プリオシン海岸  プリオシン通信

銀河鉄道の席パズル

初期形で席替えをする青年


汽車の車室
車室で展開するドラマ


1.軽便鉄道と座席2.客室のイメージ
3.第3次稿以降の席位置4.第2次稿以前の席位置
5.燈台守の誕生6.もうひとりの大人

テキストへのリンク → 比べっこ銀河鉄道の夜  草稿『銀河鉄道の夜』


猛暑の夏も過ぎ、すこし秋らしくなってきました。ちょうど今日は秋分で、昼と夜が同じ長さでした。『銀河鉄道の夜』の町は晩夏でしたが、銀河では初秋となっています。

当時の花巻なら、カムパネルラが「もうすっかり秋だねえ」と言ってもいい頃です。先日の十五夜はめずらしく快晴でした。やはりカムパネルラの「あの河原は月夜だらうか」なんて言う台詞も秋を感じさせます。

ちょうど今はその季節なので、今回は銀河鉄道の座席とその席位置を考察してみることにしました。

席位置などほとんどの人にとってどうでもいい問題でしょう。僕もそう思うところもありますが、瑣末的なところからも見えてくるものがあります。

前回は初期形から最終形への改稿についてブルカニロ博士の視点で書きました。この時の改稿はとても大きなもので、物語の前後に「町の夜」が描かれて、銀河鉄道に夜がやってくることになりました。

夜を削って『銀河鉄道』と言うべき初期形も、第2次稿から第3次稿への改稿でいろんな変化を見せています。最終形への変化が銀河鉄道の外での変化と言えるなら、こちらは銀河鉄道の中での変化と言えます。改稿の詳細は「銀河鉄道の夜の改稿表」をご覧ください。

『銀河鉄道の夜』を一読したぐらいでは客車の様子はなかなかイメージできません。今回はわかりにくい席位置のパズルを解くことで、かほるのきょうだい数の減少と燈台守(燈台看守)の誕生という大きな変更がなぜ起きたのかを明らかにする試みです。

「かほると呼ばれた子」のページできょうだい数が減った理由についてはすでに触れましたが、ここでは具体的に席位置を示すことで明らかにします。

席位置は第2次稿以前と第3次稿以降で異なります。理由を簡単に言えば登場人物の数が違うからです。第3次稿(初期形)と最終形(第4次稿)の席位置は同じで、論考で考察されたり、マンガやアニメなどにおいても描かれてきました。しかし、第2次稿以前の座席位置について考察したものは寡聞にして知りません。

第3次稿以降の席位置を最初に示したのはたぶん「討議『銀河鉄道の夜』とは何か」での天沢退二郎氏だと思います。そこに座席図が掲載されていますが、その根拠は示されていません。

ここでは席位置の根拠を具体的に示していきますので、第3次稿以降を原作にしたマンガやアニメで見る座席位置がどう決定されたのかもわかることでしょう。

創作の秘密の一端を知るのは、作者の執筆当時の息吹に触れているようで楽しいものです。今回解く謎は青年の席が鍵になっています。なお、引用は第3次稿からです。第2次稿からの引用はその都度記します。また、いつものことながら、その時の思いつきで道草します.......(^^ゞ


1.軽便鉄道と座席


気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗ってゐる小さな列車が走りつづけてゐたのでした。ほんたうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座ってゐたのです。

銀河鉄道が岩手軽便(けいべん)鉄道をモデルにしていることはよく知られているところです。佐々木桔梗氏の『「銀河鉄道の夜」と原風景』によると、軽便鉄道という名のとおり、レールはナロー・ゲージで軌間2フィート6インチ(762mm)、レール自体も細いもので、車内では前の人の膝が触れるほどでした。定員は40名だったようです。

今でも前の人の膝が触れることもあるよと言う方もいるでしょうが、これはボックス席ではなく、進行方向に対して横向き一列に座るロングシートです。通路幅もほとんど取れないような狭さでした。

  実は現在もそのナロー・ゲージの鉄道は残っています。そのひとつが三重県の三岐鉄道北勢線です。1914(大正3)年の開業で、客席数は約30です。写真をみればわかるように、両側に人が座る通路を通る時はそれぞれが気遣いをみせる必要があります。もうひとつのナロー・ゲージ、近鉄内部・八王子線には僕もずいぶん昔に乗ったことがあります。

『冬と銀河ステーション』(春と修羅第一集)や『『岩手軽便鉄道の一月』(春と修羅第三集)は言うまでもなく冬の軽便鉄道を描いたものですが、1925年に夏の軽便鉄道を描いた『岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)』(春と修羅第二集)には乗り心地が記されています。

本社の西行各列車は
運行敢て軌によらざれば
振動けだし常ならず
されどまたよく鬱血をもみさげ
……Prrrrr Pirr ! ……
心肝をもみほごすが故に
のぼせ性こり性の人に効あり

