プロフィール 年  譜

プリオシン海岸  カムパネルラの切符


オードリー・ヘプバーン

手を添える人



オードリー・ヘプバーン肖像

Audrey Hepburn 1929-1993




年をとったら人にはふたつの手がある

ひとつは自分を助ける手

もうひとつは他人を助ける手




 「平和ぼけ日本人」と言われて久しいです。戦争なんてみんな嫌いだから、戦争をやる理由を見つけるのはなかなか難しい世の中です。そのせいでしょうか、「人権侵害を避けるために」というもっともらしい理屈が政治家やマスコミから聞こえてくる時代になりました。人権侵害を防ぐために戦争という最大の人権侵害を行う矛盾の中に私たちは放り出されています。戦争を放棄した過去は遠ざかり、人権意識の高まりがかえって思考停止を招いているような気がしてなりません。今回は「一緒にバカになることはやめましょう」(スーザン・ソンタグ)をBGMにして展開していきます。

 昨年末(2004年末)、石垣りんが亡くなり、スーザン・ソンタグが後に続きました。石垣りんは「弔詞」で詠います。

          あなたはいま、
          どのような眠りを、
          眠っているだろうか。
          そして私はどのように、さめているというのか?
          死者の記憶が遠ざかるとき、
          同じ速度で、死は私たちに近づく。                 (「弔詞」より抜粋)


『ローマの休日』ポスター オードリーの話なのになぜ政治や戦争の話題なのだ?と訝しく思った人には、このページを読む価値があるやもしれません。彼女は人類の不幸の源として戦争を見つめ、政治を考えていた人だったからです。

 さて、オードリーが世界に現れたのは映画『ローマの休日』でした。アカデミー主演女優賞を受けることになった『ローマの休日』ではヘプバーン・カット、ヘップサンダル、『麗しのサブリナ』ではサブリナ・パンツと、時代の流行にも影響を及ぼしてきました。ビリー・ワイルダー監督が「彼女の出現はふくらんだ胸の魅力を過去のものにするだろう」と言ったというのもその一例でしょう。その言葉が本当であったかのかどうか yu は知りませんが。

バレエレッスン中のオードリー(中央) 裕福な家庭に生まれたオードリーは、生まれた時と同じように、ただ裕福で不自由のない人生を送っただけの人ではありません。子ども時代には戦争という辛い体験をしましたが、戦後はバレエを経て映画界に入るとトップスターまで登りつめました。

 普通ならここまでの人生です。ここまでの人生でも十分すぎるほど奇特な人生だと言えるでしょう。しかし、オードリーは13歳の時にもうひとつの人生と交差する体験をしていました。それはまだ見知らぬ一人の少女の人生です。

 1942年、オランダでのことです。母とアルンヘムの駅に行くと、家畜を運ぶ貨車が停まっていて、ドイツ兵たちがユダヤ人たちを男女別に分けて乗せているところを目撃しました。1940年、オランダにドイツ軍が攻め込み、それ以来ユダヤ人は捕まえられて収容所に送られていました。レジスタンスにも協力したオードリー家は、一時地下生活を余儀なくされました。

 アルンヘムの駅で交差したもうひとつの人生とはアンネ・フランクです。オードリーはアンネ・フランクと同じ年の一月違いの生まれでした。言うまでもなく、この時アンネが駅にいたわけではありません。この時期、アンネは隠れ家で日記を書き綴っていました。オードリーはのちに『アンネの日記』についてこう述べています。
「アンネと私は、同じ年に生まれ、同じ国に住み、同じ戦争を体験しました。違っていたのは、アンネは家の中に閉じこもり、私は外にいたという点だけです。まるで自分の体験をアンネの視点から読んでいるような気がしてなりませんでした。」
しかし、あるいはそれゆえに、57年に出演依頼がきた映画『アンネの日記』をオードリーは引き受けることができませんでした。

バングラディシュで オードリーは戦後の一時期に、ユニセフの前身「アンラ」の救援物資で生きのびた経験をもっていました。そんな経緯もあって、71年にユニセフのドキュメンタリー『愛の世界』に出演し、88年ユニセフの特別親善大使となったのでした。

