プロフィール 年  譜

プリオシン海岸  カムパネルラの切符


神谷美恵子

器の人


神谷美恵子肖像

Kamiya Mieko 1914-1979




私の一生は

ただ恵みをうけるための

器であった




夫と子どもたちと 聖なる人の中で、神谷美恵子は少し特異な位置にあります。なぜなら幸せな家庭生活を営むことのできた人だからです。彼ら不思議な人々は多くの場合、独身であったり、家族を捨てたり、あるいは家族と不和であることが多いものです。しかし、美恵子は幾度もの死の危機に見舞われながらも、研究、教育、文筆活動に携わり、家族のパジャマを手作りする幸せをも感じる人でした。

 美恵子の人生を語る時、切り離すことのできないものがあります。当時、「らい病」と呼ばれていた「ハンセン病」との出会いです。ここではその歴史的経緯から差別的な語感のある「らい」という言葉が現在忌避されているように、「ハンセン病」という名称を用います。フランチェスコも若き日にこの病人たちと出会い、人生の意味を考え直す契機になっていますが、この病いは罹患した人の人生ばかりだけでなく、その病いに出会った多くの人の人生を聖なる方角へ向かわせもしたのです。そんな意味では人類にとって悲惨であったと同時に偉大な病いでもありました。日本文学では患者であった北条民雄が「いのちの初夜」を作品として残しています。

子ども時代 聖なる人々にほぼ共通して見られるものに「負い目」があります。自分の恵まれた環境に負い目を感じるのです。賢治、フランチェスコ、トルストイ、みんな裕福な家柄でした。美恵子の家は裕福ではなかったと言われていますが、彼女が育った環境を見れば、十分その範疇に入るだろうと思います。美恵子は「べつに理屈ではない。ただ、あまりにむざんな姿に接する時、こころのどこかで切なさと申し訳なさでいっぱいになる」と述べています。彼女が最初に経験した負い目は子ども時代のスイスでのことでした。りんごの皮を剥いていたら友だちが皮が好きだと言ったのであげました。彼女は後年、皮が好きだったのではない、本当は実が食べたかったのだと気付くことになります。そして彼女が生涯の十字架として背負った事件もあります。美恵子を慕っていたある女性が美恵子の結婚等に衝撃をうけて服薬自殺しているのです。

 ハンセン病と向き合うことになると、「なぜ、わたしたちでなくあなたが? あなたは代わってくださったのだ」と「癩者に」という詩に書きます。聖なる人々にほぼ共有する感覚、それは「身代わり」感覚です。ここに育ちの共通性が存在する理由でもあります。しかし、凡夫から見れば、聖なる彼らに対して「なぜわたくしたちでなくあなたが?」という反問も成立します。自分の苦しみの源を他者の苦しみに求め、なぜ他者の苦しみを身代わろうとするのか。カムパネルラの切符を与えられた人々はみんな身代わりの人なのです。彼らははその切符でどこかの天上へ向かったのです。では、どこまでも行ける切符を与えられたジョバンニとは何者なのでしょうか。聖なる人々が社会に与えた影響は少なからずあります。しかし、人類社会を根底から変革する力になり得たかという問いに対しては、「否」と考えざるを得ません。身代わることなく、地上と天上を行き来する双方向切符を与えられたジョバンニとは何者なのか、いつかこの答えを見出したいものです。

長島へ船で通う キリスト教にはアガペーという愛があります。マルコ伝12章でイエスが最も大事な戒めとして語っているもので、神への愛と隣人愛を指します。美恵子はキリスト教(特に無教会主義クエーカー)に強く影響を受けていましたが、クリスチャンではなく、後に仏教からも深い影響を受け、特定の宗教にこだわらないようになったようです。父は洗礼を受けており、母房子はクエーカー教徒でした。宗教が果たす本質的な役割について、「人格に新しい統合を与え、意味感、すなわち生きがい感をあたえることであろう」と記しています。彼女にとって宗教とは、愛と謙虚をもたらすものとして自覚されていたと思われます。実際、彼女の愛生園での活動は医師というよりむしろ看護あるいは介護という立場でなされたものです。彼女は寄り添って共に生きること、つまり隣人として行動していました。そうしようとしたわけではなく、そういう立場にしか立てない人でした。yu も医師とは本来こういう職業なのだと思います。

