最後の晩餐
十二使徒
関連資料
ダ・ヴィンチ
モナ・リザ

プリオシン海岸  カムパネルラの切符


レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」

聖絵画


The Last Supper

CGで復元された「最後の晩餐」 (CG:NHK)
「最後の晩餐 CENACOLO VINCIANO」 1495-97年制作 テンペラ+油彩
レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci 1452-1519年
サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ聖堂 SANTA MARIA DELLE GRAZIE 壁画 
420×910

 最後の晩餐とはイエス・キリストが磔刑の前夜に12人の弟子とともにした晩餐を指し、「主の晩餐」とも呼ばれているものです。新約聖書の「マルコによる福音書」14:17-26 や「ルカによる福音書」22:14-23に記述されており、イエスは裏切者を指摘するとともに、パンとブドウ酒をとって自らの体であり血であると言う場面です。つまり、「裏切りの予言」と「ミサの制定」です。
SANTA MARIA DELLE GRAZIE
 サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会
併設された左端の建物に「最後の晩餐」がある。見学もここから入る。また、教会の右隣を市電が走っている。
CG復元による食堂

 この場面をレオナルド・ダ・ヴィンチが修道院の食堂の壁に描きました。食堂に巨匠の絵とは何とも贅沢なと思いますが、僧たちは食事をいつもこの場面を想起しながらとることになるわけですね。食堂に最後の晩餐画を描くというのは、当時よくあったことです。僧たちは「最後の晩餐」を追体験することがひとつの修行だったからです。

 ダ・ビンチは描くための時間的余裕を生み出すためと重ね塗りを可能にするために壁画には使われていなかった技法を用いました。それがわざわいして、完成直後から絵の具が剥落し始めました。その後幾度か修復が行われてきたのですが、いい加減な修復のためオリジナルとは異なって描かれた部分もあります。また第二次大戦中は爆撃のため修道院がほぼ全壊しましたが、この壁は奇跡的に損傷を免れました(これも聖なる絵画と呼ぶにふさわしい理由です)。しかし、その後3年間屋根のないまま風雨にもさらされていたのです。

 レオナルドは遅筆で有名ですが、完成品も少ない画家です。「モナ・リザ Monna Lisa」も未完の作品です。そんな彼の作品の中で完成品として、ただし損傷の激しい「最後の晩餐」はミラノのドメニコ教会のパトロン、ロドヴィコ・スフォルツァの注文により描かれ、発注が1495年、完成が1498年2月という例外的なスピードで描かれました。当時の記録に、レオナルドは日の出から日没まで描き続けたかと思うと、数日手をつけず、時には数時間作品を眺め、別の仕事現場から突然やってきて、少し筆を加えてまた突然去っていったというのがあるそうです。これは彼が採用した画法ともかかわっている逸話です。

 当地では20年にわたって洗浄が行われ,1999年にようやく終了しました。この時には和紙が役立ったようです。この洗浄により、イエスの口が開いていたことやユダの視線、魚料理が並べられていたこと、タペストリーが掛けられていたこと等の新事実が掘り起こされました。これらの新事実を元にNHKがダ・ヴィンチの他の作品などの資料を参照しながらCGで復元したものがこの画像です。NHKで放送された番組(アナログ)からキャプチャーした部分画像を数十枚合成して作ったものがここで紹介するもので、放送での拡大倍率が大きい部分ほど鮮明になりますから、画像のボケ具合はそれに応じています。

 過越しの祭での料理は子羊の肉が供えられますが、「魚」とは初代教会においてキリスト教のシンボルとして用いられ、迫害時代には合い言葉として使われて、カタコンベなどにもこの印が見られます。「イエス・キリスト、神の子、救い主」を表すギリシャ語の頭文字をつづり合わせると、「ΙΧΘΥΣ さかな」を表すギリシャ語になります。シンボルとしての魚についての詳細は「世界の黄昏」の「クムラン」のページと、その「語の解説」のページを参照して下さい。

