「SF映画選」のトップを表示します


ダーク・シティ

Dark City


ダーク・シティ

画像クリックで拡大、再クリックで元に戻ります(JavaScript使用)



1998年・米 上映時間 100分
監督:アレックス・プロヤス 原案:アレックス・プロヤス
脚本:レム・ドブス、デヴィッド・S・ゴイヤー、アレックス・プロヤス
音楽:トレバー・ジョーンズ 撮影:ダリウス・ウォルスキー、A.S.C.
視覚効果監督:ブルース・ハント
出演:ルーファス・シーウェル、ウィリアム・ハート、キーファー・サザーランド
    ジェニファー・コネリー、リチャード・オブライエン、イアン・リチャードソン


 この作品は前回の「うる星やつら2」の参照作品です。あまりお勧めする作品ではありません。「うる星やつら2」を見たことがある人にとっては底の浅い作品としか思えないからです。

 安ホテルのバスタブで目覚めたジョン・マードック (Rufus Sewell) は記憶をなくしている自分に気付きます。そして部屋には女の死体が。そこへ精神科医シュレイバー博士 (Kiefer Sutherland) からの謎の電話とともに、死人のような表情をした男たちが彼を追ってきます。自分の記憶を取り戻そうと、手がかりを探して街をさまようジョン。一方、バムステッド刑事 (William Hurt) は、猟奇連続殺人事件としてマードックを追うことになります。謎の男たちの捜索を逃れながら、ジョンはこの街から出られないこと、そして夜しかないことに気づき、なんらかの陰謀があることに気付いていきます。ナイトクラブの歌手であるジョンの妻エマ (Jennifer Connelly) の助けを借りながら、やがてジョンは「シェル・ビーチ」が謎を解く鍵だと、「シュル・ビーチ」を目指すのです。

 「ダーク・シティ」は「うる星やつら2」を下敷きにして、大友克洋のコミックで超能力の闘いの描き方を真似し、異星人の出で立ちは「ヘルレイザー」を借用しつつ、人間に入り込むクリーチャーものを踏襲するという、笑いのないパロディなのです。そういう見方でみれば面白いかも。あ〜あ、言っちゃった。

 別の言い方をすれば、フィリップ・K・ディックの「宇宙の操り人形 The Cosmic Puppets 」(1957年発行・アメリカ) の映画化と言えなくもないです。テッド・バートンという主人公が故郷に帰ったら、9歳の時に死亡したことになっていて、その町はやはりバリアで囲われているのです。そして、テッド・バートンは支配者の影響を受けないのです。念力で町を復元するとか、話の枠組みはそっくりだな。ディックは宗教の影響を受けて書いたとか言っていたそうな。実際ゾロアスター教とか、そういうのが援用されています。こういうのを勝手に原案:アレックス・プロヤスとかしていいのかしらん。

 この作品が好きな人は読まないでね......(^^ゞ とっても期待していただけにとても残念な作品でした。見所はやはり建物が再構成されていく場面でしょうね。ニョキニョキとくねりながら立ち上がっていくシーンは、その建物の時代性も加味されて面白い。そして、ナイトクラブでジェニファ・コネリーがシンガーとして歌う場面がいい。彼女はあういう雰囲気がとても合います。1曲最後まで聞かせて欲しい。そんな願いは通じませんが......(^^) 俳優は役者がそろっているのですが、なんとももったいない。ウィリアム・ハートはこの「SF映画選」では「アルタード・ステーツ」に次いで2度目の登場ですが、少々物足りない役柄です。映画は時代が20世紀前半という感じですから、ノスタルジーを漂わせたりして味付けもしています。

 ここは異星人が人間の個性を学ぶための実験場なのですが、みんながひとつの記憶を共有している彼らは、個性こそ自分たちの進化に必要だと感じているのです。これは文明を知らぬたわごとだと yu には思えます。封建制から抜け出し、近代化のために個性を培ってきた人々は、いま他人に共感できなくなっており、自分の信奉するものを信じない者とは通じ合えないと考えています。これを乗り越える道は個性を乗り越える記憶の共有こそ、人類に必要になってくるのです。人類こそ、ここに登場する異星人に学ばねばならない。それなのにこの映画では、個性がないという異星人は笑うことを知らない、ただの残虐な生き物でしかないのです。実際はそれぞれに個性的な異星人になってしまっているんですけどね......(^^) 人類より優れている点は、超能力を使うという、ただのそれ1点。おいおい、記憶を共有しているなら、もっといろんな英知があるだろうに......と突っ込みを入れたくなります。そして、人間の死体を操っている実態はクモのような節足動物です。時間まで操作できる生命体なのに、リアリティがなさすぎる。......まさに個性を信奉しているアメリカ映画の1本です。



シェル・ビーチが見える桟橋



 この映画で魅力的な設定は「シェル・ビーチ」です。この場所がキーとなって物語が進んでいきます。貝のように閉じられた世界の浜辺だから 「shell(貝) beach」 です。すべての住民が定期的に記憶をリセットして書き換えられるため、ジョンもその妻となっている女も本当の過去はわかりません。しかし、この男だけはそのいきさつだけはわかっているのです。クラブシンガーだった妻が独身となり映画館の切符売りという設定に変わったことを知ったか知らなかったか、ジョンはシェル・ビーチでまたこの女との出会いから始めるのです。この時、シェル・ビーチは閉じられた世界ではなくなり、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」のように貝が開かれた、ロマンスのある人生へと人々が歩みだすことを暗示しています。

 人生が記憶から成り立っていること、その人のアイデンティティが記憶を基盤にしていることを今まで幾度も「SF映画選」で取り上げてきていますが、それに懐疑的な人もいるでしょう。「ぼくらはみんな生きている」(坪倉優介著・2001年幻冬舎刊)という18歳で事故により記憶を失った人の手記があります。ご一読を。

 人類がせっせと子どもを育ててこれたのは家族という場所を作ることができたからです。なぜ人は様々な苦労をしてまで家族を作ろうとしてきたのか。そこには家族というユートピア幻想があるからだと思えます。外の世界にユートピアがないなら、自分でその場を作るしかないからです。そして親には家族のユートピア幻想を保障する義務があり、偶然にもその家族に組み込まれた子どもにその義務はありません。そこにユートピアがないと気付いたら、子どもは他の場所へユートピアを探しに出かけていいのです。

 古からからあるユートピア幻想。それは貝の中で育つパールのようなものかもしれません。貝を開けてみるまではわからないけれど、人はこの幻想を抱きながら、大事に育てていくより他ないのです。この幻想に寄りかからなければ、人類は生きていけないのですから。

 傑作に成り得た要素をいくつも持つ映画なのですが、しくじった最大の要因は異星生命体の設定にあった、あるいは異星生命体の登場そのものにあったと思えます。ちょうど「うる星やつら2」で、「夢邪鬼」が作品を台無しにしたように。お勧めしない映画だったのに、なにやら長文になってしまいました。次回は「シックス・センス」。「第六感」のページに言葉は要らなくなるだろうか?



プリオシン海岸トップへ