笑ってしまいます。僕のお気に入りの心象スケッチです。実際、台車にはスプリングがなかったそうで、トロッコのような乗り心地だったようです。

岩手軽便鉄道の機関車 これは物語での客室とは明らかに異なるので、実際は軽便ではなく、本線に近い広さを想定するのが妥当です。機関車(左図:大正2年岩手軽便鉄道)についても当時は外国製で石炭車でしたが、物語ではジョバンニが「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」と言っているように煙は見えません。

第3次稿でカムパネルラは「石炭たいてゐない?電気だらう。」と答えます。当時の国鉄は電化がまだごく一部であったものの、私鉄は電化されていました。1915年(大正4年)開業の花巻電鉄もそうです。軽便よりさらに小形の電車でした。

第4次稿になるとアルコールの汽車模型が登場するので、カムパネルラの台詞は「アルコールか電気だらう。」 に代わります。アルコールは実車には使えず、やはり当時も汽車模型でした。

物語には機関車の描写は何もありませんが、第3次稿ではブルカニロ博士が「ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。」と答えています。光のようなものでしょうか。

ますむら・ひろし原作アニメ 『銀河鉄道の夜』は絵になると、みんな蒸気機関車になります。やはり「絵になる」ということなのでしょう。座席についてはロングシート(縦座席)で描かれたこともあったそうですが、ほとんどみんなボックス席(クロスシート・横座席)で描かれています。

ダヴィンチの『最後の晩餐』のように横一列という配置は一人の話を聞く分には良いですが、『銀河鉄道の夜』のように車内で対話を繰り返す物語では不都合です。また、席に座ったまま窓から外の風景を眺めるのにもロングシートでは不自然な姿勢を取ることになり、これではお話になりません。なにしろ車内からの視点で描かれる物語なのですから。

しかしながら、きちんと検証はしておきたいです。わかりやすいところを取り上げます。

ジョバンニのうしろには、いつから乗ってゐたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の尼さんが、まん円な緑の瞳を、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝はって来るのを、虔んで聞いてゐるといふやうに見えました。

ロングシートならうしろとは言わず右隣とか左隣と言います。しかし、進行方法に対して「うしろ」という言い方が間違っているとは言えません。他の証拠もあげましょう。

「ここへかけてもようございますか。」 がさがさした、けれども親切さうな、大人の声が、二人のうしろで聞えました。

この場面はジョバンニとカムパネルラが窓から外を見ている時に鳥捕りが通路から声を掛けるところです。混んでもいない車内のロングシートではこのような許可は求めません。

「切符を拝見いたします。」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立ってゐて云ひました

ロングシートであれば、「三人の席」とは言わないし、「横」とも言わないでしょう。正しくは「三人の前」となります。

そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいぐったり席によりかかって睡ってゐました。

「席によりかかって」はロングシートには似合わない表現です。

室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるやうになりながら腰掛にしっかりしがみついてゐました。

「傾斜」の場面です。ロングシートに「しっかりしがみつ」くのは難しいです。

姉はうしろ向きになってはなし込んでゐた向ひのあの黒服の青年に

最後は第2次稿から引用しました。姉の向かいにすわる青年が後ろ向きである状況はロングシートで説明できません。もう検証はこれで十分でしょう。ロングシートの絵は軽便鉄道をモデルとして描き、ボックス席は物語を読んで描いたと言えそうです。

賢治作品、中でも特に『銀河鉄道の夜』はモデルの引力に引き込まれてしまうことがままありますが、やはり物語そのものを重心にしなければなりません。


2.客車のイメージ


銀河鉄道は軽便鉄道であっても、客車は軽便ではなかったことがわかったところで客車のイメージも具体化してみます。

各地の私鉄を国有化して1908年に帝国鉄道庁が発足し、この時に製造されたのがホハ6810などの基本形客車と呼ばれるものです。車体長は17m、車体幅は2705mmです。ただし、一部の優等車は20mです。

その後の1920年に設置された鉄道省が1927年に初めて作った鋼体客車はオハ31です。木造から鋼体になったものの、構造設計は同じです。乗員は80名。前年の26年には木造客車の大事故が起こっていました。もっとも木造客車は敗戦時点でも鋼体客車よりたくさん走っていました。

1929年からの製造となるスハフ32は車体長が20mに延びて座席間も広くなり、1455mmありました。座席幅は960mm、通路幅が610mmで、車幅は2900mmです。乗員は同じく80名です。 つまり、オハ31もスハフ32もボックスが10×2あることになります。これが客車の標準と言っていいと思います。下図が大ざっぱなイメージです。

スハフ32の1/50スケール図
          
 
          


