プリオシン海岸  プリオシン通信

魔法の靴

相手の靴をはいて歩く


さやえんどうの花
さやえんどうの花


章のリンク→三國連太郎という名前安倍首相の反撃
赤い靴パンを踏んだ娘自虐非難の構造
相手の靴ドロシーの靴 


さやえんどうを畑から採ってきて、かるく湯がいて食べる。下手な料理をするよりも素材のおいしさが口に広がる。ガリッと歯触りがいい。

さやえんどうは赤い花。白い花のグリーン・ピースは豆ごはんにします。その香りと上品な甘さが自然の恵みという言葉を思い起こさせます。春からの贈り物。

自転車で走れば、家々の庭や畑ではいろんな花がこぼれんばかりに咲いています。平和な社会であるからこそ享受できる楽園風景です。


三國連太郎という名前

『神々の深き欲望』(1968年) 先月は僕が好きな俳優、三國連太郎さんが亡くなられました。親鸞に傾倒されていたことは1987年に彼が監督した映画『親鸞・白い道』で知りました。だから、葬儀は当然浄土真宗でするのだろうと思いきや、戒名無用と遺言していたとは驚きました。いえ、彼らしいです。

本名でもなく、作品の役名から取った芸名でこの世を去って行きました。

親鸞は肉食妻帯したことから生臭坊主とも呼ばれます。三國さんも結婚4回ですからその悩みに共感するところが多かったことでしょう。12年3月の通信「当たらないように撃て」で、部落差別と仏教について記しました。その中で被差別部落のお寺生まれの西光万吉が浄土真宗を批判したのと同様の思いが三國さんにもあったのではないかと思いました。これです。

(親鸞の)御開山御在世の時から七百年にも近い今日、依然としてこれ(差別)があるということは、(中略)色衣や金襴の袈裟を着飾って念仏称名を売買する人達の同行(信仰のグループ)であるからではないでしょうか。      ※( )は管理人の註です。

三國さんも被差別部落出身です。親鸞の願いを引き継がず、葬式仏教に明け暮れる仏教教団にやはり愛想づかしをしていたのかもしれません。近親者だけで行われた別荘での通夜には読経する声が聞こえたとのことですから、親鸞が選んだ御経には親しんで旅立たれたようです。

三國さんの役への入れ込みぶりとして老人役をするために歯を十本抜いてしまったエピソードがよく紹介されますが、そこまでしないと演技できないという下手ぶりを伝えているようなものです。『釣りバカ』ならぬ「演技バカ」です。

『サンダカン八番娼館 望郷』 1974年に田中絹代さんが『サンダカン八番娼館 望郷』でやはり抜歯しました。三國さんが抜歯したのは『異母兄弟』(1957年)ですから、田中さんに影響を及ぼした可能性があります。ふたりはこの作品で夫婦役でした。

観客としてはそんな話を聞かされたら引いてしまいます。こんな痛ましいことを感心するみたいな人物紹介はやめてもらいたいものです。三國さんも田中さんも、その人柄や演技だけで十二分に人を感動させてくれました。

安倍首相の反撃

前回の安倍内閣の時にはイデオロギーばかりで国民の生活を考えていないと批判していた僕ですが、今回はさすがに反省してイデオロギー控えめで高支持率を保っています。しかし、やはり歴史認識で韓国や米国から批判を受け始めています。去年の新幹線での老人との一悶着みたいなことにならないようにしてほしいものです。

その経済政策の是非についての議論はさておき、安倍さんは前回内閣の退陣後に、「国民の関心は年金問題だった。憲法改正への関心は低かった」と語ったそうです。国民の願いを無視して政治をやっているものとばかり思っていたのに、そうではなくてただ鈍感なだけだったとは驚きました。

あんなにみんなが年金問題で怒っていたのに。生活の心配がない人はやはりどこかズレています。そして今回驚かされたのは96条改正という主張です。9条という本丸責めは難しいから、まずは外堀責めとは姑息な。僕のようなホコリしかない人間の言うことじゃありませんが、日本人の誇りが泣きます。

