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うる星やつら2

ビューティフル・ドリーマー


うる星やつら2

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1984年・日 上映時間 98分
監督・脚本:押井守 演出:西村純二 原作:高橋留美子
作画:やまざきかずお・森山ゆうじ キャラクターデザイン:高田明美
音楽:早川裕・星勝 撮影:若菜章夫 美術:小林七郎
声:平野文 古川登志夫 神谷明 杉山佳寿子 千葉繁 藤岡琢也


 この映画がお気に入りでない方は、いま不幸でないかもしれません。この映画がお気に入りの方は、いま不幸なのかもしれません。

 この作品を取り上げることになったのは「ダーク・シティ」のせいです。「ダーク・シティ」を見ていて、ふとこの作品を思い出したからです。「ダーク・シティ」をお勧めする気はないのですが、参照作品ということで次回に取り上げます。ですから、「ダーク・シティ」との連動ページとして読んでください。それから、今回は話が長いです。前回も長かったけど......(^^ゞ トイレを済ませておいてください。それでは..................ビー。(消灯)

 さて、日本映画として初めて取り上げる作品です。これがSF映画かいな?と違和感を感じる人もいるでしょう。違和感を感じてください......(^^) また、それがアニメーションであることについては日本SF映画の現状を忠実に反映していると言えるかもしれません。

 アニメファン、特に押井守ファンにはとても評価が高い作品らしいですが、yu はアニメファンではないからそんなことどうでもよろしい。いつもどおりでいきます。.......と言いながら、実は「うる星やつら」は好きです。ただのドタバタが展開する作品には一向に興味がわきませんが、時に「不条理劇」が展開するこのマンガは非常な快感を与えてくれます。したがって劇場用アニメの他作品は最後まで見ることができなかったことを告白しておかなければなりません。でも、「うる星やつら」のTV用アニメにもたまに素晴らしい作品がありました。「ビューティフル・ドリーマー」には高橋留美子の原話となったものはありません。

 ちなみにTVアニメでは「いなかっぺ大将」が一番好きでした。しかし、見るのを我慢していたという悲しい作品でもあります。腹がよじれるほど可笑しくて、死ぬほど苦しかったんです。だから、そんな苦しみを避けるために、見ない苦しみを選んでいたのです。悲しい子どもだなあ。まあ、今見たらそんなに可笑しくはないと思います。そういう時機だったんでしょう。

 

 さて、本題。声の出演に藤岡琢也が出ているというところに、この作品の特異性がすでに現れていると言えますが、映画が始まってもタイトルは出てきません。この作品のテーマとかかわって、エンドクレジットの直前に出てきます。ホラー映画でよく使われる手法の一種です。

 廃墟となった友引町でいつもの連中が遊びに興じているところから物語は始まります。そして、この異変について過去にさかのぼって観客は見ていくことになります。学園祭前日、準備にてんてこ舞いになっている友引高校生たちは、時間も忘れて没頭しています。連中のために移動するストレスとなっていた「温泉マーク」にはふと疑問が生じます。夜が明けてもやはり学園祭前日のままであることに。やがて他の者たちも友引町から外へ出られないということに気づき始め、行方不明者が一人ずつ増えていくのです。

ユートピアと純喫茶「第三帝国」

 ユートピア小説というジャンルがありますが、それに倣って言えば、この作品はユートピア映画です。しかし、背景は楽園というより、廃墟です。ユートピアを探しに行くという話でもないし、「青い鳥」のように自分がいるところこそがユートピアだったみたいな話でもありません。ここはまれに見る楽園、エゴのユートピアなのです.........いやいや、まれに見る楽園ではないです。そもそも楽園幻想というのはエゴのなせる業です。邪魔者のいない世界こそが楽園なのです。それをストレートに描ききったという点で、押井さんはエライ。

純喫茶

 映画が始まってまもなく、2年4組の出し物である純喫茶が出てきます。ここでドタバタが展開しているわけですが、この喫茶の名前が「第三帝国」です。日本のアニメは悪役にナチス風を装わせるのが好きな悪趣味がありますが、この作品はそんな悪趣味で登場させているわけではありません。映画では連中の軽薄さを表現しているわけでしょうが、まさに夢の楽園への入り口にふさわしい舞台を用意しているわけです。邪魔者を消してユートピアを作るのですから。「第三帝国」とはヒットラーが夢見たユートピアです。(「星の旅」の「ミレニアム」ページで千年王国について触れています)

 いつものごとく話がそれますが、ナチスはプロパガンダがうまかったですね。現在のオリンピックにはナチスのスタイルがいろいろと取り入れられています。36年のベルリン・オリンピック以来ですよね。。聖火リレーや聖火台、そして、L.リーフェンシュタールの「民族の祭典」で有名なオリンピック記録映画などがずっと受け継がれてきています。日本でも運動会で学級旗なんかを持って、歩きながら校長に敬礼するという行進をするところがありますが、あれもナチスの行進スタイルを真似ています。見た目がカッコイイから、戦前に郷愁を抱く教育関係者がちゃかり取り込んだのでしょう。

