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遊星からの物体X

The Thing



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1982年・米 上映時間 109分
監督:ジョン・カーペンター
製作:デヴィッド・フォスター、ローレンス・ターマン、ラリー・フランコ
原作:ジョン・W・キャンベル・Jr  脚本:ビル・ランカスター
音楽:エンニオ・モリコーネ     撮影:ディーン・カンディ
特撮:アルバート・ホイットロック  特殊効果:ロブ・ボッティン
出演:カート・ラッセル、A・ウィルフォード・ブリムリー、リチャード・ダイサート
    ドナルド・モファット、T・K・カーター、デヴィッド・クレノン


この作品を取り上げてくれという要望をずっと昔にいただきました。しかし、これを書くには『遊星よりの物体X』を見なくちゃね、と思っていました。ご存じの通り、この先行作品は同じ原作『影がゆく』(1938年)でありながら別作品と言うべきものです。原作により忠実なのは『遊星からの物体X』です。

もう何年も前に見る機会が訪れはしたものの、『遊星よりの物体X』があまりにも『遊星からの物体X』とは違ったために書くことができずに放置.......(^^ゞ 今回は今のところ日本未公開の3作目が登場して、これで打ち止めが見えたので書くことにしました。

シネマ短評で邦題をけなしてばかりなのですが、このタイトルはよく出来ていると思います。『遊星よりの物体X』から引き継いだタイトルなので、51年作の時の担当者がうまかったわけですね。原題は「The Thing from Another World」です。「世界」を「遊星」に置き換え、『遊星よりの物体』という即物的なままにせずに「X」を付けたのはいい仕事です。昔の人はやはり日本語が巧かったのでしょうね。この作品はこの邦題タイトルでかなり得しています。

しかし、この3作を並べるとタイトルがややこしいので、『遊星よりの物体X』を第1作、『遊星からの物体X』を第2作、未公開の新作『遊星からの物体X ファーストコンタクト』を第3作と略して書いていきます。


遊星と幽霊


たびたび人間の作るものはみんな焼き直しだと書いていますが、この作品も何かを焼き直しているわけです。じゃあ、一番最初の人はどうなんだと言えば、「自然(ネイチャー)」の焼き直しですね。『遊星からの物体X』は基本構造が『エイリアン』と同じなので、ふたつを並置して紹介していきます。

『エイリアン』のページでは元ネタになった作品を探りましたが、先ほどの焼き直しの話からすると、元ネタにもやはり元ネタがあるわけです。その元とは幽霊屋敷です。英語では haunted house とか haunted mansion と言いますが、haunt は「( 幽霊が)出る」という語義です。幽霊専用の「出る」という単語があるぐらいですから、幽霊屋敷と言えばイギリスが発祥の地になるんでしょう。イギリス人はむかし降霊術をよくやっていたし、幽霊が好きな国民なようです。

なぜエイリアンのホラーものが幽霊屋敷と通ずるかと言えば、人類にとって異星人とは幽霊とか妖怪の類いでしかないからです。『エイリアン』の成功後に多く作られたエイリアンものが高度な文明人であるはずなのにほとんど知性のかけらも見せていないのがその証となります。


Dream House『アザーズ』(2001年)
『Dream House』(2011)『アザーズ』(2001)


現物の幽霊屋敷はなかなか怖いものですが、映画となるとそれほど怖いものはないように思います。若い世代で「幽霊屋敷もの」の傑作を言ってみてと聞いてもなかなか答えられないのではないでしょうか。最近では「Dream House」という日本未公開作品があります。ダニエル・クレイグとレイチェル・ワイズの主演ですが、幽霊屋敷ものかと思わせて実はそうではないスリラーでした。

幽霊屋敷もので好きなのは『アザーズ』ですが、これもホラーというよりは哀しいスリラーでした。幽霊屋敷をホラーで描くのはなかなか難しいようです。

幽霊屋敷の怖さは「出るかもしれない」という未知への恐怖です。いつも出ていたらそれはたぶん化け物屋敷です。さらにここへ「逃げ出すことができない」という囚われの恐怖が付け加わるとより恐怖が増すことになります。古いところで幽霊屋敷ものを制作年の古い順に並べてみましょう。