ちなみに現在でも一般車両は20m前後です。新幹線の車両は25mが基本になっているようです。しかし、銀河の汽車は「小さな列車」ですから、車両数も少なく客車も小型と考えてボックスを4つ減らしておきましょうか。64席で車体長16mのイメージが下図です。

「小さな列車」のイメージ
        
 
        


現在の列車イメージがこの物語に通用しないことがわかるほどこぢんまりしています。少なくともアニメで描かれた列車ほどにゆったりしたものではなく、席が少し離れてもじっくり話せるような小さな空間でした。

次章から詳しく座席位置を検討していきますが、「前からもうしろからも声が起りました」という文があるので、ジョバンニたちの席は車室の端ではなく中央付近の座席となります。これを踏まえて「ふれあい」のある登場人物たちが占める席を藤色に設定してみました。考察した結果を先に示せばこうなります。


   第3次稿以降の席イメージ   
        
 
        


   第2次稿以前の席イメージ   
        
 
        


第3次稿以降と第2次稿以前では座席を占めるボックスが異なっています。この席位置の違いこそが第3次の改稿線路へ向かう転轍(てんてつ)機のようなものです。


3.第3次稿以降の席位置


銀河鉄道の座席形態が確定したので、登場人物それぞれの席を決めていきます。物語の進行順になります。

登場人物 (登場順)
1 ジョバンニ
2 カムパネルラ
3 灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひと
4 せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の尼さん
5 鳥捕り
6 燈台守(燈台看守) = 鍵をもった人
7 タダシ
8 青年
9 かほる

上の表が個人として特定できる人物の一覧になります。第2次稿からは燈台守が増え、子どもが2人減っています。「女の子」には「かほる」という名前が与えられました。

席位置を示す言葉として賢治は「向ふ」を頻繁に使用しています。その使われ方を検討すると列の異なるボックス席の人はみんな「向ふ」で統一されていてことがわかります。

(第3次稿)
・ 向ふの席で、灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひと
・ 向ふの席に居た、尖った帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人
・ 燈台看守の向ふの席に座ったばかりの青年
・ 向ふの席の燈台看守
・ 向ふの坊ちゃんがた
(第2次稿)
・ 向ふの席に座ったばかりの青年
・ 向ふの席のいちばんちいさな女の子
・ 向ふの小さな妹
・ 向ふの席の姉
・ 向ふではあの一ばんの姉が小さな妹を

わかりやすくはあるものの、逆に「向こう側」という情報しか示されないために位置を確定するのが難しくなっています。この「向ふ」はまた第4次稿で加筆された「向ふにぼんやり」を連想してしまいます。

そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて向ふにぼんやり橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。

下線部が第4次稿で挿入された語句です。そんなわけで席位置もぼんやりしていますが、登場順に見ていきます。

すぐ前の席に、ぬれたやうにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見てゐるのに気が付きました。
(中略)
 それはカムパネルラだったのです。

この表現からはジョバンニの前の席がカムパネルラと判断できます。しかし、ジョバンニは前の席の人物には最初に気がつかず、先にこんなものを見ています。

車室の中は、青い天蚕絨を張った腰掛けが、まるでがら明きで、向ふの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光ってゐるのでした。

この状況はどうもカムパネルラはジョバンニの後から現れたと考えるべきなのかもしれません。

「さうだ。おや、あの河原は月夜だらうか。」そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすゝきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立ててゐるのでした。

二人が窓から見た風景です。つまり、二人の席は天の川に沿っていることがわかります。進行方向は「円い板のやうになった地図」に表された「天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした」から自動的に決まることになります。

地図
花巻8月20日20時の南空


天の川と客車の位置関係と進行方向をまとめると下図のようになります。

座席と川の模式図
         
       
 
       
 
       
 
       
 
       


「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。

これはジョバンニが機関車の種類を確かめるために窓から乗り出して前方を見る場面です。ここで賢治が「左手」というヒントを出してくれています。身体を支えるのが左手ということで、ジョバンニの位置は決まります。同時にカムパネルラの位置も決まることになります。

         
       
 
カムパネルラ      
 
ジョバンニ      
 
       
 
       

次の「灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひと」は最終形では消去される人物です。

登場するのは「銀河ステーション」の章なので銀河鉄道では最初に描写される人物になります。厳かで宗教的な雰囲気を醸してはいるものの、第3次稿の尼さんと同じでたった一度きりの下の引用場面で描かれるだけです。人物を描写する際には自分の近くから始めますから、この時点においてはジョバンニたちから一番近い位置にいたことが推測できます。

(第3次稿)
 ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
 向ふの席で、灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひとが、ちょっと立ちあがって、そのえりを直しただけ、ほんたうにそこらはしづかなのでした。

この描写から右列のボックスにいることはわかります。しかし、他の人物との交流がありませんから位置を早くから確定することは難しいです。他の人物を埋めたあと残った空席で最後に確定することにします。