療養中の美恵子・軽井沢 2回生まれと美恵子が言う宗教的な変革体験が結核で絶望してる時に起こっています。
.......「何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真暗な袋小路としかみえず、発狂か自殺か、この二つしか私のいきつく道はないと思いつづけていたときでした。突然、うなだれている私の視野を、ななめ右上からさっといなづまのようなまぶしい光が横切りました。と、同時に私の心は、根底から烈しいよろこびにつきあげられ、自分でもふしぎな凱歌のことばを口走っているのでした」......
 これも聖なる人々、特にクリスチャンが人生を転換させるていく契機としてしばしば見られる現象です。先に挙げた人々以外でも、マザー・テレサ、ナイチンゲール、ジャンヌ・ダルクなど枚挙にいとまがないくらいです。美恵子は精神科医らしく、次のように分析的に記しています。「変革体験が急激にあらわれるときには、しばしば光の体験を伴う。単なる抽象的な意味での光ではなく、じっさいに視覚体験としてあらわれるのである」

 美恵子は啓示だけでなく、多くの人々からの支えと影響の下に聖なる部分を広げていったという意味で確かに器の人でした。来年「切符」で取り上げる予定のサン=テグジュペリの「城砦」は彼女の座右の書でしたし、ナイチンゲールも深く影響を与えた人です。他にミシェル・フーコー。また、父多門も新渡戸稲造に深く私淑して、田中正造の足尾銅山鉱毒事件の調査団に参加するなどした人物です。彼女は常に聖なる人々の近くにいたし、いようとした人だと言っていいでしょう。ちなみに、宮澤賢治については性欲を克服して実践していったことに感心しています。

 私の一生はただ恵みをうけるための器であった、と美恵子は言います。しかし、それは溜め込むだけの器でなく、発酵させることによってあふれるばかりにこぼれ落ちる器でした。




年  譜


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      資  料


癩者に

光うしないたる眼うつろに
肢うしないたる体担われて
診察台にどさりと載せられたる癩者よ、
私はあなたの前に首を垂れる。

あなたは黙っている。
かすかに微笑んでさえいる。
ああしかし、その沈黙は、微笑みは
長い戦の後にかち得られたものだ。

運命とすれすれに生きているあなたよ、
のがれようとて放さぬその鉄の手に
朝も昼も夜もつかまえられて、
十年、二十年と生きてきたあなたよ。

なぜ私たちでなくあなたが?
あなたは代わって下さったのだ、
代わって人としてあらゆるものを奪われ、
地獄の責苦を悩み抜いて下さったのだ。

許して下さい、癩者よ。
浅く、かろく、生の海の面に浮かび漂うて、
そこはかとなく神だの霊だのと、
聞こえよき言葉をあやつる私たちを。

かく心に叫びて首をたるれば、
あなたはただ黙っている。
そして痛ましくも歪められたる顔に、
かすかなる微笑みさえ浮かべている。



城砦


 サンテグジュペリの遺稿です。彼自身が遺稿になると生前から繰り返し述べていたそうです。つまり完成を諦めていたということです。この作品は聖書的な構成を持ち、小説でもなければ、論文でもなく、エッセイでもないという、なんともややこしいものです。「城砦よ。私はおまえを人間の心のなかに築くだろう」という一文に象徴されるように、作者の内的空間が重視された作品です。この中に「交換」という考えが記されています。それは「人間は何かひとつの仕事に打ち込むことによって、その仕事と生命を交換するのだ」ということで、美恵子はこの「生き甲斐」観に共鳴しました。
 美恵子はどう思ったか知りませんが、「交換」についてはこんな言葉も記されています。「人生は、それをすこしずつあるものと交換していくのでなければ意味をなさない」 こんなのもあります。「事物はおまえがそれに自己を与えるときにこそ、偉大なものとなる。たとえば、石材の光沢とおまえの労働とを交換しようと試みたときに。けだし、石材の光沢は宗教となりうるからである」......ふむふむ。 