幽霊屋敷Aタイプ
『回転』(1961)

『回転』(1961)
『たたり』(1963)

『たたり』(1963)
『ヘルハウス』(1973)

『ヘルハウス』(1973)
『家』(1976)

『家』(1976)


これらは『エイリアン』や『物体X』よりも古い作品です。『回転』はヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』が原作ですが、これは出るぞ出るぞと怖がらせるような作品ではありません。『たたり』は原題からして「The Haunting」ですから、これぞ幽霊屋敷ものですね。『ヘルハウス』も「地獄邸」ですから該当します。

『HOUSE ハウス』(1977) 『たたり』と『ヘルハウス』に共通するのは心霊研究の調査隊が乗り込む設定です。そして、『家』ですが、これはタイトルどおり家そのものが怪物であるような設定でした。このタイトルを英語にした大林宣彦監督の『HOUSE ハウス』(1977年)もやはり家がそのものの設定でした。この大林作品は2009年からアメリカで巡業という珍しい形態で公開されています。映画として破綻するくらいやりたい邦題な作品なのでカルトムービー扱いでしょうか。

こうした幽霊屋敷ものは幽霊が出るらしいという基本から、実は幽霊ではなく心理的な現象、実は登場人物の方が幽霊だった、実は屋敷そのものが幽霊、あるいは妖怪のようなものだった、という様々なバリエーションを加えて展開してきました。屋敷自体も私邸ではなく、病院だったり、学校だったりと、閉鎖空間としての場所もいろんなバリエーションがあります。こうした延長線上に『エイリアン』も『物体X』もあるということは容易にわかると思います。

幽霊屋敷ものは入り込むことで始まる物語ですが、エイリアンものは入れ込むことで始まる物語です。『エイリアン』は宇宙船にエイリアンを持ち込み、『物体X』は外が極寒の基地内に持ち込みます。密閉度は『エイリアン』の方が高いですが、同じような設定です。

少し別のタイプも参照します。

幽霊屋敷Bタイプ
『悪魔の棲む家』

『悪魔の棲む家』(1979)
『シャイニング』

『シャイニング』(1980)


この2作の共通点は悪霊に取り憑かれた父親が家族を襲うという、身内からの恐怖も取り込んでいる作品です。『悪魔の棲む家』は実録物で、『シャイニング』はスティーヴン・キング原作。どちらも1977年の出版です。これは yu が知らないだけで、もっと古い作品にも同じ設定のものがあるんだろうと思います。


閉鎖と内蔵


『エイリアン』と『物体X』の2作が今も人気があるのはそこらへんの幽霊屋敷ものよりもうまい設定を取り込んだことにあるのでしょう。それは幽霊屋敷に乗り込んで行った後は幽霊を取り込んで自ら閉鎖空間を作ってしまうというひねりの設定です。もちろん幽霊は異星人に取って代わることになります。

『エイリアン』では宇宙船という空間で、まさに神出鬼没のエイリアン(幽霊屋敷Aタイプ)。その上に自分のすぐ隣に潜在しているかもしれない、ひょっとすると自分の身体に潜んでいるのかもしれない恐怖(幽霊屋敷Bタイプ)。簡単に言ってしまえば、閉鎖と内蔵ということになります。

内蔵とは、ともに闘う仲間がいるという安心感を打ち砕かれて、自分一人しか頼りにならないという孤立感とも言えます。外部からの攻撃と内部からの攻撃に晒されることになるわけです。そして、幽霊がなかなか退治できるものでないのと同様にエイリアンも簡単には死んでくれません。こうした何重もの恐怖をまとわせています。

『物体X』は南極という閉鎖空間ですが、極寒の地ですから、宇宙空間ほどではないしにして、ほぼ基地内という閉鎖空間になります。このエイリアンは神出鬼没というよりは地球生物そのままのコピーですから、目の前にいてもわからない恐ろしさです。この恐怖の元を取り込む経緯も『エイリアン』と同じく難破した宇宙船から持ち込むという同じ設定です。

