プリオシン海岸  プリオシン通信

愛の無知の鞭

学校にSMクラブはいらない


鷺ひとり


寒い冬です。関東地方での積雪ニュースがありましたが、こちらの東海でも初積雪がありました。東北、北海道では.........いつものことですね。厳しい寒さが続きそうです。

寒いニュースは天候ばかりではなく、年明けからさっそくアルジェリアでのテロ。世界で多くの人々が苦しい目に遭うのは人による災いです。自然災害なんかとは比べものになりません。

SF映画では彗星衝突とか巨大隕石落下が描かれます。たまに小惑星が地球に衝突する危険性があるというニュースが出ることもあります。しかし、人間が起こす災いは時々巨大隕石が落ちているのと変わりないです。

暴力で問題を解決しようとする人間を神さまがみんな引き取ってくれたらと夢見ることもありますが、神さまは暴力を振るう人間も振るわない人間も平等に愛するらしく、人は涙が涸れることがありません。


裸の王様

日本では子どもが命を絶つ事件が後を絶ちません。新年早々からまた学校というフィールドで、今度の自殺の動機は体罰でした。学校での子殺しはどうしたら止められるのでしょうか。

僕は五十代ですが、子どもの時代は学校でも家庭でも体罰は日常茶飯事でした。子どもは大人から叩かれるのが当たり前。女は大人になっても男から叩かれるというのも当たり前の時代でした。そこに通底するのは要するに弱い者いじめです。どっちが正しいかなんて関係ありません。強い立場の者に逆らえば叩かれる。つまり、強い立場の人が道徳の規準でした。

父は戦時中は小学生でしたが、体罰のない日がなかった世代です。竹を太股に挟んで正座させられたとかいろんな方法を聞かされると時代劇で見た責め具を思い出して、世の中には恐ろしいことを思いつく先生がいたんだなあと思いました。そして、オヤジがそんな学習を身につけていないことを祈ったものです。

この通信を読み続けている人ならすぐに了解されるでしょうが、僕も人格に問題があるのでずいぶん叩かれました.......(^^ゞ だからいちいち叩かれた理由など思い出せません。しかし、叩かれても仕方がないと思ったのは一度しかありません。それは自分の命を危険にさらした時です。

それ以外に受けた体罰は僕の人格ばかり問題があったのではなく、叩いた相手の人格にも問題があったと思っています。ともあれ、叩かれなくても言葉で理解できる心を持っているのが人間だし、そんな心を持ち合わせていない人だったら、そんな心を育てるのが躾(しつけ)や教育でしょうに。

体罰を是認していた橋下徹大阪市長は今回遺族と面会して自分の認識が甘かったと考えを改めたようです。そこまでは謙虚で良かったものの、それからはなにやら今までの攻撃対象に新たなネタを見つけたかのように元気になり、行政者として責任を謝罪しながらもはしゃいでいるようにさえ見えました。

衆議院選挙で迷走して批判を浴びて意気消沈していたから気持ちはわかりますけれどね。

人間、はしゃぐとろくなことをしません。さっそく桜宮高校の教員総入れ替えとか募集停止とか廃校まで言及するような極端なことを言い出しました。田中真紀子文部科学大臣が久しぶりの大臣就任ではしゃいでしまい、大学設置不認可騒動を起こしたのと同じ構図です。

そんなことを思っていたら、橋下市長の圧力を受けた教育委員会は体育科の入試中止を決定してしまいました。大人みんなに責任のある教育指導論の問題が、子どもたちの部活や進路問題にすり替わってしまったと言えます。

教員が体罰で処分されたいうニュースは普段からよく見聞きします。ニュースにならずに学校止まり、教育委員会止まりはもっと多いでしょう。今までだってたくさんあったのです。それを見逃し、擁護してきた自分たち責任ある立場の者に鉄槌を下さずにたったひとつの学校に全責任を押しつけ、いつも被害者であった生徒に鉄槌を下ろしたも同然の行為です。

体罰を容認した学校長と、同じく体罰を容認してきた首長のどこに違いがあるのでしょうか。学校教育も首長がマネージメントすべきだとしてきた橋下氏の主張との整合性は?

桜宮高校3年の生徒8人が記者会見ですべてを奪わないでと愛校心あふれる言葉でその決定を批判していましたが、僕たちはどう受け止めたら良いのでしょうか。だからダメなのか。日ごろ愛国心を説く橋下市長から見れば、この愛校心は讃えられていいはず。

この生徒たちの発言は学校の擁護だけではありませんでした。そこにはたった1学校だけにとどまらない教育問題が隠されているだけでなく、自死した生徒の思いに応えるものがあると思うのですが、行政はこの子どもたちとは向き合う気はなさそうです。

強い立場の人が道徳の規準だと書きましたが、学校には裸の王様がいるから体罰が起こりやすいわけです。そして、やはり行政にも裸の王様が君臨しているようです。

(2013年7月追記)
2013年5月に東京都議選あり、維新の会は惨敗しました。橋下共同代表は同じく共同代表である石原慎太郎氏に「裸の王様だった」と謝罪したそうです。

ヤンキー教育論

もう一人はしゃいで意味不明なことを言っている人がいます。先月も道徳教育で取り上げた安倍首相のお友達、ヤンキー先生こと義家弘介文部科学政務官の発言を拾うと、まだ体罰を擁護するつもりのようです。