96条は後にして、先に99条を読みましょう。

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

96条改正という本末転倒の度合いは憲法学者の石川健治さんの言葉がわかりやすいです。「憲法改正権者に、改正手続きを争う資格を与える規定を、憲法の中に見いだすことができない。それはサッカーのプレーヤーが、オフサイドのルールを変更する資格を持たないのと同じである」

国会議員というのは時々常識外れのことを思いつくから困ります。しかも、国会議員は法律を作る仕事をしている人々です。専門家であるべきはずの議員が平気な顔で言うのだから、僕みたいな素人は赤面してしまいます。

政治家の中には安倍さんを批判して、9条を変えたいと内容を示した上で96条の改正を訴えるべきだという人たちもいます。ズッコケてしまいます。石川さんの例になぞらえるなら、選手が自分のチームが勝ちたいからルールを変えたいと訴えるようなもの。ただ理由を付け加えただけのことであって、ことの本質がまったくわかっていません。

「憲法は国民が国家を縛るものだ」という当たり前の考えが国会では少数派です。ジョン・ロックが唱えた立憲主義に基づく明治以来の政治を根底からひっくり返すようなことです。石川さんは「革命」だと言っていますが、保守が革命を起こしてどうする?と笑うに笑えない事態です。

じっさい自民の憲法改正案では憲法尊重義務を国民に課す形になります。そして、戦争ができる国にすることと、基本的人権を国家によって制限できるようにします。国内の差別解消に対する取り組みも停滞することになるでしょう。

しかも、家族は助け合わなくてはならないとか、そんな幼稚なことまで書かれる憲法をどう活用すればいいのやら。

世界を前進させるような大きな仕事をする人はそもそも親を捨てるぐらいの気概が必要です。親孝行と言えば孔子が浮かびますが、孔子も親孝行はしていません。大人になった時には両親ともに亡くなっていましたから。

家族を顧みることもできない競争社会を推進する一方で家族は助け合えとは。そもそも家族が助け合うのは生得的なものです。老子もそう言って孔子を批判しています。それができなくなるのはなんらかの事情が生じてしまっているからです。その事情を改善できる社会を作るのが政治家の仕事ではないのでしょうか。

家族関係の崩壊は思想も主義も関係ありません。議員さんたちの家庭調査をしてみればすぐにわかることです。自民党は親の老後は家でみてくれ、国は知らんということだけの「親孝行」なんでしょうけれど。

そろそろ96条を読みましょう。

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

ここで硬性憲法とか軟性憲法とかの話がでてくるわけです。一般法律は過半数ですから、その比較でいけば硬性ですね。逆に憲法も法律なみに過半数にハードルを下げたら憲法まで法律なみに重要度が下がり、憲法を改正したら前の憲法の下で成立した法律と整合しないという事態を招く可能性が高くなります。

だからこそ大本の法律である憲法は硬性にされています。日本と同じく敗戦国であるドイツも上下両院の3分の2の賛成を求める硬性ですが、なんと59回も改正しています。デンマークでは議会の過半数ですが、総選挙を挟んで2回の議決と国民投票での承認が要件になっています。厳しいです。

アメリカは上下2院の3分の2以上の賛成と、4分の3以上の州議会の承認で日本より厳しいですが、戦後6回改正しています。お隣の韓国は1院政ではあるものの日本と似ていて国会の3分の2以上の賛成と国民投票で過半数です。しかも、その国民投票には過半数という最低投票率をクリアしなければなりません。それでも9回改正しています。

要するに、日本国憲法の改正要件は至って普通。国民の大多数が賛成できないようなことはいじらないということは常識でしょう。

日本の歴史を振り返れば、集団摩擦で熱しやすい国民性を考慮して頭を冷やす期間となりうるデンマーク方式がいいのじゃないかと思いますね......(^_^)

