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ガタカ

Gattaca


GATTACA

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1998年・米 上映時間 112分
監督:アンドリュー・M・ニコル
製作:ダニー・デビート、マイケル・シャンバーグ、ステイシー・シェール
音楽:マイケル・ナイマン 撮影:スラヴォミル・イジャック
衣裳デザイン:コリーン・アトウッド
出演:イーサン・ホーク、ユマ・サーマン、アラン・アーキン、ジュード・ロウ
    ローレン・ディーン、ゴア・ヴィダル、アーネスト・ボーグナイン
    ブレアー・アンダーウッド、サンダー・バークリー、トニー・シャローブ


 GATTACA  ある塩基配列の一部分を取り出してタイトルにしています。A(アミン)、T(チミン)、G(グアニン)、そしてC(シトシン)の4種類の塩基でつくられるDNAは、塩基配列が二重化された形で細胞核に畳み込まれています。人体は約50から60兆の細胞で出来ているそうですが、すべての細胞が同じ塩基配列を持っていて、損傷を受けない限りは一生涯変わりません。身体の隅々まで行き渡っているこのコードは、その人の一生を貫いているものでもあるゆえに、どこまで人生を支配するか。これが『ガタカ』のモチーフになっています。


エデンの東は太陽がいっぱい
PLEIN SOLEIL

  近未来、不都合な遺伝子を除去して生まれてくるのがエリートの条件になる世界です。彼らは「適正者」と呼ばれていますが、主人公ヴィンセント Ethan Hawke は遺伝子操作のない自然な状態で生まれ落ち、しかも心臓疾患で30歳までしか生きられないと診断された子どもでした。しかし、ヴィンセントはエリートでしか望めない宇宙飛行士に憧れ、エリートとなるべく生まれた弟アントン Loren Dean との確執をも抱え込みながら、家を出ることになります。一方、一流のアスリートであったユージーンは事故に遭って下半身不随となり、車椅子の生活になっていました。ヴィンセントはユージーン Jude Law と契約することによって、ユージーンになりすまし、宇宙開発企業のガタカ社に紛れこんでいくことになります。しかし、ガタカ社で起きたひとつの殺人事件がヴィンセントの夢に影を落としていくことになるのです。

EAST OF EDEN

 この映画には持てる者と持たざる者、愛されるべき者と愛されざる者という古典的な定型が持ち込まれています。この古典的な定型は同時に青春の痛みを伴うものでもあります。誰もが思い出すものは、きっと『太陽がいっぱい PLEIN SOLEIL』(1960年・仏)や『エデンの東 EAST OF EDEN』(1954年・米)ではないでしょうか。十代の人はまだ見ていないかな。兄弟の確執については『エデンの東』のタイトル通り、旧約聖書まで遡ることになります。こうして観客を映画に誘いこむ舞台は整うことになりました。創作とはつまり再アレンジですからね。古典を下敷きにするとストーリーは観客に受け入れられるはずなのです。そうでなかったら、よほどのヘボ脚本と言えます。


一つ夕焼けの色に染りて

 兄弟の確執は3回の競泳によって描かれ(サムネイル参照)、遺伝子操作の無意味さを互いに認識するようになります。しかし、現実的には遺伝子操作の無意味というよりは、一つの観点から評価することの無意味を示しているだけのことです。両親が医者とともに遺伝子を選別している未来社会のシーンにはきっとだれもが怖さを感じるでしょうが、子どもにいい教育環境をと、親がせっせと金を注ぎ込んでいる現代の社会と何も変わりないです。選別した環境を買い与えることと、遺伝子を選別することの間にある違いは、生まれる前か、生まれた後かでしかない。子どもをいじるのもほどほどに。だれもエデンの園で生きることはできないのですから。

 競泳シーンは1.2回目ともに夕陽のような光が当たっています。3回目はどうやら夜のようです。3回目の競泳はようやく兄弟二人が確執から開放されるシーンとなるのですが、このシーンを見ていて、馬場あき子さんの歌を思い出しました。好きな歌です。

つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ一つ夕焼けの色に染りて

 別につばめが出てくるわけではないけれど、どの競泳シーンも鳥瞰図になっていて、鳥が神の目になって、兄弟の営みを見守っているかのような感触があります。兄弟は二つの夕焼けを通過することで、ようやく一つ夕焼けの色に染まるのです。これで『エデンの東』問題は片がつきました。


Eugene(ユージーン)とgene(遺伝子)

 この映画ではひとつの観点がすべての評価と結びつくという、すり替えによってかろうじて成立しているところがあるのですが、それは青春の誇大妄想だというふうに好意的に見ることもできるでしょう。遺伝子的にエリートだったはずの弟は刑事です。yu たちの常識では刑事にはエリートもいるし、そうでない刑事もいる。これは兄を追う弟という古典的設定に持ち込むための踏み外しなのか、あるいは遺伝子の束縛から離れられないのは兄自身である(誇大妄想)ことの示唆なのか。これはやはり脚本の穴だね。