朗読コンサート 1988年エチオピアから始まり、トルコ、南アメリカ、中央アメリカ、スーダン、バングラシュ、べトナム、1992年のソマリアへと4年間続きました。彼女は「私はこの仕事をするためにこれまで女優をしていたのかもしれない」とまで言っています。こうしてオードリーはユニセフの親善大使の経験を経て、90年にようやくアンネ・フランクの日記を朗読するコンサートを開きました。42年に交差した人生にようやく寄り添う勇気を得たのでした。

 1991年のユニセフ・スイス委員会で、オードリーはその年に起こった湾岸戦争でのアメリカ空爆によりイラクで15万人が死に、その大半が子どもであったことを指摘しています。
「戦争中のオランダで、私は生き延びることができた。しかし、もっとつらい状況の中で子どもたちは死に続けている」
なぜそんなに多くの子供たちがと不思議に思う人もいることでしょう。先進国と呼ばれる国とそうでない国ではその世代の構成に大きな違いがあります。それは子どもの人口比が圧倒的に大きいということです。イラクでは国民の半分が15歳以下だと言われています。

 オードリーは息子たちへの遺言として、こんな話をしました。
「忘れないでください。年をとったら自分にふたつ手があるということを。ひとつは自分を助ける手。そして、もうひとつは他人を助ける手」
 長男ショーン Sean Hepburn Ferrer (ヘプバーン子供基金理事長) は2004年の「遺品展」で来日時、母の生涯の仕事の中でユニセフ親善大使の活動を一番誇りに思うと語っています。その遺志は伝わりました。オードリーは息子たちだけでなく、世界中に他者に手を添えることの大切さを伝え、目には見えないアンネの手に自分の手を添え、そして、右手と左手を重ね合わせて生きた人でした。




年  譜


オードリーの年譜だけを追うのではなく、アンネ・フランクの年譜を並列させてみました。

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ローマの休日』と赤狩り





Roman Holiday 『ローマの休日 Roman Holiday』 1953年 118分 アメリカ 製作:パラマウント・スタジオ
監督:ウィリアム・ワイラー 原作:ダルトン・トランボ 脚本:イアン・マクレラン・ハンター、ジョン・ダイトン 撮影:フランツ・プラナー、アンリ・アルカン 音楽:ジョルジュ・オーリック 出演:オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック、エディ・アルバート

 ヨーロッパを訪問中のアン王女はお忍びで街へ出かけ、新聞記者ジョーと出会います。ジョーは正体を偽ってローマ市内を案内しますが、いつしか二人の間に恋が芽え....ローマの名勝地を舞台にした一日の出会いと別れのお話です。

This film was photographed and recorded in its entirety in Rome, Italy. 当初はフランク・キャプラ監督がカラーでエリザベス・テイラーとケーリー・グラント主演で撮る予定だったようですが、ウイリアム・ワイラーはマッカーシーの赤(共産党)狩りが吹き荒れるハリウッドを逃れてイタリアで撮影することにし、その予算の捻出のためにモノクロになったのだそうです。右の画像はタイトルの後に出てくるもので、わざわざこんなことを言挙げするのは、ワイラーによる批判なのかもしれません。

 赤狩りのあおりは他にもあります。脚本のハンターはオリジナル脚本賞を受賞しましたが、彼の告白によって脚本はダルトン・トランボ Dalton Trumbo だったことが後年明らかになりました。1940年代から50年代にかけて、アメリカ社会に破壊的な影響をもたらす恐れのある人物の活動を調査したアメリカ連邦議会下院の委員会に非米活動委員会というのがありました。第2次世界大戦中はナチスなどファシスト支持グループを標的にしていましたが、戦後は共産主義者の告発で有名になります。一種の魔女狩りでした。1947年、J.パーネル・トマス委員長は、映画産業における共産主義の影響について非公開の聴聞会をひらき、多数の俳優や脚本家、監督を召喚し、協力を拒否したハリウッドの映画人10人を投獄しました。この「ハリウッド・テン Hollywood Ten」にダルトン・トランボが含まれていたのです。そのため彼は友人のハンターの名前で書いたのでした。93年にトランボはオスカー像を授与されることになりました。ちなみにトランボは「ジョニーは戦場へ行った(71)」「パピヨン(73)」の脚本家でもあります。そして、グレゴリー・ペックは赤狩りの反対運動に参加しています。

