徹誠について記しました。)
「自分は部落民ではないと思う事が、すでに相手を差別していることだ」.......植木徹誠
 このシリーズでは「馬鹿が戦車(タンク)でやってくる」(1964年)を強くお勧めします。 yu にとっては日本映画ベストテンに入る映画です。こんなに量産している中でも傑作は生まれるものなんです。映画はやはり脚本だ。原案は作曲家の団伊玖磨。もちろん音楽も担当しています。日本の封建制をタンクがなぎ倒して行く痛快喜劇かと思いきやそう単純ではなく、人間の愚かさを哀愁をこめて描ききっています。スコセッシ監督の「タクシー・ドライバー」(1976年・米)の狂気と正気に相通ずるものを持ちながら、人の世よりも人の生に重心を置いているように思えます。そして、「馬鹿」とは主人公の代名詞ではなかったことがわかるのです。この映画のキャストは他の同シリーズの中でも特に芸達者が揃っていて力作であったことがうかがえます。
 下の3本はすべて64年です。松竹ホームビデオで3本とも見ることが出来ます。山田洋次は庶民の人情を肯定的に描き、松竹の伝統を受け継ぐ監督と評されています。


「馬鹿まるだし」 山田洋次監督 87分 1964年

出演:ハナ肇、桑野みゆき、清水まゆみ、水科慶子、藤山寛美、渥美 清、殿山泰司、花澤徳衛


「いいかげん馬鹿」 山田洋次監督 86分 1964年

出演:ハナ肇、岩下志麻、犬塚 弘、水科慶子、花沢徳衛、松村達雄、殿山泰司


「馬鹿が戦車でやって来る」 山田洋次監督 93分 1964年

出演:ハナ肇、岩下志麻、殿山泰司、花澤徳衛、犬塚 弘、小沢昭一、東野英治郎、戦車八七号



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