美恵子の好んだ聖書の言葉


ルカ伝14章
「宴会を催すときにはむしろ貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招くがよい。そうすれば、お返しができないから、あなたは幸いである」

ヨハネ伝15章
「人がその友のために自分の生命を捨てること、これより大きな愛はない」


長島愛生園


岡山県長島 岡山県南東部、邑久(おく)町に属する瀬戸内海上の島にあります。周囲約20kmで東西に長い。東半には1930年光田健輔の指導で設立された長島愛生園、西半には1938年大阪から移転した光明園の二つのハンセン病療養所があります。1988年には入園者らの17年にわたる訴えが実を結び、邑久長島大橋が完成しています。ちなみに差別や偏見のもとになった「らい予防法」は1996年4月に廃止されました。また療養所は全国に13あり(1997年資料)、群馬県草津にある療養所はかつて全国の患者から「草津送り」という言葉で恐れられたところでした。なぜなら、反抗する患者はここの重監房に収容されたからです。その多くが寒さと飢えで死んだとのことです。


神谷美恵子批判


 このページは1999年に書いたものです。当時は神谷美恵子を批判するような記事を目にすることはありませんでしたが、近年「批判」に関心があってこのページを訪れる人が増えたようです。そのため2012年にこの項を追記します。

 この批判についてはらい予防法と強制隔離政策に対する姿勢が主であるようです。長島愛生園を設立した光田健輔は1953年制定のらい予防法に深くかかわった人です。当然この人物にも光と影があります。だれも手を差しのべようとしなかった時代に献身的に尽くしたとしても、それが患者から見て不快に感じるところがあったとすればその批判は受け止めなくてはなりません。ましてや、らい予防法と強制隔離政策は「不快」の範疇をはるかに超えて、どれほど患者とその家族や親類縁者を苦しめたかを考えれば、その医学的、社会的、人道的な過ちを見過ごすことはできません。

 しかし、そうさせたのは誰かという問題が伏在していることも忘れてはならないでしょう。ほとんどの国民が自分の手を引っ込めて、癒やされるべき病者を追いやったのですから。神谷美恵子はらい予防法に反対せず、強制隔離政策の下で仕事を続けました。時代を考えると神谷を批判するのは酷だという意見もあるでしょうが、その批判の「むごさ」を踏まえてやはり批判することは大事なことだと思います。人類みんなが同じ過ちを犯したのではなく、その時代の中でその過ちに気づいていた人が一人でもいたら、その過ちを正すことができた可能性があるのですから。

 では、過ちに気づいていたのは誰だ?と問われれば、まず最初に挙げるべきは患者ということになるでしょう。過ちはどこか遠くで行われたのではありません。それは今を生きる僕たちにも当てはまります。過ちを見過ごしていないか、だれもが人権感覚を磨く責務を課されています。神谷美恵子を批判するということは、個人批判というよりも思想批判として受け止めた方がいいと思います。そして、その批判は現在を生きる我々へとつながらなくてはなりません。

 かつて「電信局」でも記したことですが、ノーベル平和賞候補にもなった『原爆の図』の丸木位里・俊夫妻。そして部落差別を糾す『橋のない川』の住井すゑ。戦時中は共に戦意高揚のための仕事をしました。その責任をどう考えるかドキュメンタリー番組の中で問われた丸木位里と住井すゑの返事は言い訳でした。私にとっては彼らの作品が霞んでしまうほどの衝撃でした。番組では他の作家も登場していましたが、誰もが言い訳しか口にしませんでした。