 ※2008年11月追加

晩餐メニューは「グリルうなぎのオレンジスライス添え」説

『Gastronomica』(Winter 2008 Volume 8 Number 1)というアメリカの食文化雑誌にJohn Varrianoの「At Supper with Leonardo」という記事が掲載されました。この記事は世界中にニュース配信されたようです。この雑誌で、皿に盛られたのは「sections of grilled eel garnished with orange slices(グリルうなぎのオレンジスライス添え)」だという説が述べられています。当時うなぎはポピュラーな食材で、「グリルうなぎのオレンジスライス添え」というレシピもあった、ということで自説を補強しています。しかし、他の魚だってたくさん食べられていたわけで、あまり補強になっていない。肝心の絵ですが、NHKの復元画像ではうなぎとはほど遠い形になっています。復元ではなく修復された淡い画像を見てもかなり太い感じで、ヨーロッパうなぎであったとしても太すぎるように思えます。なぜキリストを暗示する普通の魚ではなくて敢えてうなぎを選んだのか、そこが解き明かされないと納得できる説とは到底言えないです。ダ・ヴィンチが常識的な子羊の肉ではなくて敢えて魚を選んだということを考え合わせると、この皿にはそれなりの意思が盛られているはずです。 ※2012年追加 レオナルドの手稿にもうなぎが描かれていることから、だんだんうなぎ料理であることが定説になりつつあるようです。



拡大してみよう


 冒頭の画像では細部がよくわからないので、拡大してみましょう。拡大される画像は2つのページに分けてあります。以下から選択して下さい。別窓で表示します。



洗浄前と洗浄後の画


洗浄前の「CENACOLO VINCIANO」

絵の中央下の暖炉のようなものは17世紀に通路としてくり抜かれたもの。


全体像
拡大画像サイズ(85kb)
「最後の晩餐」斜めからの画像
拡大画像サイズ(128kb)


 今回の修復は洗浄しただけのもので、上段の画像になります。下段左画像は現在の展示の様子で、リュネットやタペストリーをひっかけるフックをも見ることができます。人影が写り込んでいるので大きさがよくわかるでしょう。またリュネット上の天井には星が散りばめられた絵が描かれていました。ちなみに「最後の晩餐」の対面の壁にはモントルファノ (Giovanni Donato da Montorfano) のフレスコ画『磔刑』(1495のサイン)があります。

モントルファノ (Giovanni Donato da Montorfano) のフレスコ画『磔刑』


 『最後の晩餐』の下段右画像は斜めから絵だけを撮影したものです。なぜ斜めからの画像なのかは【ちょっと撮影アドバイス】を読んでいただければ腑に落ちます。絵を斜めから見るということは現地に行かないとできないことです。画集でも見ることができない画像なので、これはこれで貴重かも......(^^) 下段の画像はどちらも別窓で拡大表示できます。画像をクリックしてください。

【ちょっと撮影アドバイス】

 イタリアではここに限らずほとんどの美術館で撮影可能です。ただし、フラッシュや場所を占める三脚の使用は厳しく禁じられています(三脚使用不可という表示はどの場所でも表示はないけどダメ。一脚でも怒られるだろうなあ)。ここは薄暗いため、明るいレンズがどうしても必要です。シャッター速度の表示を見て、手ブレを防ぐことは困難と思いましたが、それなりに工夫しながらダメもとで撮影しました。はじめ、yu はガイドの了解で小型三脚を取り出しましたが、監視員が飛んできてえらい剣幕で叱られました。その後ガイドが監視員をなだめておりました......(^^ゞ

 仕方なく、柵に肘をついて撮影したのが右端の画像です。こうでないと画面に収まらなかったのです。中央の画像は広角で離れた所を撮っているのでブレが目立ちません。これは自分の両肘を体に押しつけて撮影しました。壁画正面からの写真もダメもとで撮っておけばよかったと後悔しきりです。モントル・ファノの「磔刑」の方は照明がもっと暗い感じでした。ここは15人制限で約15〜20分の鑑賞になります。撮影に人影が邪魔になることはありませんが、広角の明るいレンズ、照明のカブリを緩和するフィルターとかがあるといいと思います。地面にカメラを置いて、ノーファンダーでタイマーか、リモコンがあればそれを使うといいでしょう。ここでは時間的な余裕がなかったのでそれが出来ませんでしたが、他の場所では床や椅子にカメラを置いてのリモコン撮影はかなりできました。くれぐれも自動フラッシュ機能を停止しておくように注意してください。叱られるというより、貴重な作品が痛みます。大変な剣幕で怒る監視員がいればこそ、これらの遺産が守られていると言えます。(現在は撮影禁止になったそうです)



構  図


サン・マルコ寺院 キルランダイヨ「最後の晩餐」

 イタリア・ルネッサンスが生み出した一点透視図法により、見る者にあたかも隣室の出来事であるかのような錯覚を覚えさせる構図になっていますが、その一点をキリストに集約させることで、造形的な中心、霊的な中心としてキリストが置かれています。実際、洗浄後キリストのこめかみから釘の痕(下右図の中央)が発見されました。ここに紐を付けて、ちょうど墨壺で線をひくように下絵を描いたのです。よく「最後の晩餐」はだまし絵であると言われますが、食堂と対面式にして、部屋が続いているかのように思わせる工夫がなされているところから来ているのでしょう。人物も等身大で描かれています。しかし、床の高さは明らかに違うのだし、わざわざだまし絵というほどのものでもないと思います。ドメニコ・ギルランダイオの「最後の晩餐」(右上画像)も同じ位置関係で、むしろこの絵の方が梁がうまく使われていて効果的な感じです。