こうした共通点を並べて、物語の展開を比較してみましょう。


展開発端救援侵入閉鎖内蔵内紛排除
幽霊屋敷A霊の出現調査依頼調査隊低いなし低い低い
幽霊屋敷B殺人事件なし転居高いあり高い低い
エイリアン救援信号調査実施調査隊高いあり低い高い
物体X人身事故調査実施逃亡犬高いあり高い低い


両作品ともの幽霊屋敷タイプのAとBをうまく取り込んでいることがわかります。こうしたホラー作品にまとめられるものは基本がみんな一緒であることは自明ですね。ホラーの元となるのが幽霊であれ、エイリアンであれ、怪物であれ、人間であれ、閉鎖空間で神出鬼没の攻撃にさらされるということです。


『ジョーズ』(1975年)           『スピーシーズ 種の起源』(1995年)


その一方で、閉鎖性の弱いエイリアン・ホラーは生物パニックものにちかくなります。例えば、生物パニックものの傑作とされる『ジョーズ』(1975年)は一応「観光地の海という閉鎖性はありますが、閉じていないことは言うまでもありません。

『エイリアン』のエイリアン・デザインのH・R・ギーガーがかかわった『スピーシーズ 種の起源』(1995年)の系統がこの生物パニックものと言えます。最後には洞穴という閉鎖空間に入り込んで闘うことになりますが、観客は幽霊屋敷ものとは別の楽しみを見いださなければなりません。

というわけで、エイリアン作品がたくさんある中で『エイリアン』と『物体X』の2作品は幽霊屋敷ものの構造と近似であるといえます。では、こうした基本構造をきちんと踏まえていない第1作と第3作がどんな出来具合なのか見てみましょう。


『遊星よりの物体X』


遊星よりの物体X

原題:The Thing from Another World  1951年・米 上映時間 87分
監督:クリスチャン・ネイビー  製作:ハワード・ホークス
原作:ジョン・W・キャンベル・Jr  脚本:チャールズ・レデラー
出演:ケネス・トビー、マーガレット・シェリダン、ロバート・コーンスウェイト
    ダグラス・スペンサー、ジェームズ・アーネス、ジェームズ・R・ヤング

傑作という人がたくさんいます。原作とはまるで異なる作品であることは一向に構わないのですが、映画として破綻しているので yu には駄作としか思えません。一応これもSFホラーであるはずなのですが、ホラーらしさがありません。カウボーイのような軍人たちが、原理主義者の科学者と対立しつつ、軽口を叩きながらエイリアンを退治するだけの話です。yu が原作者だったら嘆くのは必至です。

第2作との違いを見ていきましょう。まず宇宙船が十万年前の遺物ではなく、墜落したばかりです。原作にはいない女性が二人登場し、その一人はヒロインらしき位置を占めます。氷原に墜落した宇宙船から脱出したらしい氷結エイリアンは基地に運ばれますが、見張り番がうっかり電気毛布を掛けたために融けてしまい、脱走して犬たちと格闘したのち行方不明となります。

いくら筋肉脳の軍人として描くにしても「うっかり電気毛布」はあまりにも稚拙なアイデアです。エイリアンは植物の細胞を持つと説明されるから、ここにSF的な展開があるかと思えばそれっきりです。隊長と女性科学者ニッキーの戯れ言や拘束プレイ...(^_^)...が何の映画を見ているのか忘れさせます。

サムネイルを見ればわかるように画面がごちゃごちゃしています。隊員たちは一人きりになることもなく、キャラの描き分けは3つしかありません。軍人、科学者、新聞記者です。個人が描けていないのです。第2作ではこれがきちんと描き分けできていました。

みんなで軽口を叩きながらエイリアンとの闘いに挑むことになるのですが、延々と軍人たちの軽口が続きます。科学者たちはしかめっ面。新聞記者は好奇心を表現します。暖房を破壊され生命の危険が目前に迫っているのに、女性科学者でもにこやかに笑っている始末(4段左から2つ目)。緊張感がまるでありません。