 戦時中は国策協力のために作家たちの日本文学報国会が結成されましたが、敗戦後はなんらの声明を出すことなく解散しました。そしてほとんどみんな沈黙してしまいました。そんな時代だったんだからしかたがないで済ませていけば、当時過ちを見抜いて闘って死んでいった人々が浮かばれません。みんなが差別していたからとか、みんなが戦争に協力していたからとかいう言い訳がまかり通るなら、やはり差別は温存され、原爆は落ちるのです。

 神谷美枝子のどこに思想的な問題があったのかを明らかにすることは彼女の本意だと思います。その過ちを指摘された時に、彼女が言い訳をしないことだけは間違いないでしょう。最後に自伝執筆についての晩年の言葉を記します。

「何か成功物語を書いているなら、私は原稿を破りたい。数々のミスにもかかわらず、多くの人の助けで『運』に恵まれたのだ。」

 そして、神谷美枝子は運に恵まれなかった人々のそばで生きたかったのです。




      語の解説


はんせんびょう レプラとも言います。菌による慢性伝染病。潜伏期は数年から20年以上に及びます。かつては遺伝性疾患と誤認されていました。身体各所に特有の斑紋を生ずる斑紋癩、神経が冒され知覚障害と栄養障害が現れる神経癩、皮膚・粘膜・内臓諸器官に結節(癩腫(しゅ))ができる結節癩の3型、およびそれらの混合型があります。らい予防法(1953年)により、医師の届出義務、国立療養所の設置、患者の入所措置、患者の福利増進などが規定されていましたが、ハンセン菌はきわめて伝染力の弱い病原菌であること、早期発見、早期治療によって治癒も早く菌も陰性になることから、1996年4月、同法は廃止されました。かつては不治の病とされ、世界的に見ても、偏見・差別は過酷を極めました。現在もその差別・偏見は解消されていません。
いのちのしょや 多磨全生園へ20歳すぎで入院した患者であった北条民雄が書いた小説。実名ではなく、その人となりも知られていません。彼は入院する前年に結婚し、その後発病しました。この小説は、人として生きることを拒否された状況の中で、生きるということを問い直す一夜の魂の軌跡を描いたもので、川端康成の推薦により「文学界」に掲載されました。彼はその後も自殺を図ったりしましたが、腸結核により23歳で死去しました。他に「間木老人」「癩院受胎」「癩家族」などがあります。神谷美恵子は民雄の入院と前後してここを訪れ、初めてハンセン病と出会います。
あがぺー 神の人間に対する愛。また、人間の、神や隣人に対する愛。ここでは後者を指しています。マルコ伝ではこう記されています。
 イエスは答えられた。「第一の戒めはこれである。『イスラエルよ、聞け。主なる私たちの神はただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』。これより大事な戒めは他にない。
むきょうかいしゅぎ 内村鑑三に始まり、その門下の人びとに受け継がれたキリスト教の信仰と主張です。洗礼、聖餐式、典礼など教会の制度によらず、神の言は聖書によってのみ与えられ、救いは、信仰のみによるとするものです。
くえーかー クエーカー(Quaker)とは自称Society of Friendsで、〈基督友会〉〈フレンド派〉とも称されるピューリタン系プロテスタントの一派のことで、この名はこの派の人びとが神秘体験にあって身を震わせることから起こったとされています。17世紀半ば英国のG.フォックス(1624-1691)が創始、W.ペンなどの協力で英米を中心に発展しました。万人に神の内なる光が宿っていると信じ、その導きに従って行動すべきことを説きます。暴力否定、戦争反対の平和主義に徹し、良心的兵役拒否で知られました。形式的な制度を遠ざけ、洗礼式もありません。アメリカ映画に「特異な社会」としてよく登場するように、好奇の目と多くの偏見にもさらされている宗派です。
父多門は房子の死後、クエーカーに属することになります。また、房子の弟常雄は無教会派の伝道師でした。美恵子は常雄からも大きな影響を受けたと述べています。
