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1997年・米 上映時間 150分 WARNER BROS
監督:ロバート・ゼメキス 脚本:ジェームス・V・ハート、マイケル・ゴールデンバーグ
原作:カール・セーガン 共同製作:カール・セーガン、アン・ドールヤン
撮影:ドン・バージス、A.S.C.
美術:エド・バリュー 音楽:アラン・シルベストリ 視覚効果:ケン・ラルストン
特殊視覚効果:ソニー・ピクチャース・イメージワークス
追加特殊視覚効果:インダストリアル・ライト&マジック
デジタル視覚効果:ワーナー・デジタル
出演:ジョディ・フォスター、マシュー・マコノヒー、ジョン・ハート
   ジェイムズ・ウッズ、トム・スケリット、デイビッド・モース


 宇宙科学者カール・セーガン原作の作品です。セーガン原作ということで、科学の枠からはみ出るお話はあまり期待できないと予想が立ちますが、まあその通りです。まだ新しい作品でもあるし、それでもなお取り上げるのは、今までに見たSF映画の中でこんなに心惹かれるシーンを見たことがないからです。それは誰もが心惹かれるものではなく、個人的なものかもしれませんが。そして、「未知との遭遇」のようなモチーフでありながら、それとは正反対の思いを抱かせられるからです。

 父娘家庭で育ったエレノア(エリー)・アロウェイは少女時代にこよなく愛していた父(デイビッド・モース)をもなくします。この時、エレノアは牧師が説く「神の御心として受け入れること」ができません。エレノアは父から無線の手ほどきを受け、ビーナス(金星)を教えられたことから天文にも関心を持つ少女でした。時が過ぎ、エレノアは地球外の知的生命体とコンタクトをとろうとする電波天文学者となっていました。しかし、なんの成果も得られないばかりか、科学財団会長ドラムリン(トム・スケリット)から研究費を削減されます。四面楚歌のそんな時、琴座のベガからの信号を受信することに成功するのです。しかし、ドラムリンにその成功の上前をはねられることになります。一方、エレノアはベガから送られてきた暗号を謎の男(ジョン・ハート)の助けによって時空移動装置の設計図であることを突き止めます。搭乗員1名限定の装置は完成しますが、神を否定していることを理由にエレノアは外されることになるのでした。

 とても長い作品で、こんなに時間を使うほどの大作ではありません。原作を読んでいないので何とも言えないのですが、セーガンの意向で原作をあまりはしょることが出来なかったのではないかと思います。SFXの出来はとても良く、時空移動装置のデザイン、その動きなどとても面白い。ハリウッド好みの、あるいはセーガンの好みなのか、日本趣味も出てきて、北海道が一部舞台として登場します。北海道を舞台としたことで、雪煙りや蒸気、その景観などにより神秘的な雰囲気がよく出ることにも成功しています。「おじぎ」が日本人の無表情とともに、へんてこに出てくるところは旧態依然です。全般的に話も映像もよく出来ていて水準を超える出来になっていると思います。

 特筆すべきシーンはエレノアが向こう側に到着して海辺に抱かれるようにして降り立つシーンです。とても明るい海辺で、砂が白く光り、海は青く広がっています。そして空には満天の星がひっそりと輝いているのです。このシーンこそ、yu が子どもの頃から心の中でずっと見てきた風景、イメージだったからです。きっとだれでもそんな風景を持っているのではないでしょうか。心の中で思い描くだけでなく、手が届くような目の前で、映像として見ることのできる幸せ。これは不幸なのかもしれないという思いも抱きながら。「プリオシン海岸」と名付けたわけのひとつがここにあるんです。

 ジョディ・フォスターの演技がとても素晴らしい。特に宇宙へと旅立つシーンからそれは際立ち、その緊張感と驚き、感動が見事に表現されます。終わりの蛇足みたいな審問会のシーンでも彼女の演技で見通すことができ、かすかな感動さえも覚えます。これはひとえに彼女の演技によるものです。それにしても、審問会のシーンはやはりいらない。このシーンを削除して、渓谷でひとり夕陽を浴びながら佇むシーンへと静かに進んでいってくれたらもっとこの映画が好きになったでしょう。

CLOSE ENCOUNTERS OF THE THIRD KIND 人類は孤独ではない。「未知との遭遇」(80年)の " We are not alone " という秀逸なキャッチコピーがありましたが、この映画もテーマから言えば同じものだといえます。しかし、yu はずっと有名な「未知との遭遇」を紹介せずに、なぜこの映画を紹介したかと言えば、この映画はすでにこのテーマで描かれた幾多の映画と同じ地平にとどまっていないからです。

 確かに「人類は孤独ではないのだ」ということを語っています。審問会のシーンでもエレノアはそう語ります。しかし、シーンの画像にあるように主人公が一人で佇む姿を随所に挿入していることに目がいくのです。父娘の二人家庭で育ち、まだ幼くして父とも死別して孤独だった少女は大人になり、恋人(マシュー・マコノヒー)がいてもやはり孤独なのです。彼女が宇宙へとコンタクトを求めるのは、科学者としての真理探究の欲求というより、孤独を癒してくれるものへの探求なのです。言い換えるなら、神の存在を求める行為なのかもしれません。登場人物はそう語ったりはしていませんが、映像はそう語っています。

 人類は孤独ではない。しかし、個人としての人は、人間関係の中で孤独であるばかりではなく、宇宙という広大な世界においてもやはり孤独な存在なのだとエレノアの背中が語っています。かすかな信仰心がエレノアに芽生えたにもかかわらず、やはり人は神の存在を仮定したとしても孤独な存在なのです。この映画は孤独感が癒される映画ではなく、存在としての孤独をかみしめる映画です。癒されて涙する映画ではなく、寂しさにむせび泣きする映画なのです。うーん、かなり大袈裟......(^^ゞ もっとも、見る人の人生観によっては、エレノアの孤独は癒されたのだと感じる人もいるでしょう。そんな意味でもこの映画は神の問題も含めてプロットがとてもよく出来ている。

 映画は細部まで演出が行き届いていて、1回見ただけではかなり見落としがあります。ぜひ間を置いて2回は見て欲しい映画です。そして英語がわからない人は日本語版でもぜひ見てください。字幕では3分の1ぐらいしか訳されていませんから。1回目は好きなシーン以外はそれほど面白いとは思いませんでしたが、何回か見るうちにとても好きな映画になりました。しかし、SF映画の多くは、最後は元の黙阿弥状態になるものですが、この映画もそうなります。現状に変革をもたらすような結果になると、その後の現実世界に収拾がつかなくなるからだと言えます。つまり、その後の世界を描く想像力を持ち合わせていないからです。この現状を打破する映画がもっと現れて欲しいものです。

 なぜかSF映画選で紹介する映画は、作り手の中に死者が出ることが多いです。不思議です。この映画も共同製作者であったカール・セーガンが亡くなり、最後に " For Carl " という献辞がクレジットされています。彼はきっとあの海へ早く降り立ちたかったのでしょう。yu はもう少し先にします。



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