「真実の口」のシーン この映画にはいろんなエピソードがありますが、そのひとつはオードリーの演技についてです。グレゴリー・ペック発案の「真実の口」シーンで手を袖の中に隠してオードリーに見せて驚かせたのは演技ではなく、本当にオードリーには隠して撮影されたとのこと。また、車内で別れのキスを交わすシーンでは泣くことができないオードリーにワイラーが怒って泣かせ、それで撮影された話など、周りに支えられてアカデミー賞に結びついたことがわかります。これは「演技が下手という逸話」というよりも、彼女の魅力を伝える逸話ではないでしょうか。袖の中に手を隠した人に、あんなふうに驚ける人はいないでしょう。またアメリカの良心とも言うべきペックは、映画のクレジットでオードリーに配慮するなど、やはり昔から立派な人物であったことがうかがえます。なお、エリザベス・テーラーとはこの映画以降『クレオパトラ』『マウ・フェア・レディ』など出演を取り合うライバルとなっていきました。

 アメリカの赤狩りを逃れてやって来たイタリアですが、ここではファシストと共産党の争いが激化して、平穏な社会情勢ではありませんでした。また、40度の炎天下と行儀の悪い野次馬に悩まされながらの撮影だったそうです。興行的には、観光地としてのローマには馴染みが薄いアメリカでは失敗、日本では大ヒットしました。  


Piazza di Spagna

 最後のおまけにスペイン広場のエピソードを。ここでの撮影に時間がかかったことは有名ですよね。背後のトリニタ・デイ・モンティ教会の時計の動きを追いました。画像をクリックすると別窓で拡大表示します。1枚目は13時40分。2枚目は14時45分。3枚目は11時25分。4枚目が15時50分。影も雲も移っています。何でもないシーンなんですけどね。ちなみに今ではスペイン広場での飲食は禁止されています。



アルンヘム

アルンヘムのマップ
Arnhem オランダ東部、ヘルデルラント州の州都。ドイツ国境に近いライン川右岸の都市で,ドイツとの交通の要衝。歴史的な変遷では、1585年にオランダ共和国の傘下に入り、その後1672〜74年と1795〜1813年にフランスの支配下におかれました。第2次世界大戦中の1940年5月にはドイツ軍に占領され、同年9月の連合国軍の大空襲で奪還されましたが、町全体が廃墟と化しました。






アンネを抱く母エーティットとマルゴット Anne Frank 1929年〜45年 ドイツのフランクフルトアムマイン Frankfurt am Main に生まれました。1933年、ユダヤ人であった家族とともにナチス・ドイツをのがれてオランダのアムステルダムに移住しましたが、オランダはドイツに占領され、毎日のようにユダヤ人狩りがおこなわれるようになった42年7月、父オットーが経営する会社の従業員ヒース Gies 夫妻の協力で、かつての事務所の建物にしつらえた隠れ家 Secret Annex に潜みました。隠れ家では、ダーン一家などとあわせて8人が、2年の間ひっそりと生活しましたが、44年8月4日逮捕され、アンネは1945年3月ベルゲン・ベルゼン収容所でチフスで病死しました。一家が逮捕された後、ミープ・ヒース Miep Gies は証拠隠しのためもあって日記を回収しており、アンネが死んだことが判明した後、アンネが名付けていた『ヘット・アハテル・ホイス Het Achterhuis』(後ろの家)でただ一人生き残った父親オットーに渡されて1947年に出版されることになります。