みしぇる・ふーこー Michel Foucault 1926-1984
フランスの哲学者、歴史家。彼の思想をここで説明するのは不可能です。諦めて下さい。それでもと言うなら、しかたないので少し記します。彼は言語を根拠にして人間中心主義、近代合理主義を批判し、権力の構造そのものと、権力と知の相互関係について探求しました。以下、著作を中心に年を追っていくと、1955年よりウプサラ、ワルシャワなどで在外研究のかたわら、「狂気の歴史」(1961年)を書き、近代における権力による狂気の閉じ込めとその言説をえぐり出しました。フランスに帰って1963年、医学的眼差しの考古学と銘うたれた「臨床医学の誕生」で近代医学成立における医学的言説の転換をとらえ、またブランショ、バタイユらの文学に関心を寄せ、「レーモン・ルーセル」を著しました。1966年の「言葉と物」は〈人文科学の考古学〉と副題され、近代人文諸科学における知と言説の編制を究明し、〈人間〉とはそうした言説の産物にほかならないとしました。以後も刑務所調査集団を組織するなど政治活動に携わり、1975年「監獄の誕生」では権力支配の構造について著し、その新たな権力論を展開すべく「性の歴史」4巻を企て、第1巻「知への意志」(1976年)で性言説の編制と権力の関係を問いましたが、のち計画を変更し、古代ギリシアまで遡って生の自己規律の歴史を解明する「快楽の活用」「自己への配慮」(ともに1984年)を著しました。また同性愛を含む自身の生の規律を〈生存の美学〉として説いてもいます。エイズで死去。他の著作に言説概念から言表概念への転換を試みた「知の考古学」、近世犯罪者の生の証言集を企図して書かれた「汚名に塗(まみ)れた人々の生活」などがあります。
にとべいなぞう 1862-1933 農業経済学者、教育者。南部藩士の子として盛岡に生まれました。札幌農学校に入り、W.S.クラークに導かれてキリスト教に入信。欧米に留学して農業経営学を修め、帰国後、一高校長、東大教授、東京女子大学長等をつとめて学生に大きな影響を与えていきます。また国際連盟事務次長として活躍しました。クエーカーの信仰と広い教養を備え、国際的日本人として世界平和と日本の開明のために貢献した人物として知られています。カナダで客死。
たなかしょうぞう 1841-1913 明治の政治家。栃木県出身。1879年「栃木新聞」を発刊し自由民権運動に参加。民権運動弾圧に辣腕を振るった県令三島通庸と衝突し下獄。第1回から衆議院議員に連続6回当選。足尾鉱毒事件とは、栃木県足尾銅山鉱毒流出で1880年代後半から渡良瀬(わたらせ)川沿岸農地が汚染された公害事件です。地元からの数次の建議、上申にもかかわらず改善がみられなかったため、1897年以来たびたび農民が大挙上京して抗議行動を起こし警官と衝突、一大社会問題となりました。代議士田中正造は1891年に議会に訴えて世に被害の惨状を知らせましたが、さらに被害民の鉱毒反対運動が大弾圧をうけると、1901年天皇に直訴します。言うまでもなく直訴は失敗しましたが、これを機に世論は沸騰し、社会主義者やキリスト教徒らの支援が活発化しました。これに対し政府は1902年鉱毒調査会を設置し、鉱毒問題を治水問題にすりかえて、事態の鎮静化をはかり、おりから世論の関心が日露戦争へ向かう中、甘言と強権により下流の谷中(やなか)村を破壊し、ついで渡良瀬川改修工事に着工しました。一方、田中正造は谷中村の遊水池化に抵抗、終生、利根川・渡良瀬(わたらせ)川水系の治水問題に献身しましたが、その死によって鉱毒問題は表面上終わりを告げました。しかし汚染源対策が不十分なため、鉱毒被害も足尾山地の荒廃もやむことはありませんでした。気骨の政治家であるとともに、その思想についても多くの研究がなされています。現在監獄に入る政治家とは違って、昔の監獄入りした政治家はみんな立派でした。

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