この後白鳥の停車場でいったんみんなが下車してしまうという問題が生じます。その後、ジョバンニとカムパネルラ以外の乗客たちの動静は賢治が何も説明していません。しかし、ジョバンニたちについては「もとの車室の席に座って」という記述があります。

これはもとの「車室」なのか、もとの「車室の席」なのか判然としませんが、一度決めた席をリセットしてしまわないために「もとの車室の席に座って」と書いたと考えます。

人の習性としても、もとの車室に戻ったなら同じ席に座るであろうし、単に元の車室に戻っただけなら、わざわざ「もとの車室の席」ではなく、単に「もとの車室」と書くはずです。そしてなによりも主人公ジョバンニが旅の進行方向に背を向けてすわるなんてことはありえないからです。

このリセット問題は灰いろひだの人にも当然影響が及びますが、他の人物とのかかわりがないので、いてもいなくてもどちらでもいいです.......(^^ゞ

ジョバンニのうしろには、いつから乗ってゐたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の尼さんが、まん円な緑の瞳を、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝はって来るのを、虔んで聞いてゐるといふやうに見えました。

すでに引用した部分ですが、これで尼さんの席も決まります。

次は鳥捕り。「ここへかけてもようございますか。」に対して「えゝ、いゝんです。」と返答したのはジョバンニですから、ジョバンニの隣でしょう。鳥捕りは鳥を捕まえるために途中下車しましたが、また戻って座ったのも「ジョバンニの隣り」でしたからね。

燈台守は「向ふの席に居た、尖った帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人」のことで、「ちらっとこっちを見て」いますので、右列のボックスにいます。鳥捕りが立ち上がった気配なしに燈台守へ「雁」を差し出していますから、鳥捕りの右と考えられます。

         
       
 
カムパネルラ      
 
ジョバンニ 鳥捕り 燈台守  
 
尼さん      
 
       

まもなく鳥捕りは下車して姿を消します。ジョバンニの隣は空席になります。そして、青年たちが登場します。

いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思ひました。
 そしたら俄かにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツをぼたんもかけずひどくびっくりしたやうな顔をしてがたがたふるへてはだしで立ってゐました。

「そしたら」という言葉で前文とつながっているので、目撃したのはジョバンニです。「そこ」とは近いけれど離れている場所ですから、一行は前方から現れたことになります。この時には鳥捕りはすでに下車しています。そして、燈台守の位置は青年たちが乗車してくる方向と対面する形になると都合がいいので、やはりジョバンニと同じ向きが適当です。

青年の指示で男の子はジョバンニの隣にすわり、女の子はカムパネルラの隣にすわります。青年は「燈台看守の向ふの席」にすわります。ここでの「向ふ」もなんとも曖昧ですが、「向こう」にはその正面の意味もあるので対面にすわったのでしょう。これは他の状況からも明らかにできます。

(第3次稿)
      灰色ひだの人  
       
 
カムパネルラ かほる 青年  
 
ジョバンニ タダシ 燈台守  
 
尼さん      
 
       

上図には「灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひと」をすでに座らせてあります。ジョバンニからこの人物の様子がわかる位置はそのあたりだと思われるからです。物語には影響を及ばさない人なので、別の位置でも構いません。

物語の終わりに近づく場面ではこういう描写がありました。

「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡ってゐたジョバンニのとなりの男の子が向ふの窓を見ながら叫んでゐました。

ここで使われた「向ふ」からは、やはり川の位置も含めて上図の座席表が正しいことを示しています。ますむら・ひろし氏が原案のアニメ『銀河鉄道の夜』の席も同じ結果にたどり着いています。

ますむら・ひろし氏が原案のアニメ『銀河鉄道の夜』

とにかく「向ふ」の多い物語です。道行きの物語であることもあってか、第3次稿では「向ふ」が40回使われています。


4.第2次稿以前の席位置


第2次稿は登場人物の確定に難しい問題があります。第3次稿の清書が検札場面の途中までなされたために元の原稿が捨てられています。下表の3番の存在と、4番の「うしろの人」が尼さんと同一人物であるか確認できません。しかし、清書が済んでいることを重視すれば存在していた可能性の方が大きいことでしょう。

その一方で燈台守はまだ存在していなかったとされています。これは第2次稿の原稿に「苹果の匂のする前に天上の燈台守来ること必要なり」とメモされているからです。実際、残された検札場面以降の原稿にもその気配がありません。

この燈台守の例を考慮すると、灰いろひだの人も尼さんも登場していなかった場合のことも想定しなければなりません。未知の登場人物がいた可能性もありますが、これは言うまでもなく検討不可能です。

