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月世界旅行

Le Voyage dans la Lune


月世界旅行

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1902年・フランス 上映時間 14分
監督:ジョルジュ・メリエス
製作:ジョルジュ・メリエス
原案:ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ  脚本:ジョルジュ・メリエス
出演:ジョルジュ・メリエス、ジュアンヌ・ダルシー、ブリエット・ベルノン
    ヴィクター・アンドレ、アンリ・ドラノワ


SF映画選を書き始めて十数年も経ちました。当初の計画なら百本ぐらい記事が書けていたはずですが、思い通りにはいかないものです。思えば当初からSF映画選の扉に『月世界旅行』の月面を引用していたにもかかわらず、この作品のページがないことにはたと気づきました.......(^^ゞ マーティン・スコセッシがジョルジュ・メリエスを描いた『ヒューゴの不思議な発明』(2011年)の好評で、今またメリエスが見直されている時でもあります。

 
修復前修復後

昨年の2011年にもカンヌ映画祭でこの着色版公開があり、見直しの動きがありました。そのきっかけになったのが今回紹介する『月世界旅行』の着色版です。これは『ヒューゴの不思議な発明』の中でも使用されていました。実は着色ということよりも、修復という意味の方が大きいと思っているのですが、今回はこれをまな板にのせて書きます。

モノクロ版は傷みがひどくてサムネイルを作る意義が見いだせないので、今回は着色版だけにしました。このサムネイルは傾いているように見えますが、錯覚です。なんの錯覚なのかと言えば、コマの周辺にケラレがあるからです。今までケラレがある場合はトリミングをしてきました。普通はどのコマも同じようにケラレがあるものですが、これはコマによって大小があり、周辺もできるかぎりカットしたくなかったので今回はしませんでした。

この作品はパブリック・ドメインになっていて、ネット上で高画質版を見ることができます。


色覚細胞の誘惑


モノクロ作品に着色してカラー化する試みは、モノクロであるがゆえに鑑賞されないというデメリットを克服するために近年行われてきました。しかし、これは作品への冒涜であるいう批判が特に制作サイドから巻き起こりました。その批判にはうなずけるものがあります。

『キングコング』のページで触れましたが、この作品も60年後カラー化されました。そのページではモノクロをお勧めしましたが、人間の目はカラーに対応しており、カラーへの誘惑は否定できないものがあります。だからこそ、映画の始まりからカラー化への努力も始まることになりました。『月世界旅行』の着色版はデジタル時代の恩恵ではなくて、ジョルジュ・メリエスがモノクロと平行して制作していたものです。もちろん他の作品にもモノクロと着色がありました。言うまでもなく手塗り作業です。なんでも自分でやらないと気が済まないメリエスは自分でやっていました。 『ジャンヌ・ダルク』(1900年)

右はメリエスの『ジャンヌ・ダルク』(1900年)です。10分半の作品ですが、すべてセット撮影で主なエピソードを描いています。「シネマ短評」でジャンヌ・ダルク作品はいろいろ取り上げましたが、これは短時間なのでジャンヌ・ダルクを映像化しただけの作品とも言えます。面白みはありません。天使のお告げから天国に迎えられるまでを描いています。

まずは1989年に着色された『キングコング』(1933年 メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザック監督)のシーンをお見せします。


『キングコング』モノクロ

『キングコング』カラー


同じシーンを並べてみました。カラー版は全体的に像がぼやけた感じで、色が判明しなかった部分には着色されていないようです。森ではどの植物も同じようにのっぺりと緑が着色されて幻滅しますが、色が判明している部分についてはかなり自然な着色がなされています。しかし、アメリカ本国でもあまり評判は芳しくないようです。不完全な色づかいが鑑賞の妨げになるからです。

『月世界旅行』の着色版は長年見つかっていませんでした。1993年になってスペインで破片状になって発見されて修復されたものです。欠損部分もあり、これは他のモノクロから借用してきたようです。サムネイルを見るとかなり美しく見えるので驚かれると思いますが、一番きれいなコマを選んでいるせいもあります。また画像を縮小しているのでノイズが見えなくなっています。映像としてみるとノイズが多いし、にじんで鮮明でない部分もあります。デジタルで処理すればノイズを除去するのはそれほど難しい作業ではないと思うのですが、なぜかたくさん残されています。


良好映像部分のコマ比較

劣化映像部分のコマ比較

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上が着色版の良好な映像部分からのコマで、下が劣化した映像部分からのコマです。モノクロはそれぞれ対応した同じコマからキャプチャーしてあります。どのコマもトリミングはしていません。モノクロの方は上下ともに劣化具合は同じようなものです。映り込んでいる範囲は着色版の方が広く、明らかにプリントが異なることがわかります。