代々国家権力とかかわってきた一族が多い議員たちは国家側にアイデンティティがありますからら自分たちの権力を強めようとするのは無理もありません。国家によって多数の国民が辛苦をなめ尽くした戦争さえ真摯に反省できない人たちに憲法を乗っ取られてたまりますか。憲法こそ戦争で死んでいった人々の墓標です。

墓標にしずかに花を供え続けてきたのは国民です。靖国で集団デモストレーションをする国会議員のように不真面目ではありませんぞ。

安倍一次内閣の時も、今回も国民は憲法改正を求めるような声を上げていません。声を吸い上げるのが政治であって、声を垂れるのは政治ではなく、社会不安を招く扇動です。

結局、安倍首相は国民の声に耳を傾けなかったと反省したのではなく、憲法改正の戦略を間違えたと反省したわけです。つまりは反省とは縁遠く、今度は脇道から反撃に出たというところでしょうか。

赤い靴

アンデルセンの作品に『赤い靴』があります。安倍首相の戦略を考えると、僕はこの作品を連想してしまいます。

景気が良くなるという期待を抱かせて選挙を勝ち抜き、憲法改正へのハードルを下げさせれば、何かの拍子にムードに乗って改正に行き着くというのが安倍さんの算段です。

つまり「赤」という魅力的な色で幻惑しておいて「靴」を履かせれば、国民はその靴で踊り続けなければならないという物語です。『赤い靴』は1845年、アンデルセンが四十歳頃の作品です。作品が書かれた年を調べるのに検索していたら、「左翼」という懐かしい言葉が目に入ったのでそのブログを眺めました。

左翼は『赤い靴』が大嫌いと記してあります。「赤」が嫌いな左翼とはいかに? このブログはうちのホコリのようなサイトとは桁違いのアクセス数を誇っている人気ブログのようです。何桁ちがうのかな〜.......(^^ゞ

左翼はすでにメディアにもさっぱり登場しないので、すでに滅亡したものと思っていましたが、一部の保守思想をお持ちの方にはまだ現実的な敵なのかもしれません。2年半前の記事ですけどね。このブログには「売国」とか「洗脳」とか「処刑」という言葉も記されているので、一般的な保守ではありません。

『赤い靴』 左翼が『赤い靴』を嫌いな理由とは何でしょう。ブログ氏は「児童館のようなところに行って絵本をよく見ますが、このお話の絵本、その手の場所でこれまで見たことありません」と記しています。まじめに書くのも気が引けますが、そもそも左翼はアンデルセンなんかに関心はないと思いますね。

推測ですが、ブログ氏の言う左翼とは僕のようなリベラルな考えの者を指しているのではないでしょうか。そうだとしても、リベラルな僕は『赤い靴』が嫌いではありません。少女が赤い靴の魅力に囚われていく様子は興味深い。人間心理の一端を見事に表現していると思うからです。

ブログ氏は親不幸娘を誡める話として『赤い靴』を褒めて、こういう教訓話こそ子どもにはたくさん読ませるべきだと訴えています。そもそもこの話はキリスト教の物語で、信仰、あるいは教会に背く行いを誡めています。ですから、単純に親不幸娘を誡める教訓とするのは誤解であって、相手は親ではなく神です。

親不幸娘として読むにしても同情すべき余地がたくさんある娘です。貧しくて裸足でいる娘に同情した親切な靴屋のおかみさんは実母の葬式に赤い靴をくれました。これ以外に靴はなかったのです。ここから始まって、この娘カーレンが赤い靴に魅せられていかざるをえない状況をアンデルセンは書いています。

『赤い靴』 そうしてとうとう育ての親の臨終をよそに赤い靴に引き寄せられて舞踏会に出かけてしまい、天使の呪いを受けることになります。踊り続けるという呪いから逃れるために両足を切り落とし、教会に奉仕することでようやくこの娘は赦されることになります。まったくもって当時の教会が喜びそうな話です。