灰いろひだの人については雰囲気だけの人なので存在の有無に問題は生じません。尼さんについては第3次稿とは異なって他の人物との絡みの可能性があるので、これから考察する中で席位置だけでなく存在の有無も推測していきます。

登場人物 (登場順)
1 ジョバンニ
2 カムパネルラ
3 灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひと
4 うしろの人 (カトリック風の尼さん?)
5 鳥捕り
6 タアちゃん
7 青年
8 眼のまっ黒な、まん中に居た女の子
9 一番大きな姉
10 いちばんちいさな女の子

第2次稿でまず問題になるのは第3次稿で消えてしまった人物たちで、9番と10番の席位置です。ジョバンニから見えていることがひとつのヒントになります。

・ 青年はさっと顔いろが青ざめ、いちばん大きな姉はまたハンケチを顔に
 あてました。それがすぐとなりの小さな妹に伝はったもんですから、ジョ
 バンニまで何だか鼻が変になりました。
・ 向ふではあの一ばんの姉が小さな妹を自分の胸によりかゝらせて睡ら
 せながら
・ 姉はうしろ向きになってはなし込んでゐた向ひのあの黒服の青年に

細かい描写になっています。ジョバンニから3人がはっきりと見えています。大きな姉は小さな妹の面倒を見るため隣にいます。姉の向かいには青年がいます。

青年は男の子のぬれたやうな黒い髪をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかゞやいて来ました。

青年は男の子の頭を撫でられるような近い位置にいます。つまり隣になります。これで青年と大きな姉といちばんちいさな女の子はジョバンニの右隣のボックスにいることが確定できます。青年一行がみんな集まった形になり、自然な席位置です。

(第2次稿)
      (ひだの人)  
       
 
カムパネルラ 女の子 大きな姉 小さな子
 
ジョバンニ タアちゃん 青年  
 
       
 
       

最後に「うしろの人」と尼さんを検討します。

・ 「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのです
 か。」ジョバンニのうしろの席の人が、さっきから聞いてゐたらしく青年
 にたづねました。
・ 青年はうしろの人と何か話し合ひ
・ 姉はうしろ向きになってはなし込んでゐた向ひのあの黒服の青年に

「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」という話し言葉は残念ながら男か女かを決められる表現ではありません。また、青年の後ろの席についてはこの場面まで何も書かれていません。しかし、上図を見ればわかるように「うしろ向きになってはなし込」むのに自然なのは真後ろではなく斜め後ろです。第3次稿ではそこに尼さんがすわります。

つまり、「うしろの人」とは青年のうしろの人ではなくて、遭難した時の煩悶について話を続けている「ジョバンニのうしろの席の人」を指しているものと考えていいでしょう。

席のパズルを解くとこうなりました。

(第2次稿)
      (ひだの人)  
       
 
カムパネルラ 女の子 大きな姉 小さな子
 
ジョバンニ タアちゃん 青年  
 
うしろの人→      
 
       

つまり、うしろの人とは尼さんのことで、やはり第2次稿でも登場していて青年と話す時には通路側の席に移動したものと思われます。

第2次稿までは尼さんは青年たちに声を掛けて遭難の様子を聞き出し、その後も青年と話し込んで慰める役割を果たしていたことがわかります。その動機は信仰の同士だということです。

しかし、第2次稿には「うしろの席の人」とか「うしろの人」という正体不明の呼び名が残されていることから、第3次稿のような「せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の尼さん」という紹介がなかった可能性は考えられます。第3次稿では尼さんらしい活躍をしなくなるので、逆にその正体が第3次稿で明かされたのかもしれません。

第3次稿で大きな姉とちいさな妹を退場させたことで青年は燈台守と対面することになります。それにともなって尼さんの出番はなくなり、燈台守がその役割を引き継いで印象深い人物として現れてきます。

(第2次稿)
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」ジョバンニのうしろの席の人が、さっきから聞いてゐたらしく青年にたづねました。
(第3次稿)
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」さっきの燈台看守がやっと少しわかったやうに青年にたづねました。

当初の設定では尼さんは青年たちを迎える役割を果たすためにジョバンニのうしろに配置されたことがわかります。しかし、車室中央の隣り合ったボックスからはみ出す席配置では絵にならないとわかった賢治によって第3次稿では尼さんは活躍の場を失い、寂しい存在となりました。

      第2次稿以前の席イメージ      
        
 
        

      第3次稿以降の席イメージ      
        
 
        


青年の席替えによって上図のように無駄な空間がなくなり、登場人物の密度が高まることになりました。

この車室の他の乗客の様子も見てみましょう。四箇所あります。

「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかへって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の珠数をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈ってゐるのでした。

けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌ひ出されだんだんはっきり強くなりました。

「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひゞき

汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。
そして見てゐるとみんなはつゝましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいてゐました。