こうしてみると、まんざらモノクロも悪いもんじゃないと思うかもしれませんが、これはまだ良好な部分だからです。特に場面が変わるところは、フェードアウトする画面とフェードインする次の画面が重なるクロスフェード・ディゾルブ・オーバーラップが使われているために余計にひどいノイズが発生することになっています。これは着色版でも同様です。しかしながら、今まで不鮮明なモノクロで見てきた目には、着色版の良好な部分はため息の出る美しさです。

その美しさとは技術的なことだけではなくて、この作品が持つ美しさに繋がっているものでもあります。僕たちは単に映画の記念碑として見てきたわけではなく、この作品の美しさがあってこそ見てきたのですから。そして、たぶんその理由は舞台美術にあるのだろうと思います。

上の鮮明なコマを見てください。この大砲の筒は人が入れるほどの大きさです。しかし、発射される場面に移ると筒の大きさは半減しています。また、大砲の前には街並みの屋根が描かれていて、弾丸の大きさを強調しています。人間の大きさは変えられないので人間も巨大化してしまうということになりますが、これはまさに舞台道具のやりかたですね。

『エイリアン』化石化した操縦士 『エイリアン』(1979年)では遭難宇宙船の化石化した操縦士のシーンで、その空間を大きく見せるために子どもに宇宙服を着せました。映画ではそういうリアリティが必要です。メリエス作品は舞台を映画に放り込むことによって、キッチュな美しさが出ているのだと思えます。それは今から見ればということですが、当時メリエスの意識にはそんなものはないわけで、正しくは舞台に映画を放り込んだと言うべきですね。

逆にこれが舞台の延長のように見えてしまい、当時の人々の飽きを生むことにもなるのでしょう。砲弾船を大砲に詰めた後で、女性たちがにこやかに手を振るというシーンもおかしなものです。当時の人々とは違う面白さを僕たちが感じているのは間違いなさそうです。


光の錬金術師


ジョルジュ・メリエス 1861年、ジョルジュ・メリエス (〜1938 Marie Georges Jean Méliès) はパリの裕福な靴職人の家に生まれました。ロンドンへの留学が契機となってマジックのとりこになり、ついには劇場を経営するマジシャンにまでなります。1895年12月28日、やはりパリで、メリエスはリュミエール兄弟によるシネマトグラフ(Cinématographe)の最初のプレミアに出かけました。後にチャップリンから「光の錬金術師」と名付けられることになるメリエスは、そのシネマトグラフの中にゴールドを生み出す光を見たのです。

『工場の出口』 エジソンが1891年に特許申請したシステムは撮影がキネトグラフで、映写はキネトスコープです。シネマトグラフは撮影と現像と映写という複合装置でした。これが「シネマ」の語源となっています。どちらも35mmフィルムです。最初のプレミアでは『工場の出口』などの短編が十編ほど上映されたようです。『工場の出口』は46秒しかありませんから、超短編です。

シネマトグラフ

撮影時       映写時       映写時拡大図


Kinetophone エジソンのキネトスコープ(Kinetoscope)は望遠鏡や顕微鏡がスコープであるように、箱の中にフィルムがあってそれをのぞき込むものでした。一人で見ることになります。スクリーン方式は画面のちらつき(フリッカー)を解消できず完成できませんでした。当時は映写式にはフィルムの問題も含めていろんな問題があり、鑑賞できるレベルのスクリーン方式はリュミエール兄弟のシネマトグラフが始まりということになっています。のちにエジソンも Projecting Kinetoscope という投影機を作ります。左の写真はキネトスコープの進化版で、Kinetophone の1895年バージョンです。イヤフォンが付いていて中に蓄音機が内蔵されています。映像と音の同期はまだできなかったようです。

メリエス作業風景 メリエスの動きは速く、翌年の1896年に早速バート・W. ポールのバイオスコープ映写機と、エジソンのキネトスコープの作品を購入して劇場で上映を始めます。そして、バイオスコープ映写機を参考にして撮影カメラを作り、スター・フィルム社を設立すると映画制作に乗り出します。監督から美術まですべて自分でこなし、自分の劇場で上映しました。その翌年には『ヒューゴ』でも登場したグラス・ステージがある撮影所を作って、現在にも繋がる制作システムを築き上げました。しかしながら、器用すぎてすべて自分でやるというところに手工業的な欠点を残すことになったとも言えます。

その一方で、メリエスの器用さはそもそもがマジシャンということもあり、カメラ停止、二重焼き、多重露光、オーバーラップ、高速撮影などのトリックを次々と考案していきます。SF映画にたどり着くのは当然の展開でした。