遊星よりの物体X テーブルを囲むシーンではカメラに背を向けて座らないのが鉄則ですが、エイリアンの切断された手(3段左から2つ目)が見えないように後頭部を中央に配置するという荒技を使っています。みんなの目はテーブル中央に注がれて議論が続くのに観客は目隠しされているかのよう。この禁じ手破りはいただけません。

そして現れたエイリアン(3段左から3つ目)はフランケンシュタインのような顔立ちだけでなく、その動作もフランケンシュタインを彷彿とさせるものです。両腕を少し広げて立つ姿は数多のフランケンシュタイン映画を思い起こさせてくれます。要するに監督はエイリアンの姿をイメージすることができなかったわけですね。

この作品で良かったのはタイトルと宇宙船の墜落現場の描き方ぐらいです。第2作も第3作もタイトルの描き方は踏襲しています。氷の下の墜落船を表現するのに、みんなで輪郭をたどったら大きな円形になるシーン(2段目の3つ目)が特に絵としてはいいのですが、表層は真っ白でそんな輪郭がわかるほどに透けていたのかどうかの説明はありませんでした。みんな詰めが甘いです。ラストシーンの記者のレポートも白けるのみ。


遊星からの物体X ファーストコンタクト


The Thing (2011)

原題:The Thing 2011年 アメリカ・カナダ 上映時間 103分
監督:マティス・ヴァン・ヘイニンゲン・Jr   製作:マーク・アブラハム、他
原作:ジョン・W・キャンベル・Jr  脚本:エリック・ハイセラー
出演:メアリー・エリザベス・ウィンステッド、ジョエル・エドガートン、ウルリク・トムセンエリック
クリスチャン・オルセン、アドウェール・アキノエ=アグバエ、ジョナサン・ウォーカー

現時点で日本未公開なので、拡大画像は控えます。「シネマ短評」では2011年12月に取り上げています。昨年、世界中で劇場公開されてすでにもうディスクが販売されていますが、日本語版の発売がないところをみると、まだ公開時期をうかがっているようです。そんなたいそうな作品じゃないですけどね。

前日譚とは言うものの、物語の展開はほぼ第2作を踏襲する形になりました。しかし、時代を感じさせる演出がないので、今世紀の話のように感じてしまいます。第2作は同時代の設定でしたからそのままで良かったのですが、工夫をしてほしかったものです。第2作の冒頭ではチェスのマイコンが出てくるので、今見ると強烈に時代を感じます。

The Thing 宇宙船を物語に取り込んだことや吹雪もなく穏やかな天候等、閉塞感がなくなったことで緊迫感も薄れました。一人になるシーンもほとんどありません。貴重な生物を保存しようという意識もはじめだけですから隊員間で葛藤も高まりません。ひとつのハイライトシーンであった血液判定も、まるで絵にならない間の抜けた判定方法になってしまいました。作品中ではこの方法を「スマート(賢い)」と自画自賛していましたが、きっと歯医者で治療中に思いついたんでしょう。脚本を書いてから治療に行くべきでした。

第2作では女性の生き残りはいなかったのでケイトは死んだはずなのですが、その結末は描かれません。標準作にはなっていても、前作ほどの演出ではないし、新しいものが何もないので失敗作と言わなくてはならないでしょう。この失敗でもうリメイクはなくなりました。

結局、前日譚と言いながらリメイクになってしまっています。しかも、脚本も演出もレベルが下がってしまいました。『エイリアン』の第2作が第1作を踏襲してももうダメだと判断して、戦争ものに衣替えして成功したように、やはり衣替えが必要でした。例えば、掘り出した氷の塊の中にいたのは一人のエイリアンではなく、実は二人のエイリアンだったという新展開を準備するとか、火炎放射器が使えなくなって別の武器で闘うことになるとか、そういうアイデアがほしかったですね。