最後の引用文は汽車全体ではなく、やはりこの車室の意味だと思います。どれぐらいの人々が同じ車室にいたのかは不明なままです。しかし、「もう半分以上も空いてしまひ」という説明からは半分以上の席が埋まっていたことを示しています。アニメのように森閑とした車室ではなく、人々のざわめきがあった空間でした。

「灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひと」と燈台守

ここで長めの道草します。「灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひと」は脇役としても扱ってもらえない存在です。しかし、この人物にもちょっと光を当ててみたいです。

灰いろひだの人は第2次稿以前の存在は不明で、第4次稿では消滅することになる人物です。この人物の衣装はかなり時代を遡るような古式の衣装なので聖書時代を思わせます。幻想第四次の世界は時間軸も定まっていないのでしょう。こんな絵を見てもらいます。

ペルジーノ『ペテロへの鍵の授与』

ルネサンス期のペルジーノ(1448頃-1523)作品です。聖書時代を描いている絵です。衣装のイメージが合います。

一方、燈台守は「大きな鍵を腰に下げた人」でした。こんな絵があります。

フランチェスコ・デル・コッサ『聖ペテロ』 同じくルネサンス期の画家フランチェスコ・デル・コッサ(1430頃-1477頃))の作品です。右手に一冊の書物、左手に金と銀の鍵を2本持っています。ペルジーノの絵はキリストがペテロにやはり2本の鍵を与えている場面です。つまりはどちらの絵も聖ペテロを描いたものです。上は『ペテロへの鍵の授与』、左は『聖ペテロ』です。

ご存じのように、燈台守については聖ペテロ(ペトロ)の影響が指摘されています。新約聖書のマタイ伝16章18節に「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つ事はない。わたしは、あなたに天国の鍵を授けよう」という箇所にもとづきます。詳細は「十二使徒」のページを参照してください。

僕もこの指摘には頷けます。ただし、キリスト教という装飾を利用しているだけだと思います。

灰いろひだの人がなぜ「灰色」なのかはわかりませんが、この二人の人物がまるで無関係とは思えません。やはりキリストの使徒たちをモデルとしているように思えます。第3次稿で登場してきた燈台守のために灰いろひだの人は存在が希薄になり、第4次稿ではじき出されたと考えることができます。

あるいは、第3次稿では二人が同時に登場していますが、第2次稿で登場していた灰いろひだの人が第3次稿で燈台守に変貌したとも考えられます。つまり、第3次稿で登場しているのは消し忘れということになります。賢治の消し忘れは他の箇所にもあるので、その可能性はかなりあるのではないでしょうか。


5.燈台守の誕生


第2次稿以前の青年一行の構成はまだ物語全体から導き出された構成ではなく、当時の日本人の家族構成が反映したものです。「かほると呼ばれた子」で推理したように、青年はアメリカ人学生であってもかほるたちきょうだいは日系人子女です。

下表も「かほると呼ばれた子」で示したものになりますが、年齢構成や男女の順まで含めて賢治のきょうだいが影響していると思わざるをえません。宮澤家の家族構成も当時としては平均的な家族構成でした。

対応一覧
続柄第2次稿第3・4次稿宮澤家の子
(家庭教師)青年青年賢治
長女一番大きな姉登場せず(きくよ)トシ
二女二番目の女の子かほるシゲ
長男タアちゃんタダシ清六
三女いちばんちいさな女の子登場せずクニ

第3次稿では長女と三女が登場しなくなるにもかかわらず、男の子の台詞を変更してなお長女の存在を描こうとするこだわりを見せています。

(第2次稿)
「お父さんのとこへ行くんだやう。」
(第3次稿)
「ぼくおほねえさんのとこへ行くんだよう。」

さて、青年の席替えによって大きく変化したのは対話やふれあいです。まずは簡単な一覧を見てもらってから説明していきます。

青年との関係
対象第2次稿以前第3次稿以降
 尼さん
 うしろの人
 事情を尋ねる。
 (対話)
ふれあいなし
 燈台守(登場せず) 事情を尋ねる。
 対話。
 苹果を配る。
 大きな姉 苹果を配る。(消える)
 ジョバンニ  苹果を渡してもらう。
 ほんとうの神さまで論争する。
 カムパネルラ  苹果を渡してもらう。
 「かささぎ」でとりなしてもらう。

上表を見れば2次稿での青年がジョバンニたちの輪に入っていなかったことが一目瞭然です。一番下の「かささぎ」のエピソードは女の子が「かささぎ」を「からす」と間違ったらカムパネルラが「からすぢゃない。かささぎだい。」と叫んだ時の青年の反応です。

(第2次稿)
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年は誰へともなし云ひました。
(第3次稿)
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年はとりなすやうに云ひました。

第2次稿の青年は他人とかかわろうという気持ちが希薄でした。青年は席替えによって「うしろ」を向くことがなくなり、前を見て話すようになります。

(第2次稿)
      (ひだの人)  
       