アンネの日記 ヒース夫妻の結婚式に出かけるアンネたち
アンネの日記 ヒース夫妻の結婚式に出かけるアンネたち
     

Anne Frank その日記は13歳の誕生日プレゼントとしてもらったものでした。アンネの日記は1942年の誕生日6月12日から、ゲシュタポに逮捕される3日前の44年8月1日までの2年余りにわたって記されることになります。そして、いつしか日記という世界の中の親友キティ kitty へと向けての書簡という形になり、1944年春頃からは出版を意識して清書した日記も平行して書かれるようになりました。これは物書きを夢見ていたアンネが、ラジオ放送で戦後の記録手記の出版計画を知ったことによります。父オットーはこの2冊の日記をもとに、自分が不都合と判断したものを削除、編集して私家版として知人たちに配りました。これが1947年に最初の版である『アンネの日記』の出版へと結びつくことになります。後にこういった事実が明らかになって91年に『完全版』が刊行され、98年に新たに5ページが見つかり、今世紀に入って『増補新訂版』が出版されることになりました。

Das Tagebuch der ANNE FRANK さて、1957年にオードリーが出演を断った映画『アンネの日記 The Diary of Anne Frank』ですが、新人ミリー・パーキンス Millie Perkins がアンネ役で59年に公開されました。この年は『ベンハー』の公開があった年でしたが、アカデミー作品賞他8部門にノミネートされ、助演女優賞(シェリー・ウィンタース)他を受賞しています。オードリーもこの第32回アカデミー賞において『尼僧物語』で主演女優賞にノミネートされましたが、受賞はできませんでした。

1959年 アメリカ モノクロ 150分
監督:ジョージ・スティーヴンス
出演:ミリー・パーキンス、ジョゼフ・シルドクラウト、シェリー・ウィンタース、リチャード・ベイマー、グスティ・フーバー

2009年に『アンネの追憶』というTV映画が制作され、日本では2012年に劇場公開されました。この作品については「シネマ短評」で紹介しています。



『尼僧物語』







The Nuns' Story 『尼僧物語 The Nuns' Story』 1959年 151分 アメリカ 監督:フレッド・ジンネマン 原作:キャサリン・ヒューム 脚本:ロバート・アンダーソン 撮影:フランツ・プラナー 出演:オードリー・ヘップバーン、ピーター・フィンチ、エディス・エヴァンス

原作はキャサリン・ヒューム Kathryn Hulme の小説です。撮影は『ローマの休日』と同じくフランツ・プラナーです。

 ベルギーのブルージュ。有名な医師バン・デル・マル博士の娘で元看護士のガブリエル・バン・デル・マル Audrey Hepburn は、看護修道女としてコンゴで働くことを夢見て修道院に志願します。厳しい修行の後、見習い修道女となったガブリエルにはシスター・ルークの名前が与えられました。しかし、コンゴへと気持ちが焦るガブリエルにはまだいくつかの試練が与えられ、コンゴへの道は容易には開かれませんでした。ようやくコンゴへ派遣されることになりますが、ここでも現地人の医療ではなく、白人病棟の担当とわかり、失望することになります。それでもガブリエルは、外科医フォルテュナティ博士 Peter Finch の下で休む暇もないほどに働くことになり、その過労から一時結核にもなります。送還を恐れるガブリエルは好意を持つようになっていたフォルテュナティ博士のお陰もあって現地で快癒しますが、まもなく付き添い看護士としてやむを得ずベルギーへと戻ることになってしまいます。そして戦争が勃発し、ベルギーはナチスに侵攻されるようになります。父の射殺を契機にガブリエルは憎しみから自分を解放することができず、修道院長マザー・エマニュエル Edith Evans の説得にもかかわらず、修道女を捨てて地下組織の助けをする道を選びます。

 フレッド・ジンネマンの映画の中ではたぶん相当退屈な映画です。前半の修道院での生活は、のぞき趣味的には面白いかもしれませんが、特にドラマがあるわけでもなく、「今後コンゴに行くまで我慢!」とつまらない洒落でもつぶやくしかありません。撮影はやはりブルージュで、ベネディクト派の修道院が使われました。従順とは何か、高慢とは?としっかり考えてから後半を見てくれということでしょうか。修道院の大半を占めるベネディクト派は「清貧、貞潔、従順」の誓願を立てます。そして、神の声を聞くための沈黙。映画でもおしゃべりの懺悔をしています。