ところが、ますます閉鎖性がなくなってしまうのに基地外へ出かけていって、宇宙船内のつまらない映像を見せるというアイデアが使われてしまうことになりました。閉鎖性ということにはまるで関心がないようです。30年という時間はスタッフの劣化をもたらしただけでした。

第3作では自分がコピーであるという自覚があるように描かれています。しかし、第2作では一人だけそうでない人物がいました。それはノリスです。あれはコピーミスによる変異だったのでしょうか。そういった謎も第3作にはありません。

また、第2作では一人になるとか、一人にするというホラーの基本は『物体X』のラストシーンで見事に結実されます。マクレディがひとりで最後の闘いに勝利して、観客がチェニングスの存在を忘れた頃にまた現れるというシーンは強い余韻を残すことになりました。


ラストシーン     ノリスに不調が現れる
              ラストシーン                   ノリスに不調が現れる


この二人は明らかに自分はコピーではないと信じているように見えます。ここで、コピーという自覚がなかったノリスの事例が生きてきます。心憎い伏線です。そして、同じ人種ではなく、黒人と白人という2人種を並べたのでした。化け物エイリアンとの派手な闘いが作品を破綻させるかに思えたものの、このラストシーンを作るためには仕方のない工夫だったのかもしれません。


氷原の生き残りケイト     基地の生き残りラース
            氷原の生き残りケイト                 基地の生き残りラース


第3作でもラストシーンで氷原のケイト以外に基地でひとり生き残った男ラースが登場しますが、残念ながらこれは第2作への繋がりを意識しただけのものとなっていて、エンディングクレジットが現れてからの付け足し程度になっています。要するに第3作は幽霊屋敷タイプではなく、生物パニックタイプの作品になったと言えるでしょうか。

(※2012年5月追記 日本公開が8月に決まりました。邦題は『遊星からの物体X ファーストコンタクト』です。もっとすっきりしたタイトルにならなかったのかなあ。)


カマキリ


他の生物の組織を摂取することで生きている生物はみんな何かを殺して生きています。その中でたぶん人間だけが時々罪を感じて食べないで生きる道を探そうとします。しかし、それは未だ見果てぬ夢です。そして、人には立場を置き換える想像力があって、狩られたり、食べられたりする気分はどんなものだろうかと考えてみるのです。

こういう側面については生物パニックものへといっきに近づきます。捕らえられたり、狩られたりするのは食用動物たちの日常であるわけで、エイリアンに生きたまま残虐に引き裂かれたりするシーンも実に魚たちにはお馴染みの末路です。だから魚たちはホラー映画など作ろうと思わないし、たまにジョーズになって人のお尻をかじる夢を見るのです。ところが、実のところその夢を見るのは人間であるわけで、罪を感じているのか楽しんでいるのかよくわからないです。踊り食いを楽しむ人もいるぐらいですから。

生物は個体の死にあまり関心はないようです。生物は存在することよりも繁殖することを目的としていると思えるような過激な姿を見せることがあります。人は豊かな生活を手に入れることで、生存することに価値を見いだして繁殖に関心を失いつつあります。しかし、人間の描くエイリアンは原初の人間の欲望を描くメタファー(暗喩)となっているようです。

エイリアン作品には、お友達系や侵略系や繁殖系とかがありますが、『エイリアン』も『物体X』も『スピーシーズ』も基本は繁殖系と言えます。「SF映画選」で取り上げている『スペース・バンパイア』も同様です。繁殖と性は言うまでもなく密接に結びついていますので、これらの作品はエロス的な側面を見せることになります。『エイリアン』はデザインにそれが強く表れている作品でした。『エイリアン』のページですでに触れていますが、性的なシーンが頻出している作品です。


エロス的な画像


貨物船ノストロモ号の管制コンピュータは乗員からマザー(Mother)と呼ばれており、胎内を思わせる睡眠装置から始まり、股を連想する遭難船でエイリアンの卵は孵化し、尻尾つきペニスは走り回り、リプリーは雑誌「平凡パンチ」を口に突っ込まれ、エイリアンの頭部も突起する口もペニス状で液体が滴っています。恐怖で凍り付いたランバーはエイリアンの尻尾で足下からなめるように襲われます。