 
カムパネルラ 女の子 大きな姉 小さな子
 
ジョバンニ タアちゃん 青年  
 
うしろの人→      
 
       

(第3次稿)
      ひだの人  
       
 
カムパネルラ かほる 青年  
 
ジョバンニ タダシ 燈台守  
 
尼さん      
 
       


汽車の中での対話は子ども同士、大人同士、子どもと大人の3種類あります。ジョバンニとカムパネルラの会話から始まり、次にこの二人と鳥捕り、そこに燈台守が加わります。そして鳥捕りが消えると青年たちが現れて、ここが第2次稿と第3次稿の分岐点となります。それは青年を受け止めるのが尼さん(うしろの人)か燈台守かという違いを生みます。

青年は一応大人なので子ども同士の対話に変化はありませんが、大人同士と子どもと大人の対話には影響が及びました。

すこし話が遡りますが、子どもと大人の会話が成立しているのはかろうじて鳥捕りだけです。鳥捕りの特異性はここにあり、しかもそこには何かトリックが仕掛けられています。

「こいつは鳥ぢゃない。ただのお菓子でせう。」やっぱりおなじことを考へてゐたとみえて、カムパネルラが、思ひ切ったといふやうに、尋ねました。鳥捕りは、何か大へんあわてた風で、
「さうさう、ここで降りなけぁ。」と云ひながら、立って荷物をとったと思ふと、もう見えなくなってゐました。

鳥捕りはその後いったん戻りますが、下車した後の大人は第2次稿では尼さんだけになります。そのあと現れる青年はもっぱら尼さんと話し合うだけで、あとは横からちょっと口を挟む程度で対話らしきものはしていません。要するに同じ信仰という「身内」の中にとどまっています。

ここで言う信仰とはキリスト教だと思う方がたくさんいるでしょうが、正しくは仮想の宗教だと思います。「カトリック」や「ハルレヤ」という、かなりベタなぼかし表現で象徴できるように、キリスト教をモデルにしたまでです。

確かに当初はキリスト教であることが示されている箇所もありました。第2次稿の讃美歌場面はそのひとつです。

ニヤラー マイ ゴツド ツジー ニーラー ツゼー
「主よみもとにちかづかん
 のぼるみちは十字架に
 ありともなどかなしむべき
 主よみもとにちかづかん。」

しかし、やはり第3次稿になると尼さんが沈黙するのと同じように、キリスト教のこの歌詞は削除されました。あるいは讃美歌番号が最後には空白のままになったところもキリスト教だという根拠にはなります。

(第2次稿)
そして譜がにはかにあの聞きなれた主よみもとの歌にかはったのです。
(第3次稿)
そのとき汽車のずうっとうしろの方からあの聞きなれた〔約二字分空白〕番の讃美歌のふしが聞えてきました。

その理由が教会による番号変更のせいで不明になったためなのか、あるいは単に番号を消すためだったのかはわかりませんが、歌詞が削除されて「主よみもと」が消されつつあるなかでは番号も消されて曖昧な「讃美歌」に改められる方向性を感じます。この歌に対する賢治のこだわりも感じられるのですが、なにより物語全体からはキリスト教色を薄めようとする気持ちを感じます。

神さま論争でキリスト教に対して「そんな神さまうその神さまだい。」と言ってのける愚かさは賢治にはなかったことでしょう。ただ、仮想の宗教を描くことには成功していないために、多くの人がキリスト教だと誤解することになってしまいました。

第2次稿において、青年と信仰を同じくする尼さんは青年の苦悶を受け止める役割を果たし、この二人は一定時間、他の登場人物たちから隔てられた空間を持っていました。二人の対話の内容も不明のまま隔絶していたのです。

第3次稿では尼さんは青年の聞き役を降りることになりました。そして、大きな姉は「きくよ」という名前を与えられ、母国にいることに変更されます。このため苹果を持ち出す役割が燈台守へと移されました。

鳥捕りと同じく尖った帽子を被って登場した燈台守は鳥捕りを補完する役割を果たした後、尼さんと大きな姉の役割を担うことになり活躍する場面が増えます。しかし、役割の拡張だけにはとどまりません。

大きな姉が苹果配った相手は身内だけでしたが、燈台守はみんなに配りました。青年はうしろ向きで話し合った尼さんとは異なって燈台守と対面して話すことになり、自分の信仰との葛藤をもう一段掘り下げて話しています。

けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。

そして燈台守もこの青年の苦しみに寄り添うのです。

第2次稿では尼さんと話し合われた内容は不明なままでしたが、燈台守との対話で明らかにされただけでなく深まりをみせることになりました。

そして、信仰の話題から離れて幻想第4次世界の農業が魅力的に語られることになります。その話は男の子が見る母親の夢の中にまで苹果を出現させ、そこでお母さんはにこにこ笑っていたのでした。