 さて、修道院を出てからようやくドラマが展開するようになっていくのですが、オードリーの熱演にもかかわらず、一向に盛り上がりません。人物の描き方が表面的であるばかりではなく、主人公の思いや行動さえも丁寧に描かれないのですから。主人公が「コンゴへ」という願いをもったのは、当時コンゴがベルギーの植民地だったからに他なりませんが、その願いの動機は語られません。また、現地では献身的な白人しか出てこないし、なぜシスター・ルークが現地人から愛されるようになったのか、描かれていないに等しいくらいに荒い展開です。白人病棟で働いていたのになぜ?前半を捨てて、後半をしっかり描けば、それなりの映画になったでしょうに。

 それでもこの映画を取り上げて解説するのは、ハリウッドらしくないちょっと不思議な物語で、オードリーの人生に影響を与えたことも明らかだからです。コンゴの原住民のための医療に従事するという願いは最後まで叶えられず、教会が説く「神を愛す」を「人間を愛す」ことよりも優先することができずに、修道女としても挫折する。それどころか彼女は憎しみさえ乗り越えられないでいるのです。映画の最後のシーンは心に残るものがあります。修道院を出る最後の部屋で人を呼ぶブザーだと思って押したボタンは、ドアの鍵でした。ガタンと開いたドアからガブリエルはかばん一つを持って、裏通りを歩き出します。誰一人見送ってくれる人はいないのです。修道院に入るために家族や恋人を捨てたガブリエルは、今度は教会に捨てられて修道院を去りました。そして、その道の先はレジスタンスへと続く道なのです。なんと救いのないお話でしょうか。ただガブリエルが歩く路地の先に見える表通りには、陽光が射しているのが見えます。神は神よりも人間を愛してくれるのでしょうか。

 少女時代のレジタンス経験から晩年のユニセフ活動。ちょうどこの映画とは逆の進行方向をたどって、オードリーは生きました。そして彼女が愛したのはやはり人間でした。





写真のポーズ オードリーは歌にコンプレックスを持っていましたが、四角い顔や背の高さにもコンプレックスがあったといいます。まあ、エラが張っていますかね。写真を撮る時は正面を避けて、顎が引き締まって見える左側からのポーズに決めていたそうです。正面から撮るときは顎を引いたり、顎に手を添えたりするポーズでカムフラージュしました。

 冒頭に掲げたポートレートをもう一度見てください。堂々と右側からの撮影です。年をとって、コンプレックスを乗り越えたオードリーです。気品があって、凛とした良い写真だと思いませんか。



      語の解説


いしがきりん


石垣りん
1920年2月21日〜2004年12月26日 少女の頃のペンネームは夢路りん子でしたが、就職して本名に戻しました。銀行勤めをしながら病父と4人目の母と弟二人の家族の生活を支え、生涯独身でした。東京で生家を焼き出されて敗戦を迎えたのは25歳の時。女性差別が残る封建的な世の中で、自立に挑んでいたと言っていいかもしれません。「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」1959年(それらなつかしい器物の前で/お芋や、肉を料理するように/深い思いをこめて/政治や経済や文学も勉強しよう)「表札」1968年(精神の在り場所も/ハタから表札をかけられてはならない/石垣りん/それでよい)など、この時代を生き抜いた女性詩人に共通して見られる「自立」という課題は、いまだに茨木のり子が「椅りかからず」(1999)という詩集を発表するほどに、色褪せない問題であるように感じられます。本当は男の方が深刻であるように思えますが、男はあまり言葉にしません。「夢や希望を持ったことはないの。興味だけで生きてきたわ。本当よ」といつも言っていたそうです。yu は共感するところ大です。詩人三木卓は石垣りんが40代の頃に出会ったそうで、女の子にしか見えなかったと書いています。享年84歳。最後に「雪崩のとき」の一節を引用します。........仕方がない"というひとつの言葉が/遠い嶺のあたりでころげ出すと/もう他の雪をさそつて/しかたがない、しかたがない/しかたがない/と、落ちてくる。//ああ あの雪崩、/あの言葉の/だんだん勢いづき/次第に拡がつてくるのが/それが近づいてくるのが//私にはきこえる/私にはきこえる.........「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」所収
すーざん・そんたぐ