「目には目を」をはるかに超えた罰で、宗教が絡むとこういう恐ろしい状況にエスカレートするわけで、世界の宗教をめぐる対立もその通りになっています。日本でもすぐに「処刑!」と叫ぶ人々と似ています。

この話にアンデルセンらしさがあるとすれば、この娘に同情すべき状況を与えていることです。彼の作品には『みにくいアヒルの子』のような弱者に注ぐ視線があったと同時に、彼の創作ではなく翻案ではあるものの『裸の王様』のように権威の愚かさを笑う視点も持ち合わせていました。『赤い靴』にも隣人愛が描かれています。およそブログ氏の思想とは相容れないのではないでしょうか。

この話での「教会」を国家に置き換えると、国家に背いた者は厳しい罰を受け、改心するまでは国家に奉仕しなければならない、となります。なるほど、右翼が喜びそうな側面はあります。しかし同時に、思想犯の強制労働があったかつてのソ連や、今もある中国や北朝鮮の強制労働とそっくりの構図が浮かび上がります。『赤い靴』はブログ氏が嫌いなはずの共産党独裁社会がそのタイトルも含めて喜びそうな話でもあります。

かつてイスラム教原理主義とキリスト教原理主義はどんどん似てくると書いたことがありました。乱暴なことを言うようですけれど、要するにこれは思想の対立ではないということです。同じように右翼でも左翼でも過激になれば国家主義や独裁主義に陥っていくのですから、思想に違いはないです。

その思想とは「自分たちだけが正しい」という思想です。では何が違うかと言えば立場が異なるだけです。

イスラム教圏に生まれた人はイスラム教原理主義となり、キリスト教圏に生まれた人はキリスト教原理主義となります。日本の右翼は中国に生まれていればバリバリの共産党員になっていた可能性があり、中国の共産党員は自民党員や維新の会会員になっていた可能性が生まれます。

ブログ氏はかつて自分は左翼だったと告白しています。思想が同じだから、立場は簡単に左から右へと移動できるのです。政治的転向によって反対側に移る例は枚挙にいとまがありません。保守の右寄りが革命をめざすようになったのも無理はありません。

パンを踏んだ娘

アンデルセンは1959年、五十代半ばに『パンを踏んだ娘』という親不孝娘の話をまた書きます。これもキリスト教が主題ですから、キリストの身体を象徴するパンを踏むのは重罪ということでしょう。この娘インゲルは沼に囚われて地獄に落ちていきます。

しかし、インゲルは自力で助かるのではなく、インゲルの話を聞いて悲しんだ見知らぬ少女の涙によって救われる契機が与えられることになります。しかし、神さまは寛容ではありません。少女が年老いて天国へ召される時、つまりは老女の涙になるまで救いの手を差し伸べることはありませんでした。

「蜘蛛の糸」の改心版みたいな話でキリスト教らしくありませんが、小鳥に生まれ変わって善行を積み、赦されることになります。少女の涙にはその罰の酷さに対する非難が読み取れます。

パンを踏んだ娘 しかも、こちらの娘は元から性悪です。それでも救われたのです。僕はアンデルセンのことをあまり知りませんが、沼に「足を捕らわれる」ところといい、『赤い靴』が書き換えられたとしか思えません。それは寛容の心によってです。

デンマーク語ではアナスンと発音するハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen は『即興詩人』(1835年)が認められて世に出た人です。この作品もそうですが、彼の作品には自分の経験が大きく反映しています。『赤い靴』も同様で彼自身が貧しい靴職人の家庭で育ちました。母はアンデルセンの父と結婚する前に私生児を産んでいました。

デンマークはマルティン・ルターの宗教改革を受けた福音ルーテル派の国です。キリスト教の国にあって、アンデルセンの母は「アバスレ」程度で済むはずはなく、宗教的、社会的制裁を受けたことと思います。

ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』(1850年)は同じくプロテスタントのアメリカ・ピューリタン社会を舞台としていました。これは2009年1月の「マリア様」で女性への罰とともに取り上げました。

父は母よりも十歳以上若かったようです。ナポレオンに憧れて戦争に参加した父はそれが契機となって早世します。母はその後に若い靴職人と再婚しました。

しかし、善良で優しかった母親をアンデルセンは愛しています。『赤い靴』では親切心から赤い靴をくれたのは靴屋のおかみさん。つまりはアンデルセンの母が写し込まれていると考えてよさそうです。アンデルセンなら靴の魅力も教えられていたことでしょう。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン アンデルセンはきゃしゃな体つきで、声はソプラノ。男らしくない少年でした。織物工場でも、指物師の作業所でもいじめられて辞めています。まさに『みにくいアヒルの子』です。

その一方で親切を受けたにもかかわらず、その恩義を忘れるような行いもしています。『赤い靴』も『パンを踏んだ娘』もアンデルセンという人格とは無縁ではありません。

彼が数々の失敗を乗り越えて成功したのは人々の親切によるものです。恩も忘れるようなヤツと見捨てられていたら、アンデルセンは生まれませんでした。見捨てずに彼にチャンスを与え続ける人々がいたからこその成功です。保守的な人々から見れば好かれそうにもないアンデルセンの母であり、アンデルセン自身です。

僕が『赤い靴』に惹かれるのは、カーレンが赤い靴に魅せられるところです。まさに赤い靴とは人生の喜びです。辛苦の多い人生にあって赤い靴はどれほどの慰めを与えてくれるでしょうか。カーレンにとって赤い靴は他の悩みをすべて忘れ去らせてくれるほどのものでした。それはアンデルセンにとっては詩や芝居でした。

しかし、人は赤い靴ばかりに心囚われていれば自分の人生も他人の人生も破壊してしまうことになりかねません。そのバランスを上手にとることの大切さを思うのです。アンデルセンは赤い靴の喜びを認めながらも、キリスト教に縛られて素直に作品をまとめることができなかったように見えます。

ブログ氏のいうような「親不孝でチャラチャラした小娘の話」では決してありません。そんなふうに読めてしまうのは読み始めてすぐ自分の心の中にあるラベルを貼り付けてしまうからです。そんなことをしていれば、事実はすべて歪んでしまいます。

昔、国が戦争を始めて兵士だけでも2百数十万人を死なせ、親不孝をさせたのは誰でしょうか。やっぱり親孝行をしなさいと説教していた保守の政治リーダーたちです。親不孝の問題も見方を変えれば180度変わってしまうものです。

日本人としての誇り!なんて言うけれど、日本人もピンからキリまでそれぞれです。ただ威張りたいだけの誇りなど、「裸の王様」の服と同じです。そんな誇りのために親不孝されられたくはありません。

自虐非難の構造

日本を批判することは自虐であると同じ日本人を非難するのはどういうことでしょうか。人は過ちを犯し続けながら人生を歩みます。しかし、時々反省したり、自己批判したりすることで自分の心を磨いていきます。

それは自分が属する日本という共同体を振り返る時も同様です。日本の悪口を言って楽しんでいるのではないことは自明であって、日本を磨きたいからに他なりません。

坂本龍馬が姉乙女に宛てた手紙の「日本を今一度せんたくいたし申候」と同じような思いです。

過去の日本がどうあったにせよ、現在の日本がどうであるにせよ、日本に対する愛着心が動揺することはありません。努力していけば乗り越えられるという民族的確信があるからです。それは日本人としての自信だと言っていいかもしれません。その愛着心がいつも動揺にさらされているのは逆説的ですが、自虐と批判する側の人々です。