『ヒューゴの不思議な発明』から

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モンパルナス駅のおもちゃ店 『ヒューゴの不思議な発明』で描かれていたメリエスの過去についてはフィクションではなく、ほぼ事実です。1925年にはモンパルナス駅でおもちゃ店を始めていました。自動人形はメリエスと同じくマジシャンのジャン=ウジェーヌ・ロベール=ウーダンの劇場を買い取った際のものです。10体あったそうです。また、『ヒューゴ』の撮影風景を見ると、2台のカメラが動いていました。モノクロ版と着色版の画角の違いはこうして生じているのかもしれません。倒産してセットを焼いたりフィルムを溶かしたりする場面も出てきましたが、これも事実です。

倒産したのは1923年ですが、映画の制作は10年で停止していました。メリエスは500本余りの映画を制作しましたが、断片を含めても170本程度しか残っていません。彼の絶頂期は1900年から5年間ぐらいのですので、『月世界旅行」はその輝きの中で撮られた1本と言えます。

日本で『月世界旅行』が公開されたのは1908年で、タイトルは『月世界の探険』でした。こうして世界的中に配給されていたのですから、そうとうに儲かるはずです。しかし、当時のフランスには著作権は存在しなかったので、海外はみんな海賊版だったそうです。コピーというのは古くて新しい問題なんですね。その後しばらくメリエスは忘れられた存在でしたが、後に再発掘されてその功績が認められ、31年にレジヨン・ドヌール勲章が授与されましした。


映画を打ち上げる


『地球から月へ De la Terre a la Lune』初版 モノクロ版と着色版という違いの他にも場面の違うバージョンもあります。地球に帰ってきてから歓迎を受ける場面です。これが1分半近くあります。着色版にはこれが含まれています。原案はジュール・ヴェルヌの『地球から月へ De la Terre a la Lune』(1865年)と『月世界へ行く Autour de la lune』(1870年)という「月世界旅行」2部作と、H・G・ウェルズの『月世界最初の人間 The First Men in the Moon』(1901年 )です。邦題はいろんなタイトルで出回っているので、これに限りません。映画の原案としてはまだ新作ホヤホヤ状態だったことになります。

『月世界最初の人間 The First Men in the Moon』初版 ジュール・ヴェルヌ作品では月面に降りることなく、月の周回軌道に乗ってから地球へ帰還することになっているので月人は登場しません。月面のパートはH・G・ウェルズが原案になります。最初のSF映画と言われますが、内容的にはファンタジーではないでしょうか。砲弾で月に行くということ自体がナンセンスですが、まだ許せる範囲内です。しかし、月の崖から砲弾船が落ちていったら地球の海に落ちたというのはSFとしては許せる範囲ではありません......(^_^) H・G・ウェルズの原作は重力を遮断する物質を構想しており、一応SFになっています。

『H・G・ウェルズの月世界探検』ポスター この作品ではトリック的な手法はそれほど使われていません。天文学者たちが手で掲げた望遠鏡が椅子に変わったり、月面で傘を開いたらそれがキノコになって成長したり、月人が死ぬときは煙になって消えてしまうという、洒落的な趣です。実際、コメディ作品でもあります。地球人は月人に出会うと早速乱暴を働いて、結局月人たちに捕まりますが、そこでも月の王を殺してしまいます。こういう地球人の凶暴性は原作ではキノコを食べたことにも一因があることになってはいますが、ウェルズの人間観にもあるのでしょう。それが映画にも反映しているようです。

やはり『月世界最初の人間』の映画化は1964年の『H・G・ウェルズの月世界探検』ということになります。特撮は『シンドバッド』・シリーズで有名なレイ・ハリーハウゼンです。下のシーン画像では、月の場面は本来もっと暗いのですが、明るく補正しています。


『H・G・ウェルズの月世界探検』


『月世界旅行』はシナリオに基づいて、30シーンにカット割りされて編集されたものです。現在に繋がる映画の基本が初めて備わった作品として高く評価されることになりました。

映画制作はどんどん進化し、1905年頃からすでに着色の機械化が始まり、フィルムはセルロイドから不燃性のアセテートへ替わっていきます。ポルノ映画も始まり、中国での映画づくりも1905年から始まっています。映画の歴史の中でも1905年あたりはひとつの分岐点と言えるのかもしれません。メリエス映画の退潮はこの時期から始まっていました。それは劇場の舞台から始まった見世物が映画として独り立ちしていく時でもありました。

『月世界旅行』は舞台の影響を強く受けている作品です。この舞台から発射された砲弾船は月へと向かうものでしたが、今から思えば、同時にそれは舞台から訣別し、映画という新しいメディアへ打ち上げられた狼煙(のろし)ともなった作品でした。



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