Susan Sontag
Susan Sontag 1933年〜2004年。肩書きを書いても意味がないほど多様な活動を展開した女性。ニューヨークでユダヤ系の家庭に生まれ、15歳で高校を卒業。大学を転々とし、小説や評論やエッセイを書き、66年の『反解釈』あたりから注目を浴びるようになりました。そこでは文化や芸術、社会を縦横に横断し、作品の内容よりも形式やスタイルを重視する芸術論を展開しました。77年の『写真論』ではある根源的な写真との出会いについて触れています。それは1945年7月サンタ・モニカの本屋で偶然手にした本の中にあったベルゲン=ベルゼンとダッハウの強制収容所の写真でした。ソンタグ12歳の時のことでした。ベトナム戦争(1954〜75年)、湾岸戦争(91年)などで、戦争に反対する発言を続け、彼女のエッセーと論文は、カウンターカルチャー(反体制文化)に強い影響をあたえることになりました。しかし、戦争に一貫して反対する立場は取らず、虐殺などの危険がある場合は武力の行使もやむを得ないとコソボ空爆(99年)を支持し、大江健三郎をがっかりさせました。しかし、9.11(01年)テロをめぐっては、「これは文明や自由や人間性に対する攻撃ではない。自称『超大国』への攻撃だ」とブッシュ大統領を批判した上で、ハイジャック犯より「反撃されない高い空から攻撃する者の方が卑劣」等と書いてアメリカ国内で集中砲火を浴び、『この時代に想う テロへの眼差し』(02年)は、アメリカでは出版できず、日本でのみ出版されるほどでした。したがって、イラク戦争(03年)にも反対。01年のエレサレム賞受賞講演では、イスラエルのパレスチナ政策を批判しています。死因は急性骨髄性白血病。30年に亘って癌と闘っていたそうです。本文中の「一緒にバカになることはやめましょう」というソンタグの言葉は、9.11直後に「一緒に喪に服しましょう」と呼びかけ、それと同時にこの惨劇の原因について記した時の言葉です。愚かな愛国主義を批判する言葉のためソンタグは「ビン・ラディン・ソンタグ」と罵声を浴びることになりました。この罵声の下で彼女が毎日していたことは、テロ現場のほこりが舞い上がる中で不眠不休で復旧にあたる人々にマスクを配ることでした。
れじすたんす Resistance 「抵抗」を意味するフランス語で、一般には第2次世界大戦中、ドイツやイタリアの占領地でおこなわれた抵抗運動を指します。ドイツ占領当局は抵抗運動に対して小さな行為であっても情け容赦のない弾圧や拷問がおこなわれ、戦況が悪化すると、レジスタンス活動家がひそむと思われる村落に大規模な攻撃がしかけられるような事態も起こりました。アルンヘムでも街角で処刑が行われました。
あんら UNRRA 連合国救済復興機関 United Nations Relief and Rehabilitation Authority 米国を中心とする連合国は飢餓や病気で苦しんでいるヨーロッパの子どもたちを救済するために、1943年11月9日、連合国側の44カ国が加盟して立ちあげられました。当時子どもたちは、戦争の最大の被害者となっていました。40億ドルの救援資金をつぎ込んで、農業復興、医療支援、教育支援、難民保護、子どもの支援といった援助活動を東ヨーロッパ中心に、中国、フィリピン、エチオピアなど25カ国において実施しました。しかし、1946年、東西冷戦のはじまりが各国の間に溝を生じさます。なぜなら援助をするのは米国や西ヨーロッパの諸国で、援助を受けていた国の多くが東ヨーロッパを中心とした東側の諸国だったからです。米国はアンラによる支援は東側を利するものと考え、活動は1946年末で終わることになりました。
ゆにせふ