 人物はそれぞれに動きを伴っていて、左右対称形の安定した構図とバランスがとられた形になっています。ラファエロの「アテネの学堂」も同じような構図ですね。12人の弟子だちはそれぞれ3人ずつ4つのグループに分けられており、このグループは絵の上のリュネットと対応するように1+2+1という配置になっています。このリュネットもダ・ヴィンチが描いたものです。人物が動きをともなっているのには、手の表情が大きくかかわっています。また、画面の中に流れを作り、議論がキリストに集約されるように工夫されて、まさしくものを語る手になっています。一つひとつの手も注意深く鑑賞してみて下さい。

 この絵の中で yu が一番納得がいかなかったのがキリストの顔です。なにか貧相な顔で、品性というものが見えないのです。調べていたら、この顔は未完成のままだとのこと。はあ、納得。ダ・ヴィンチは未完の作品ばかりなので、端から端まで傑作と思ってはいけないですね。自分の目を信じましょう。


    


クリックでアニメーションします

 右側の線画の画像は、この絵の部屋空間を立体的に描いたものです。クリックすると、別窓でアニメーションします(300kb)。これを見ると、不自然な部屋であることがわかります。構図がいかに技巧をこらしたものであるか理解できます。また、この不自然さとダ・ヴィンチが舞台芸術家でもあったことや床の端に舞台のへりのような線が描かれていること、絵の上の半円形のリュネットに絵がぴったり収まっていることなどから、舞台という設定で描かれているのだという説もあります。舞台のへりについては修復後画像の拡大画像(「洗浄後の画」の項の下右画像)ではっきり確認できます。絵の下端です。この説については「当たり!」と yu は思います。その理由は「関連資料」の「聖史劇」の項を参照してください。

 ところで、この絵が描かれた食堂は細長い空間です。この絵の部屋空間と食堂の空間はかなり似通っているような気がします。と言うよりは、ほぼ同じスペースだと思います。ダ・ヴィンチは最後の晩餐を通説である「隣の部屋の出来事のように」描いたのではなく、「鏡」として描こうとしていたのかもしれないという気がしたりもするのですが。それはつまり、僧たちが今まさに体験していることが映し出されているのだというバーチャルなものにしようという試みです。そのために絵の空間を食堂の空間に合わせようとしたのではないかと思ったり......... 演劇という追体験装置がここに完成するのです。

 一列に人物が並ぶ構図はすでに過去の「最後の晩餐」絵画に見られるものですが、ユダだけが前に並ぶという、ユダだけを別扱いする構図になっていました。もっと時代をさかのぼると、丸テーブルで描かれています。歴史的には長方形のテーブルは後世の風俗であり、キリストの時代には丸テーブルが使われていたと推測されます。丸テーブルでは構成するのが困難ですよね。

 ダ・ヴィンチの構図は1480年に描かれたドメニコ・ギルランダイオ作品の影響を受けているようです。それには背景に鳥が舞う大きな窓が開き、テーブルの位置やテーブルクロスなどにも共通点が見られます。最後の晩餐の舞台は2階なので、窓からの風景は見晴らしのいいものになります。そこにはいろんな意匠を凝らすことができるのでいいアイデアです。

 ギルランダイオも1447年のアンドレア・デル・カスターニョ作品の影響を明らかに受けています。そして、ダ・ヴィンチ後のアンドレア・デル・サルト作品(1519〜1527年)はダ・ヴィンチの影響を受けます。みんな先人の作品からいろんなものを受け継いでいます。


アンドレア・デル・サルト


 このアンドレア・デル・サルト作品ではユダがイエスの右手側に座っています。ダ・ヴィンチの革新性をもう一歩進めようとしている印象を受けます。



配  色


 キリストの衣が赤、マントは青というのは昔からの取り決めです。これを基準に右側に暖色系、左側に寒色系を配して、キリストの赤と青に呼応する形になっています。マントの青が右隣のヤコブの薄緑を介してピリポの赤いマントと対比させ、衣の赤は左隣のヨハネの暗い色彩を介して、ユダの灰青色と対比されています。光は画面左から差しこみ、右側の壁が明るく左側は暗くなっていますが、両端の人物もそれに応じた配色がなされています。