電線にぶら下がる

 夢だから何でもあり。しかし、この作品に限らず「うる星やつら」の不条理は快感です。そもそも脳は理解できないことに不快を感じるものです。だからこそ、人は理解しようとする努力をするわけです。なのに、なぜ理解を超えるものに快感を感じるのか。絶えず意味を探り、整理整頓しようとする脳は理解不可能なものに出会うと混乱しますが、それが安全なものである限り、快感を感じるようです。アニメを見ていても危険は迫りませんから。そして、その快感を呼び起こしたシュールそのものを生み出しているのも脳ですよね。つまり、「人は遊ぶ動物である」というロジェ・カイヨワの説を裏付けるとも言えそうです。脳は遊ぶ器官です。脳は時々カラスのように電線にぶら下がって遊びたくなるようです。最上段右端のように、夜道に突然チンドン屋が道を横切る場面は、まさに脳が電線ぶら下がり状態にある時です。コンピュータも電線にぶら下がれるようになったら、きっと人工頭脳は完成するでしょう。

 この作品の面白みが不条理にあると同時に、弱点もじつにここにあります。不条理を不条理でなくすという、とんでもない過ちを犯してしまったのです。物語が後半に入ると、なんとかこの不条理を解明すべく、押井さんは理詰めで攻め込むのです。夢邪鬼というキャラの登場がこの作品を蝕んでいくのです。押井さんはきっと電線にぶら下がるカラスのことを知らなかったんだろうなあ。ああ、惜しいことした。

浦島太郎伝説

  「ビューティフル・ドリーマー」の下敷きには浦島太郎伝説があります。夢邪鬼が話の引き回し役で出てきますが、ただのコケオドシであまり意味はありません。むしろ、友引町を支えている亀こそがキーです。もともとは道教思想なんかが関係しているのでしょうが、「動物の恩返し」を切り捨て、ユートピアと繋がる「竜宮の訪問」と「時間の超越」が取り込まれています。廃墟となった友引町は廃墟であるにもかかわらず、まさに竜宮になっているわけです。そこをユートピアと感じるならば.....という限定がつきますけどね。映画の冒頭で校舎が沈む湖で興じているシーンはユートピアと言えるものです。

 この伝説がユートピアを示唆する点で卓越していると思えるのは、時間の超越です。時間を超越している世界とは、つまり「常世」であり、そここそが楽園であるという仏教思想と相通ずる世界を提示しています。それこそはつまり悟りなのです。押井さんもそこまでは「夢にも」思わなかったでしょうが、このアニメはそれを示唆しているのです。明けても暮れても同じ日が続き、何不自由のない生活こそ「常世」ではないですか。

十五少年漂流記

 ジュール・ベルヌ Jules Verne の「十五少年漂流記」(1888年刊・フランス)をご存知ですか。「孤島に漂着してとても困りました」というお話ではなく、わくわくものの冒険小説ですね。1860年のある夜のニュージーランドで、子どもばかりを乗せた帆船スラウギ号は、艫綱(ともづな)が外れて嵐の海へと漂流し、無人島に流れ着きます。実はこの時、学校は夏休みであり、結局この子どもたちは2年という長い夏休みを満喫したというふうにも読めます。原題も「 "Deux ans de vacances" 2年間の休暇」なのです。子どもにとっては一種のユートピア小説です。つまり、友引町はうる星やつらが漂着した無人島になっているわけです。かれらは十五少年少女と言えます。その数は異なりますけどね。

廃墟というユートピア

 町の中に無人島を作り出すためには、廃墟を作り出す必要があります。人がいないというユートピアがこうして誕生するのです。この廃墟は無人島であっても、生き延びるための苦労さえもないユートピアです。電気も水道も供給され、食べ物や日用品は永久のツケで手に入れればよろしい。生存と安全と、存在する物のすべての所有と永遠の自由が保障されるのです。世界の王だな。もっともリアルに存在しえるユートピアとは、実はこの廃墟なのかもしれません。ユートピアは作り出すものではなく、破壊することによって誕生するのです。この逆説がこの映画のハイライトだと言えます。

 きっとみなさんの中にもそんな想像をしたことがあるでしょう。yu がこの映画に惹かれるのは、まさにここです。他のことなどどうでもいい、と言ってもいいぐらいです。廃墟というユートピアを子ども時代から幾度となく空想し、そこでの生活設計をなんど描いてみたことでしょうか。闇への恐怖にどう対応するかという、人としての根源的な問題は未だ解決していないのですが(こりゃ、かなり真剣だな。アブナイアブナイ。

 闇への恐怖とは何でしょうね。yu たちが日常生活で闇が怖くないのは何かに支えられているからだと思えます。まったく他に人がいない世界ではその支えを失い、夜が恐ろしくてたまらなくなる気がするのです。実は、他の人々の存在こそが闇への安心感を支えているのではないかと思えるのです。そう考えると、たったひとりぼっちの廃墟もユートピアではなくなりえます。やはり十五少年少女ぐらいが廃墟というユートピアである得る条件になるのかもしれません。ひとりぼっちになると、デフォー Daniel Defoe の「ロビンソン・クルーソー Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe 」(1719年刊・イギリス)ということになります。

 ともあれ、たぶん永遠に憧憬する風景として友引町という廃墟がこの映画で現れたのです。実は「猿の惑星」でも、その廃墟にわくわくしたんですけどね......(^^ゞ

夢から目覚める、目覚めを夢見る

 結局、ユートピアとは永遠に手の届かないアルカディア、理想郷であって、そんな幻想を抱くことを楽しみとするだけのもの、と夢から目覚めるしかないのでしょうか。しかし、ユートピアを夢見ている時の愉悦はなんだろう。そう、あたなたがユートピアを夢見ているとき、すでにあなたはユートピアの中にいるのです。神が内在するように、ユートピアも内在する?


※追記 2002年9月にDVD発売されることになりました。うる星シリーズで発売になるのはこの作品だけのようです。値段は高めです。



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