日本の歴史の汚点や外国人に寛容であることは彼らの心を傷つけます。それによって日本に誇りが持てなくなったり、日本人としての自信が揺らいでしまうからです。その意味ではまさに自虐の人々だと言わねばなりません。

何をそんなに怖れることがありますか。歴史の汚点は人々が反省して磨いてきたからこそ、現在では汚点として考えられるようになったのです。汚点を隠したまま日本が磨かれなければ、日本には汚点が残ったままになります。まさに日本人の誇りが損なわれる事態が永遠に続き、露見することを怖れ続けなくてはなりません。

どこの国にも客観性を失った愛国者はいますが、異なる国民であっても考えを同じくしているから愛国者として手を結んでも良さそうなものですが激しく反目し合います。寛容で平和を愛する人たちなら、国を超えて手を結び合うのになぜでしょうか。

それはそんな愛国を裏打ちしているものが憎しみだからです。

日本もTPPに参加することになりましたが、経済から文化までグローバル化した現在においては人も金も法律でさえも国境越えをしていき、国境を越えないのは国境そのものだけという時代です。

そんな状況の中で日本のことは外国には関係がないから憲法についても「我が国の憲法なので、いちいち説明していく課題ではない」(安倍首相)と言い切る時代認識は理解しがたいです。

日本国憲法は「隣人愛」の精神を含んでいます。外国から資源をぶんどってきて、それで国内生産をして外国へ売りさばくという生き方が通用しないことを世界大戦に負けて知ったからです。今は隣人が豊かにならなければ、自分も豊かになれない時代です。貧乏人相手では何も売れませんから。

経済障壁をなくすだけで国際関係がうまくいくはずがありません。むしろ、経済障壁なんかより、文化障壁をなくすことの方が先決です。言うまでもなく、歴史も文化のひとつです。

相手の靴

オードリー・ヘプバーン」のページで『アラバマ物語 To Kill a Mockingbird』(1962年)を紹介しました。ヘプバーンが出演しているわけではなく、グレゴリー・ペックにも触れたからです。そのページにはシーンのサムネイルも掲載しています。

  弁護士アティカス・フィンチは娘スカウトと息子ジェムの3人家族です。子どもたちはお父さんと呼ばずに「アティカス」と呼びます。冒頭から「父上と呼べ!」とその自由さに目くじらを立てる方もいるところでしょうが、深い信頼と愛情で結ばれている家族です。

アティカスは人種差別の偏見が強い南部にあって、白人女性を暴行したとして訴えられた黒人男性を弁護します。当時は黒人は嘘つきと相場が決まっていて白人の証言ばかり取り上げられた時代ですから、映画の設定にはそういう多数の黒人の冤罪が背景にあります。

その一方、子どもたちの世界では隣に異常者が住んでいるという噂があって、子ども達は好奇心と恐怖心を抱いていました。この心理は日本の戦時中に「鬼畜米英」という言葉が使われたのと通底するものがあります。「鬼畜」という言葉は憎むべき相手というよりは恐怖を抱く対象です。無知は怖れを招きます。

映画では子どもたちが何者かに襲われるという一騒動があって、この隣人ブーのほんとうの姿をスカウトは知ることになり、最後に手をつなぐのです。スカウトはそれを回想してこう言います。

One time, Atticus said you never really knew a man until you stood in his shoes and walked around in them.

かつてアティカスは言った。人を知るにはその人の靴をはいて歩けと。

かつてとはスカウトが小学校へ上がったものの他の子と衝突を繰り返すので、人付き合いのコツとしてアティカスが教えた時のことです。

原作は女性作家のハーパー・リーの『ものまね鳥を殺すには』です。子ども時代、ハーパー・リーの隣にはトルーマン・カポーティが住んでいました。幼なじみでその後も親交があり、映画『カポーティ』(2005年)にも彼女のこの作品が出ていました。カポーティはブーではなく、夏休みになるとやってくる少年のモデルになっています。