画法と顔料



 この絵の不幸の始まりはダ・ヴィンチが採用した画法にあります。ルネサンス期の壁画には普通フレスコ fresco が用いられました。この画法はポンペイ壁画にも見られるように古い歴史を持つとともに、現在でもポンペイの壁画が鮮やかであることから永続性を持つ画法であることも証明されていると言っていいでしょう。少し詳しく説明します。

 まず、下地としての漆喰は消石灰と砂を主要材料としますが、時代と地域により、大理石粉、麦わらなどが加わることもありました。それをあらかじめ粗塗りしておいた壁面にコテで塗り広げると、その表面では消石灰が空気中の炭酸ガスと接触結合して炭酸カルシウムの被膜を形成し、他方では徐々に水分が空気中に蒸発します。この化学反応の進行中に、つまり漆喰がまだ完全には固形化せず濡れた状態のうちに、水に溶いた顔料を筆で塗ると、顔料は石灰分で包まれ、漆喰層に完全に固着して一体化した顔料層が表面に形成されることになります。しかし、下地の漆喰が乾燥するとともに顔料も定着するので、広い壁面を描くことは困難で、13世紀後半から下地の乾燥の具合にあわせて1日で仕上げられる区分(ジョルナータ giornata)ごとに作業が進められました。ルネサンス期の壁画はほぼこの描き方です。部分的には乾いてから描くセッコ secco も用いられていますが。

 これに対してダ・ヴィンチが採った画法はテンペラ tempera です。これもギリシャ・ローマ時代からある技法ですが、板に描くときに使われる技法です。主に卵、時に膠や油、水を顔料と溶き合わせて描くもので、表面に顔料を接着するような感じになります。後に油絵にとって代わられることになりますが、重ね塗りができ、つややかな深みのある色を出すこともできますし、緻密な筆遣いも可能になります。これはダ・ヴィンチの手にはどうしても必要な条件でした。しかし、壁の表面を接着剤で固めたような壁は湿気の多いイタリアの風土にはやはり合わず、通気が悪くなって顔料の剥落を止めることは出来ませんでした。ましてや、そこは食堂というさらに湿気の多い場所でした。ダ・ヴィンチもそんなことはよくわかっていて、壁に鉛白の地塗りを施して、顔料の剥落が起こらないような工夫をしていますが、天才も失敗することはあるものです。画家で美術史家のジョルジョ・ヴァザーリは1566年に「もはや染みのかたまりに過ぎない」と記しています。なお、ダ・ヴィンチは卵と油を主としたテンペラで描き、リュネットの部分にはセッコが採用されています。

顔 料

 「最後の晩餐」には空色はアズライト、濃い青はラピスラズリ、朱色はバーミリオン、赤は鉛丹、透明な赤はラッカーが用いられています。これらを混ぜ合わせていろんな色彩を出しています。

 ルネサンス時代に使われていた顔料は基本的には古代から継承されてきた無機顔料が使われ、動植物の有機染料が色材として加わった時代です。例外は青色でガラス性の顔料「スマルト」も使われました。1200〜1350年にかけては、新たな顔料も加わりましたが、古代から使われてきた顔料を、より純粋な物に精製加工する技術が急速に発達した時代で、美しい色彩の輝きを与えています。

 改良がなされた青と赤の代表的な色は、ウルトラマリンとバーミリオンです。ウルトラマリンはこの時代天然鉱石のラスピラズリの不純物を除く製法が発達しました。それはアラビヤ文化や錬金術の活躍がこれをもたらしました。現在の合成法の色から推測しますと、同じ青でも、青味強い色から赤味の強い色まで各種のウルトラマリンが作られていたようです。バーミリオンでは天然鉱石から得た水銀を主成分としますが、鉱石の辰砂から不純物を除きバーミリオンの美しい色が作られました。インド等で生産された植物染料の「藍」インジゴ(プルシアンブルーに似た色)も色材として使われていましたし、赤の代表的な色、あかね(茜)の根から抽出されたアリザリンは「マダ−」「マダ−レーキ」ととして今も使われています。この時代には画家が満足しうる色材が出揃いイタリアルネッサンスが花開く要素が作られたと思います。ダ・ヴィンチの絵もこうした顔料の発達の恩恵を受けています。