脱出シャトルに逃げ込んだリプリーはやっと安心して眠るために服を脱ぎますが、そこはすでにエイリアンの寝所になっていたわけですから、まるでリプリーはエイリアンのベッドルームへ入り込んだようなものです。当初、睡眠装置へは全裸で入る予定だったそうなので、明らかに意図していたわけですね。

エイリアンとの緊迫する接近戦では荒い息が強調され、作品のクライマックスがセックスのクライマックスと重なるようにエイリアンは船外へ射出されてしまいます。ああ〜すっきりした......(^_^) 見事な演出です。そして、最後のシーンはまた半裸で胎内である睡眠装置へと戻っていきます。

エイリアンのマザーは登場しませんが、卵から孵ったエイリアンの子どもが貨物船のマザーの子どもであるリプリーたちと生存競争を繰り広げる物語だと言っていいでしょう。

『スピーシーズ』はセックスそのものが描かれるので暗喩も不要なほど明らかです。エイリアン・デザインも乳房が強調されています。またナターシャ・ヘンストリッジのヌードが売りのひとつにもなっていました。

では、『物体X』はどうでしょうか。女性は一人も出てこないし、ペニス小僧が走り回ったりもしません。エイリアンのデザインにもそれらしきものは見当たりません。『物体X』でのエイリアンは完全なコピーになるまでの過程や状況でいろいろな形態をとりますが、あえて探せばこういうシーンはあります。


腹が開いて口が出現する


腹が割けて大きな口が開くというのは心理学的に言えばいろいろと深読みできるシーンではあります。でも、たぶんそんな意図はなく、絵的な面白さを狙ったものでしょう。この形態では生物としての意図がまるで理解できないですからね。要するに荒唐無稽です。

エイリアンは犬や人間のような完成したコピー体以外では、なかなか移動する個体としての姿を見せません。これはホラーとしてはとても大事な基本です。そして、やっと移動する個体として登場したのは蜘蛛形態のものでした。


第2作に登場する蜘蛛形態

 
オディロン・ルドン『笑う蜘蛛』

ルドン『笑う蜘蛛』
                                                 

映画の中で「冗談」と形容されたクモのような形態は明らかにオディロン・ルドンの『笑う蜘蛛』のような蜘蛛シリーズの引用でしょう。これを見ても何か性的なメッセージを見いだすのは難しそうです。結局、第2作では原型としてのエイリアンは姿を見せることはありませんでした。最後にタコの脚のようなものを見せて登場した巨大な物体も未成熟でした。そのサイズから判断すれば、あれは何かのコピー中ではなく、いろんな遺伝子で合成された新たな創造物でしたが、どうも原型の片鱗も見せているような造形でした。しかし、作品の基本設定を破綻させる可能性のあるものでもありましたね。

第3作ではクチクラの外骨格を持つ昆虫のような姿を見せていましたが、セクシーさを云々するどころか、どう見てもコガネムシ状の昆虫がばかでかいだけなので困ってしまいました。エイリアンではなくて、宇宙船で飼われていたペットだったのかと思ったくらいです。

『物体X』にエロス的なものを見いだせるとしたら、女性がひとりも登場しないこと、つまり男だけの世界を描いているという逆説的な点にあると言えそうです。苦し紛れに言っているわけじゃありませんよ.......(^^ゞ

しかしながら、第1作目からそんな意識はないようで、第1・3作は原作にない女性が登場しますし、基本的に『物体X』シリーズではスタッフにエロス的な意識はないと言えそうです。それにもかかわらず、なにかしら第2作の雰囲気には第1・3作にはない匂いが漂っているのを感じるのです。