GATTACA

 この近未来社会において、遺伝子の優秀性は絶対のものではありえません。宇宙開発というガタカ社においては評価を受けるものであったかもしれませんが、これは宇宙飛行士という夢を描いたゆえの悲喜劇です。言い換えれば、視力をごまかして飛行機乗りになったみたいなものです。そして、世界全体が飛行機乗りを目指しているわけではないのです。そういう意味で、掃除人という設定を用いて社会の階層化まで描こうとしたのはやりすぎだと思います。「遺伝子」はこの映画のモチーフであっても、テーマになるような問題ではないのですから。

 一見、ヴィンセントの悲劇を描くかに見えながら、実はユージーンの悲劇となるこの映画は、純血信仰を描いているとも言えます。社会は適正者にエリートの称号を授けてはいるものの、「神の子」と呼ばれているのは「不適正者」であり、ヴィンセントが適正者を偽装するのを支える人々が存在することからも明らかです。

 明らかに不適正を見逃す検査技師ラマール Xander Berkeley だけではなく、掃除人シーザー Ernest Borgnine はヴィンセントの使用したコップを隠匿しようとするし、ジョセフ局長 Gore Vidal はモニターに映ったID確認の「不適正」を見逃す。結局、人々は内心で遺伝子操作されていない不適正者を純血として尊んでいるのです。それゆえに適正者の超エリートとも言うべきユージーンは業火で焼かれるのです。不適正者を差別するかに見える社会が、実は適正者を許さない社会になっていたというわけです。

 この映画は不適正者の悲しみと希望を描いたものというだけでなく、適正者のユージーンの悲しみと絶望を描いたと言えます。ラストシーンで、ヴィンセントが乗るロケットの火炎がユージーンを焼くシャワー室の火炎とオーバーラップすることが、それを裏付けていると言えます。ヴィンセントは救われたけれど、ジェロームは救われませんでした。ヴィンセントに手を差し伸べるものはいても、ユージーンにはいませんでした。それが絶望の根っこです。ユージーンの不幸の元は事故にあるのではなく、彼の名前の中に隠されていたのです。


紙風船

 この映画でもっとも心惹かれたシーンは、空を飛行機雲を吐いて飛ぶ飛行機のように、そんなに特別ではない日常の風景としてロケットが飛んでいくシーンです。人類にはこんな未来は絶対にやってこないけれど、まるですでに実現しているかのように日常だと思わせられるのです。もうこのシーンだけであとのシーンはなかってもいいです......(^_^)と言いたいぐらいです。

 アーケードから垣間見えるロケットの発射は「夢を打ち上げる」という暗喩そのままに、今の自分には触れてこない、遠くの夢の打ち上げのようです。それはちょうど、かつて黒田三郎が「紙風船」(詩集「もっと高く」所収)を取り上げて、夢を語ったかのような印象を受けます。

落ちてきたら
今度は
もっと高く
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう

美しい
願いごとのように

 しかし、この詩のように、主人公ヴィンセントには何度も打ち上げることが許されてはいませんでした。

 この映画のノスタルジックな雰囲気は、実は思想的に回帰しているゆえの帰結だと言えるのかもしれません。もう進歩なんかしたくない。でも、宇宙には行ってみたいという憧れの気持ちは抱いたまま。この映画は「紙風船」の気分を味わわせてくれる、そういう映画なのです。ユージーンの悲劇に片目をつぶりながら、そこに救いがある映画なのだと言えるのかもしれません。

 だから未来にロケット時代を迎えることがあっても、きっと紙風船も打ち上げ続けられるのです


さよなら青春

 卒業は青春を彩るひとつのエピソードです。冒頭のエスカレータでヴィンセントが上がってくるシーンは、『卒業 The Graduate』(67年・米)のタイトルバックのシーンと重なります。『卒業』では希望にあふれてはいるけれど、野心の欠けらもない、大学出たてのウブなエリート青年がエスカレータで舞台へと押し出されてきます。一方、『ガタカ』では野心に燃えた青年が非エリート青年として登場してくるのです。ウブを隠すために緊張した面もちで。(最上段右から2コマ目)


The Graduate


 『ガタカ』は、その冒頭に掲げられる「神の御業を見よ。神が曲げたものを誰が直しえようか」という旧約聖書『コレヘトの言葉』からの引用、あるいはもうひとつの引用「自然は人間の挑戦を待っている」(ウィラード・ゲイリン)という哲学的な出だしにもかかわらず、実は『卒業』の近未来バージョンなのです。大学は出ていないけれど、ヴィンセントは自分の欲望のままに行動し、いろんな人々の思いに触れる中で、自分の欲望の意味と人生について学んでいくのです。ロケットの中で見せるヴィンセントは決してこの宇宙旅行にわくわくしている表情ではありません。「卒業」のダスティンは恋という欲望で突っ走り、欲望が成就したバスの後部座席で、キャサリンとともに表情をふっと現実に戻すのです。三者ともに「青春」という激しい情動の世界に別れを告げた瞬間です。


The Graduate


 だからこそ、ヴィンセントが飛び立って考えたことは、土星へ到達することではなく、人は塵に還るということでした。地球的な日常3次元世界から解放されて、塵から生まれて塵に還るという、哲学的な次元にようやく到達したのです。




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 寿命が30歳だと限定されて生きることと、せいぜい寿命は80歳だと考えて生きることの間にどれほどのものがあるだろうか。



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