we support unicef
UNICEF 国連児童基金 United Nations International Children's Emergency Fund。1946年12月11日に国際連合総会の決議で設立された国連国際児童緊急基金の略称。当初は戦争地域の児童に対する「緊急」援助が中心で3年という一時的な機関でしたが、ヨーロッパの復興にともない、50年以降は対象を発展途上国および災害を受けた国の児童の救済に重点を移し、53年に国連児童基金 United Nations Children's Fund と名称を変更しましたが、ユニセフの略称はそのまま残されました。なぜだか知らないけど、UNCIF では読みにくいしね。現在は主として発展途上国の幼児、児童、妊産婦にたいする給食、保健衛生活動、教育、職業訓練等の活動を行っています。本部はニューヨーク。寄付したい気分の時は下記アドレスへ.....(^-^)
日本ユニセフ協会      http://www.unicef.or.jp/
UNICEF(国連児童基金)  http://www.unicef.org/
ぐれごりー・ぺっく


1947年12月「ライフ」表紙 Gregory Peck
『アラバマ物語』Gregory Peck 1916年〜2003年 本名エルドレッド・グレゴリー・ペック。カリフォルニア州生まれ。5歳の時に両親が離婚し、父親に引き取られて祖母のもとで育てられました。1939年にニューヨークに移って演劇学校で学び、44年から映画俳優として活動をはじめました。当時としては珍しくフリーの俳優で、さまざまな役に挑戦することになります。1953年、「ローマの休日」(1953)に出演。オードリー・ヘプバーンは「現実的で実直な人。心から親切にしてくれた」と語っています。「白鯨」(1956年)ではエーハブ船長を演じ、「アラバマ物語 To Kill a Mockingbird」(1962年)では、信念と勇気を内にひめた弁護士アティカス・フィンチ役で、1962年度アカデミー賞主演男優賞受賞。ペックが演じる弁護士アティカス・フィンチは、妻を失い娘と息子を育てながら、人種差別の偏見が強い南部で白人女性を暴行したとして訴えられた黒人男性を弁護します。リベラルな政治思想を持つペックは政治にも積極的で、リチャード・ニクソンの政敵リストにあげられたこともあるそうです。そして、リンカーンの研究者でもあります。俳優救済基金の設立や、67年から70年まで第17代アカデミー協会会長を務めて、映画界にも貢献。1969年には自由勲章(米国国家の保全、世界の平和・文化などに多大に貢献した市民に米国大統領が授与する勲章)を授与されました。ペックの葬儀では「アラバマ物語」で被告役であった黒人俳優ブロック・ピーターズが弔辞のなかで、「芸術には思いやりがあり、思いやりには人間性がある、そして人間性には寛大さと愛がある。グレゴリー・ペックは、これらすべての要素を惜しみなく与えてくれた。"In art there is compassion, in compassion there is humanity, with humanity there is generosity and love. Gregory Peck gave us these attributes in full measure."今日というこの日、『マネシツグミ(Mockingbird)』の子どもたちは、彼のことをアティカス(フィンチ)と呼ぶでしょう」と『アラバマ物語』を踏まえてスピーチしました。この映画の話まで取り上げる予定ではなかったんですが、この項を書いている時にこの映画が放映され、「書いて書いて!」と言われているようでした。こういうことがよくあります。昔の記憶では裁判劇だと思っていたのですが、主眼はそうではなくて、異常者と思われていた隣人ブーの話でした。ロバート・デュバルが演じています。「ひとを理解するには、相手の靴を履いて歩き回れ」 どうりで「書いて!」と言ってくるはずです。手を添える話だったんだな。映画シーンを最下部に載せました。
マッカーシーの赤狩り アメリカ合衆国の政治家 Joseph Raymond McCarthy(1908〜57年)が1950年代初頭に起こした共産主義者の破壊活動に対する扇動的なキャンペーン、いわゆる「赤狩り」のことです。マッカーシーは1950年2月、国務省内に共産党員が大勢はいりこみスパイ網をつくっていると発言し、いわゆる「赤狩り」に乗り出します。それから3年間、破壊活動をしたとして多くの高官を告発。「赤狩り」は国務省だけでなく大学の中国研究家や外交官らにも及ぶことになり、この手法、それによってひきおこされたマス・ヒステリー現象をマッカーシズムと呼んでいます。原爆の父オッペンハイマーが水爆の開発に反対して公職追放されたり、戦争に反対したチャールズ・チャップリンがイギリスからの再入国を拒否されるなど、多くの学者や文化人がその犠牲となりました。チャップリンは「チャップリンの殺人狂時代」等で非米活動委員会から共産主義支持者とみなされました。映画人としてはウィリアム・ワイラー、ジョン・ヒューストンなどが告発され、エリア・カザン、ウォルト・ディズニー、ゲーリー・クーパーらは協力者になりました。1998年にエリア・カザンが名誉賞的なアカデミー賞特別賞を受けた時に映画人たちがブーイングし、ほとんど席を立たなかったのはこのためです。当時のこうした動きの一方で、グレゴリー・ペック、ダニー・ケイ、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダらが反対運動を起こしました。ロバート・デ・ニーロ Robert De Niro の『真実の瞬間 Guilty by Suspicion』(1991年)はこの時代を描いています。最近作ではジム・キャリー Jim Carrey の『マジェスティック THE MAJESTIC』(2001年)の時代背景がそうなっていますね。日本では同様のものとして「レッドパージ」がありました。朝鮮戦争直前に連合国軍最高司令官マッカーサーの指示で、共産党員の公職からの排除から始まり、1950年6月に朝鮮戦争が始まると、産業界一般へも拡大していくことになりました。
ヘプバーンこどもききん オードリーと長男ショーンAudrey Hepburn Children's Fund 米国カリフォルニア州を本拠に世界中の子供たちを支援するために1994年に設立されました。理事長は彼女の長男であるショーン・ヘプバーン・ファーラー。設立には次男ルカ・ドッティ Luca Dotti やロバート・ウォルダースも参加しました。活動として児童虐待に苦しめられている子供たちの救済、医学的・精神的ケアや、紛争地域、発展途上国における子供たちへの就学支援などです。
'Welcome to Audrey Hepburn.com'  http://audreyhepburn.com/