イエスと十二使徒


 聖人には後光を描くのが伝統でしたが(「関連資料」の絵を参照)、レオナルドは後光を描いていません。しかし、キリストを見ると、窓の外からの光と窓の上のアーチによって、あたかも仏像の光背があるかのように見えます。余談ですが、キリストの右肩の後ろにはゴシック式の教会が描かれています。エルサレムには最後の晩餐の部屋と言われるものがありますが、これは中世の建築物で、それ以前には教会が建っていたようです。窓から見える風景はイタリアの風景でしょうか。

「最後の晩餐」のためのスケッチ  人物の描き分けはその位置と持ち物で表現されたりしたこともありましたが、レオナルドはその表情や動きで描き分けています。「最後の晩餐」のためのスケッチを見ると、いろいろと考えあぐねていた様子が見てとれます。特にユダの表現には伝統がありましたが、レオナルドが引き継いだ伝統は黒髪・黒髭・銭袋です。ユダが座る位置はレオナルドも当初は伝統に従ってひとり前列に座らせる予定でした。これはヨハネ福音書を重視して、その結論を明示したものですが、彼はルカ福音書からイエスの言葉が発せられた直後の瞬間を切り取っています。また遅筆を責められたレオナルドは、ユダの顔を貧民窟で探しているが未だに見つからないと言い訳しています。12使徒 The Twelve Apostles についての詳細は「12使徒」のページを参照してください。




聖ヨハネ(使徒ヨハネ)の女性顔 (2008年3月追記)


 『ダヴィンチ・コード(ダン・ブラウン)』騒動も一段落したようなので、使徒ヨハネについてだけ触れておきます。ただの小説なのに、事実に基づくと人騒がせなことを言うので、まあその通りになりましたね。取り上げる必要もないかなと思っていましたが、ヨハネの描写には気になるところもあるので追記します。「12使徒」のページですでに記した通り、ヨハネの描写には伝統というべきものがあります。それは聖書の「弟子の一人で、イエスが愛していた者が、イエスの胸にもたれて(ヨハネ伝13:23)」「イエスの胸によりかかったまま(ヨハネ伝13:26)」という記述に基づいて、その姿勢だけでなく、その様子からなよなよした風情で描くというものです。ここから男っぽいヨハネはあり得ないわけですね。髭もとんでもないわけです。そもそも「イエスが愛していた者」がヨハネであるという確証もないと言われていますが、ダ・ヴィンチはその考えに沿って描いたことだけは間違いないでしょう。


ヨハネの画いろいろ
ウゲートカスターニョギルランダイオシニョレッリジョットデューラーバッサーノ
     

 『岩窟の聖母』で当初お約束である光輪を描かなかった(ルーブル版)ダ・ヴィンチらしく、『最後の晩餐』ではキリストから離して隣の人を描いています。だからこそこの人物がヨハネなのだと思います。そうでなければイエスと反対に体を傾けた姿勢の意味がない。決して「M」字形を作るためなんかじゃありません。動きのある構図を作り出すために、静的な事実を淡々と描くようなものではなく、キリストの預言という一瞬を切り取ることにしたわけです。キリストの驚愕の言葉を聞いて、まだ身を横たえているのは却って不自然になりますから、ヨハネは身を起こしていることになります。お約束の絵柄ばかりではダ・ヴィンチは死んでしまいます。しかし、一番基本のお約束である、「キリストと12使徒」という登場人物を踏み外して、マグダラのマリアを描くなんてことは妄想以外のなにものでもないです。このお約束は「ストコマ」というような思いこみではなく、フレームなのですから。 洗礼者ヨハネ(部分)

 容貌が女性であると指摘されていますが、まあその通りです。しかし、前述したとおり女性顔であっても問題はないわけで、注文した教会がクレームをつけたという話も寡聞にして知りません。ダ・ヴィンチが描く『洗礼者ヨハネ』も男性とも女性とも言えない中性的な描写がなされていますよね。ダ・ヴィンチは性を曖昧にする、というよりは中和する特徴をそもそも持っていたと思います。

 それにしても『最後の晩餐』のヨハネは女性的であると yu も思います。疑問に思っていたら、BBCの番組で『岩窟の聖母』のマリアと同じモデルが使われているという情報を得ました。顔がぴったりと重なるのです。ダ・ヴィンチは同じモデルを別の絵で使うことがあるそうで、ここでもそれが当てはまったのだそうです。そりゃ、女性にみえるはずですよね。ヨハネの容貌は未完のままなのか、何かを意図して同じモデルにしたのか、疑問は残されたままです。


『最後の晩餐』のヨハネ『岩窟の聖母』のマリア(ルーブル版)
『最後の晩餐』のヨハネ『岩窟の聖母』のマリア(ルーブル版)



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