カマキリは動くものに反応して襲います。雌カマキリと交尾しようとする雄も例外ではないので、気づかれないようにこっそりと交尾しないと雌に襲われて、負けたら食べられてしまいます。そんなこと可能なのかと不思議に思いますが、大半はちゃんと逃げているそうですから、「ダルマさんが転んだ」が得意なんでしょう。頭を食べられても下半身はまだ機能しているのですから大したものというか原始的です。どうも下半身と上半身は別のことを考えているのかもしれません。人の男もそういうことを言う人がいますが、あれは嘘です。下半身も上半身も同じ事を考えています。

食べること、繁殖すること、生きること。本能はこれらを切り離してはくれません。そして、これらの本能の鍵となるのは殺しであると言えます。『物体X』の第2作に漂っている匂いとはやはり血の匂いです。


花嫁は宇宙船に乗って


『エイリアン』のページでエロティシズムと恐怖や暴力との関係についてすこし触れました。性的な描写は人の意識下にある本能に訴える力を持つので、知らず知らずのうちに人は惹かれてしまいます。規制がなかった昔は広告に性的なものが氾濫していたのもそこに尽きます。だれも振り向かないただのコーラ瓶も、両脇に卵を二つ添えれば人の視線はどうしてもコーラ瓶に向けられてしまうのです。『エイリアン』が傑作になりえたのは、その設定、演出、音響とあらゆる手を使ってエロティシズムを追求したことにあります。

『物体X』では「血液」が重要な要素として使われ、それは繁殖のための血液であると同時に、自己のアイデンティティを証明するものでもありました。そこでは血液が人間にとって負の要素と正の要素の両面を併せ持つ形で存在しました。この両義性が第2作を面白いものにしていました。

そして繁殖するための血液という側面を見たとき、そこには何かメタファーが隠されていることに気づきます。エイリアンの血液と地球生物の血液が完全に受精できなかった時、死体からは血が流れ出すのです。これは経血のメタファーであると言っていいでしょう。受精を求めてさまよう血は相手を食べて栄養化し、タンパク質の再合成をおこなって生きる手段を得るわけです。

十万年という長い時のスパンで見ると、『物体X』はこう言えます。花嫁は遊星から地球を訪れましたが、そこは生物がいない地球の辺境でした。そして十万年が経過し、ようやく南極に進出した人類は科学研究のため男だけのハーレムを作るようになっていたのです。時は満ち、花嫁は十万年の眠りから科学的好奇心のキッスによってやっと目覚めることになりました......(^_^)

こうした隠された背景がない第1作と第3作は、単にホラーの基本を忘れてしまっているというだけでなく、『物体X』の匂いを表現することもできなかったと言わざるを得ません。

SFホラーの金字塔と呼ばれる『エイリアン』にはやはりそう評されるだけの設定と演出がありました。残念ながら『物体X』は設定と演出に荒唐無稽がある分だけ弱さがあります。例えば全人類を同化するまでに2万7000時間という試算はデータの提示もなく、かえって説得力を欠く不要なシーンでした。こうした出たとこ勝負のようないい加減さがあります。B級と言い換えていいかもしれません。逆に言えば理詰めではないB級の面白さを持っているということもできます。

しかし、このB級の面白さを買っても、どうしても不満足な部分が残ります。完全体ではないという但し書きがついても、コピー中に時々姿を見せるその部品から見ても怪獣に間違いないものが宇宙船を作って外宇宙へ旅をするという、知性との不整合性は『物体X』シリーズの一番の欠点です。『物体X』が誰もが認める傑作になり得なかった大きな理由のひとつではないでしょうか。『エイリアン』は寄生するだけですから、知性はいりませんでした。それにもかかわらず、エイリアンの風貌には知性が感じられました。

1938年の『影が行く』から始まった『物体X』はこのまま行くと2038年になっても人々を楽しませているのだろうと思えます。「もうリメイクはない」と書いてしまいましたが、百年たっても人間はあまり変わらないことを考えると、繰り返し繰り返し同じような物語が作られていくのでしょう。

そして十万年ぐらい経ったら、地球人の花嫁も宇宙船に乗って遊星へと旅するでしょうか。むかし、夜汽車に乗って嫁いでいったように。



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