アティカス・フィンチが唾を吐きかけられる場面があります。アティカスが右手を動かすと、相手はちょっと引きます。そして、アティカスはボケットからハンカチを取り出して顔を拭います。自分に自信と誇りを持っている人はこういうものです。

ドロシーの靴

戦争に関係する儀式はとかく近隣諸国の反発を買うものです。しかし、先月の28日に行われた主権回復の式典は沖縄の反発も受けました。やはり沖縄のこころがわからない政府です。

今上天皇は皇太子の時から沖縄に心を砕いてきた人です。出席を求められた天皇の心には忸怩(じくじ)たる思いがあったことでしょう。おまけに万歳のハプニングが退場する天皇の背中に追い打ちをかけていました。

韓国外務省は「他国を植民地にし、侵略したことについては『どちらから見るかで違う』と言いながら、自身の主権回復は祝う姿は非常に理解しがたい」とコメントしました。自国が連合軍によって占領されていた痛みを今でも感じているならば、韓国の痛みにも共感をいだけるだろうと僕も思います。自分の靴だけ磨くのは礼儀知らずです。

日本が主権を回復した日は沖縄の切り捨てだけではなく、台湾や朝鮮出身の人々から日本国籍を剥奪した日でもあります。政府は責任を放棄したかったのです。これによって無国籍になった人々がたくさん出ました。

日本維新の会の綱領には次の文言があります。石原代表が書き込んだとそうです。

日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる。

「日本を孤立と軽蔑」から救い出して、世界に、特にアジアに受け入れられるようにしたのは憲法の成果です。お陰で日本は国の再建に全力を注ぐことができました。そして、「絶対平和という非現実的な共同幻想」に陥らなかったからこそ自衛隊を持ったのです。

国家と個人が自立できなかったからこそ日本は戦争に突入し、負けました。だから戦後は新しい憲法によって、国家と個人の自立を育ててきました。また国が天皇に従属し、国民は国に従属するような個がない日本人に戻して、どんな国の自立があるでしょうか。

これは自分の靴しかはかない石原さんには見えない現実です。同時に日本の公党が石原さんの非現実的な個人幻想を掲げていることに驚きを禁じ得ません。敗戦という屈辱をなかったことにしたい老人のぼやきでしかありません。世界の平和な国々とその価値観を共有できる国になれたのはこの憲法あってこそです。

戦後政府内で検討された憲法草案である松本試案では明治憲法の手直ししか想定しておらず、例えば「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と改めるようなことに象徴されるレベルでした。やはり国民は天皇の赤子であって、マッカーサーが言った「12歳の少年」からは成長できないままでした。

日本国憲法こそ、日本が独り立ちして世界を歩いて行けるようにしてくれた魔法の靴です。この靴は保守の人々が嘆くように日本人が自分で作った下駄ではなく、西洋文明の成果で作られた理想の革靴です。しかし、紛れもなく当時の日本人が歓迎した靴でした。日本人はその期待に応えて、磨き続けてきたのです。

ネット右翼から保守の政治家に至るまで歴史や憲法にまつわる発言は右翼の街宣車がスピーカーでがなり立てるレベルになってしまっていて、議論のしようもありません。すべて感情論で押しまくってくるのですから、扇動に弱い大衆は危険に晒されます。

大衆のムードはいつも理性によって生まれるものではなく、感情によって生み出されます。だからこそ、96条改正でハードルを下げることが狙われるのでしょう。

東京都知事がオリンピック誘致の記者会見でイスラムへの偏見発言で問題化した後、安倍首相がちょうどトルコを訪問しました。イスタンブールも候補地として名乗りを上げています。

共同通信によると、安倍首相は講演でこう話したそうです。
「もしイスタンブールが五つの輪を射止めたら、私は誰より先に『イスタンブール万歳』と言いたい」
「東京が五つの輪を射止めたら、トルコのみなさん、誰よりも早く万歳と叫んでいただきたい」