アラバマ物語   TO KILL A MOCKINGBIRD


TO KILL A MOCKINGBIRD

1962年 129 分 アメリカ 監督:ロバート・マリガン Robert Mulligan 原作:ネル・ハーパー・リー Nelle Harper Lee 出演:グレゴリー・ペック、メアリー・バーダム、フィリップ・アルフォード、ジョン・メグナ、ブロック・ピータース、ロバート・デュヴァル

 原作はハーパー・リー(女性作家)の小説『ものまね鳥を殺すには』です。大根と言われていたグレゴリー・ペックはこの映画で62年度アカデミー最優秀主演男優賞を受賞しました。(2007年追記:2005年公開のアメリカ映画『カポーティ Capote』でトルーマン・カポーティの友人としてハーパー・リーが登場しています。『カポーティ』の時間はちょうどこの作品を出版した直後から映画公開後までの期間に当たります。映画の中でカポーティは「騒ぐほどの出来じゃない」と独りごちています。)

 1930年代、アラバマ州メイコムという小さな町に、男やもめの弁護士アティカス Gregory Peck は息子のジェム Phillip Alford 、娘のスカウト Mary Badham と暮らしていました。近所には異常者と噂されるブー・ラドレー Robert Duvall が父に監禁されていて、子どもたちは興味から覗きに行こうとしていました。そんなある日、白人農夫ボブが黒人のトム Brook Peters に娘を強姦されたと保安官に訴え出て、判事は弁護をアティカスに依頼します。物語は子どもたちのブーへの興味や畏れを描く一方で、裁判の不幸な行方を綴りながら、隣人とは誰かという問いに焦点を合わせていきます。弁護士にリアリティが感じられませんが、子どもの世界と大人の世界が対照されて描かれているところなど、なかなか面白い構成です。小さな街の雰囲気にあった静かな物語です。なお、ロバート・デュヴァルはこれが映画初出演で、やはり男前です。台詞は一言もありません。ペックと同じネバーフット・プレイハウス演劇学校出身です。

 2013年5月のシネマ短評プリオシン通信の『魔法の靴』でも取り上げています。



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