燈台守は苹果を配るために登場したと考えている方もいるようですが、それは一部でしかありません。罪を一身に引き受けて孤立する青年を受け止めるために燈台守は青年の前にすわり、他の登場人物たちとのふれあいの仲立ちをするのです。

形の上で言えば、大きな姉、小さな女の子。灰いろひだの人、尼さんという半端な登場人物が整理されて、燈台守になったということです。それは青年が席替えすることによって生み出された人物です。


6.もうひとりの大人


『銀河鉄道の夜』は場面ごとに印象的な一人の大人が登場してきます。初期形から最終形まで全部含めて名を挙げれば、教室の先生、(ブルカニロ博士)、大学士らしい人、鳥捕り、燈台守、黒い帽子をかぶった大人、ブルカニロ博士、カムパネルラの父である博士です。

大人は男ばかりで残念ですが、女性は幾人もの「母」となって全体の背景に沈んでいます。青年は、『注文の多い料理店』の広告文に書かれた「アドレッセンス(adolescence)中葉」と大人の中間ぐらいの存在でしょうか。この年齢層ではただひとりです。

青年が引き寄せたもうひとりの大人、燈台守の登場は青年との対話だけでなく、ジョバンニたちにかかわろうとしなかった青年に苹果をめぐるジョバンニたちへの心遣いを生む一方で、ジョバンニとの論争へと展開することになります。

「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。「さあ、向ふの坊ちゃんがた。いかゞですか。おとり下さい。」ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまってゐましたがカムパネルラは「ありがたう、」と云ひました。すると青年は自分でとって一つづつ二人に送ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがたうと云ひました。

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたくしたちとお会ひになることを祈ります。」青年はつゝましく両手を組みました。

上の苹果の場面の「おとり下さい」というのは燈台守の言葉です。燈台守がみんなに配るつもりであったことは明らかですが、青年の心遣いを賢治は書き込んでいます。

その一方で、下の論争場面では大人と子どもの論争の典型とも言うべきもので、「大人になればわかる」という構図のさっぱり噛み合わないものでした。まさにジョバンニのこの苛立ちは賢治の人生につきまとっていたものです。

賢治としてはジョバンニの不満をどこかで解消してあげなくてはなりません。それが「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」の登場を促すことになります。もうひとりの別の大人を用意したのです。

そのもうひとりの大人に、信仰も化学と同じで実験で検証できるのだと言わせましたが、それは同時にブルカニロ博士の役目を終わらせることにつながります。第3次稿においてブルカニロ博士の存在理由はSF的な意味を除いてなくなっていました。

黒い帽子をかぶった大人はもうひとつ大事なことを話しました。それが「みんながカムパネルラだ」です。賢治は晩年になって懐疑的になっていた信仰と化学の問題をブルカニロ博士とともに捨て、「みんながカムパネルラだ」を物語の中心に据え直すことを考え始めます。それが最終形への始まりだと思われます。

このため最終形ではカムパネルラの物語が綴られることになりました。そこにははっきりとは気づかれないほどの薄墨でカムパネルラの悲しみが描かれました。

初期形でのジョバンニは『よだかの星』のよだかのように世界中で一番不幸だと言わんばかりに深く嘆いている少年でした。

ぼくはもう、空の遠くの遠くの方へ、たった一人で飛んで行ってしまひたい。

しかし、最終形で描かれたカムパネルラの悲しみによってジョバンニの不幸は相対化され、深い嘆きは消えていくことになります。

初期形ではジョバンニの悲しみをブルカニロ博士が受け止める構図でしたが、最終形になるとジョバンニはゆっくりと自立して悲しみを自分で受け止めるようになります。だから、おみやげの切符もいらなくなります。

一方、カムパネルラの悲しみはカムパネルラの父によって受け止められます。もうひとりの大人の最終形であるこの博士は「みんながカムパネルラだ」を言葉ではなく、行動で示すのです。

(第4次稿)
ジョバンニさん。あした放課后みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。

それにしても、青年が席替えしただけで「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな影響が出るものだろうかと問われれば、僕は黒いかつぎをした尼さんのように答えるでしょう。

信じる者は足をすくわれる............(^^ゞ


(参考文献・DVD)

佐々木桔梗著:「銀河鉄道の夜」と原風景(『宮澤賢治』17号所収)
ますむら・ひろし著:『銀河鉄道の夜』
現代日本文学アルバム『宮澤賢治』
美術手帳増刊:『西洋絵画の主題物語Ⅰ 聖書編』
西洋美術館(小学館)
月本昭男監修:『キリスト教をもっと知りたい。』
杉井ギサブロー監督:『銀河鉄道の夜』


2013.09

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