どちらの発言にも拍手があったそうです。いいタイミングでうまいことを言ったと思います。僕なら、万歳ではなくて、おめでとうですけどね......(^_^) 相手の靴を履くような、こういう大らかなこころで、外交でも尖閣諸島のように尖らずに、国内においては低い目線でお願いしたいものです。

かつてチューリップが歌ったのは『魔法の黄色い靴』でした。恋人が靴を捨てて逃げていってもその靴に連れ戻されるという恐ろしい黄色い靴です。憲法が国民から奪われて国のものになったら、イエローカードを突きつけられた国民は黄色い靴に追いかけられることでしょう。

『オズの魔法使い』(1900年)             『オズの魔法使い』(1939年)
原作『オズの魔法使い』(1900年)      映画『オズの魔法使い』(1939年)

この歌の元ネタは言うまでもなく、『オズの魔法使い』(1900年)のドロシーの靴です。第1巻しか読んでいないし、原作ももう忘れてしまいましたが、ドロシーの靴は銀の靴でした。しかし、映画(1939年)ではドロシーがルビーの赤い靴のかかとを3回鳴らしてから、「There's no place like home. 家ほどいいところはない」と繰り返すと家に帰ることができました。

ドロシーにも親孝行できるような両親はいませんでした。カンザスにあるのは竜巻と貧しいおばさんとおじさんだけです。でも、ドロシーが大好きな人たちでした。

3大原則に代表される日本国憲法が国民の手にあれば、僕たちがいつかどこかに迷い込んだとしても、ドロシーのようにかかとを3回鳴らして、国民主権、基本的人権、平和主義と3つ唱えれば、平和な家に帰ることができます。

僕もその時が来たらスカートをはいてかかとを鳴らすつもりです。だから、この憲法はそばに置いておきましょう。

2013.05

※追記 上の記事をアップした直後、維新の会共同代表の橋下さんが従軍慰安婦問題や米軍基地兵士の性欲対策をめぐる発言で世界的な批判を浴びることになりました。橋下さんは少なくとも大阪の風俗や一部の人々の性欲が世界のスタンダードから大きくはずれていることを知っておくべきでした。「性的エネルギーのコントロール」は公的な問題ではなく、個人的な問題です。だからこそ人の尊厳にかかわります。そこを間違えるから従軍慰安婦問題が起きました。
昨年3月の通信「当たらないように撃て」で「維新旋風が吹いた後、打ち上げられた気球はうまく着地できるでしょうか。たぶん僕たちはその墜落の後始末をしなければならないでしょう。」と記しましたが、予想よりも時期が早かったようです。
橋下さんは「日本だけが不当に侮辱を受けている」と言いますが、そもそもこういう事態になったのは戦後日本の政治家だけが反省せず、繰り返し戦争被害者を侮辱する発言を繰り返してきたからです。今回の橋下さんの発言の裏には安倍首相のいけいけムードがありそうですが、安倍さんの「侵略の定義」問題も同様に世界から歴史修正主義と批判されています。
「後世の歴史家が判断すること」という政治家の言い訳は日本の国会だけで通用することです。よその国の人たちは自国の歴史も語れないような政治家とだれか外交交渉をする気になるでしょうか。これでどうして日本の未来を託すことができましょうか。日本への「不当な侮辱」は日本の政治家が作り出しているものです。
保守政治家たちの中には橋下さんを批判しつつも、その発言内容より本音を言ってしまった愚かしさに同情しているニュアンスが感じられます。この機会に保守政治家たちが国内で発言していることがいかに世界標準からずれているかを知ってほしいものです。こんな人たちに憲法をいじらせたら、やはり日本は路頭に迷います。
性欲とはそもそも恋をしたり、結婚して家族を作ったりして人生を楽しむ原動力です。捌け口が必要なやっかいものばかりではありません。保守政治家たちもそろそろ少年のような自慰から卒業して独り立ちし、世界と交際してください。

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