曰く、「安易に体罰という言葉が流布されているが、継続的、日常的に行われた身体的、精神的暴力と思う」。曰く、「一定ある。目的は何なのかだ。体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」。曰く、「懲戒的に行う『体罰』と矮小化するべきではない」。

メディアによって多少言葉が異なりますが、文意はほぼ同じです。弱り目の人には詰問するメディアも強気な相手には一切質問をしないので、意味不明なまま記事にするためにこういう現象が起こります。

義家氏の発言を注意深く読むと、どうも体罰とは崇高なものであって、安易に暴力ごとき行為といっしょにするなということらしいです。体罰は叱る時のもので、その他の体罰は暴力だということでしょうか。なるほど、この意見には一定の賛同者がいそうです。

しかし、体罰を受けたことのある人ならすぐにわかることですが、なぜ叩かれたのかわからないことはいくらでもあります。先生の虫の居所が悪かったんだろうなと諦めるか、あるいは自分の過ちを指摘されて腹が立ったんだろうなと思って頬を差し出すしかないのです。

大人は正しく、子どもは間違う。そういう教育観がそもそもの大間違いです。大人が過ちを犯しても子どもは大人を叩いたりしません。だまったまま悲しく大人を見つめるしかありません。体罰は弱い者いじめです。大人だって間違うのですから、きちんと子どもの言い分を聞いてから問題の解決に当たるのが筋道というものではないでしょうか。

成人の日に厚木市の式典に招待された義家氏は 「なんと12月の選挙で小選挙区では落選し、比例で復活当選した民主党議員」 より後に紹介されたことに腹を立てて市に抗議したそうです。与党議員で政務官である自分をなんと心得る!ということらしいですが、「選挙、民意、民主主義を軽んじる、もっといえば、否定する話ではないだろうか」 だそうです。

また勘違いしている。選挙でボロ負けして意気消沈している民主党議員をいじめなくても......(^_^) 小選挙区で落選しても比例区で当選すれば、民主主義に基づく選挙で民意を得たことになることを義家氏は知らないのでしょうか。そもそも市民はだれも議員の挨拶なんか求めていません。それが民意です。議員たる者はスピーチの順番ごとき瑣末なことでお祝いの場にケチをつけてはいけません。それはヤンキーがすることです。

しかし、義家氏は大事なことを教えてくれているのです。それは体罰とは「勘違い」の上に成り立っている教育手法だということです。

体罰と愛

体罰の効果には絶大なものがあります。だから、是認する人はそれに取り憑かれます。家庭でも学校でも、これほど速効のものは他にありません。スポーツの場で使われる場合はドーピング効果を生みます。

先日レスリングの吉田沙保里氏が講演で示した体罰観はスポーツ界の体罰信仰の根深さを物語っています。

「私も小さい時から父にボコボコに殴られた。今となっては愛のムチだと思うが、殴られた人が暴力だと思えば暴力。わからせるために殴ることはあると思うが、どこから暴力になるのかの境は難しい」

何がその境目を難しくさせているかと言えば「愛」との混同によるものですが、これは後で説明します。国民栄誉章まで授与された一流の選手でもこうなるのは一種のマインドコントロールです。

「暴力装置でもある自衛隊」と言って叱られた政治家がいましたが、その言葉を借りて言えば市民生活で正当に暴力を振るうことができるのは警察です。言葉が通用しない相手には警察が暴力を行使して抑制します。これが国単位になると軍隊が暴力を行使して国民の権利を守ろうとするわけですね。

警察力や軍事力の終着点は「死」です。同じように体罰の終着点も「死」です。死に結びつくような教育があっていいはずがありません。僕はラグビーをしていた時期があって、試合であれば叩かれたり殴られたりするのも同然の痛みが伴います。これが格闘技であれば言うまでもないこと。体罰の垣根はもっと低くなります。スポーツでの体罰は死を招く危険度が高くなります。

暴力はいずれ死に結びつくからこそ速効性が生まれます。しかし、警察に殴られたり拳銃で撃たれたりして反省するわけではありません。軍隊から銃撃されたり爆弾を落とされたりして反省するわけでもありません。体罰も同様で表面上相手に恭順するだけのことです。心には響かないのです。

その一方で、言葉の説教だけならよそ見して聞き流せますが、手や足を出してきたら相手の目を見つめるざるを得ません。我が身を守るために見開かれた目を、指導者は真剣なまなざしだ、教育効果が出ていると勘違いしてしまうのです。そんな簡単なことさえも見えなくなるほどの魅力が「瞳」にあるのです。

これは体罰を受ける側も同様で、あの時殴られたから本当に自分のことを思ってくれているんだ、悪いことをしてしまったと反省したという話はよく聞きます。やっぱりそれも勘違いと言う他ないです。

その感動は自分にきちんと向き合ってくれているという気持ちが伝わってきたからであって、殴る必要なんかありません。一般的に母親は子どもを叩きませんが、子どもは母親の愛情を信じないものでしょうか。叩かれないと愛情を感じないというなら、それはまた別の世界の話です......(^_^)

そもそもほとんどの女性にとって体罰という指導の選択肢はありません。立場は強くても体力的に弱ければ反撃に合う危険が高まりますから。これはまさに男社会の悪しき産物です。僕は女性から体罰を受けた記憶は一度もありません。

先に僕も一度だけ殴られてもしかたないと思ったことがあると記しましたが、それはほんとうに先生が自分のことを心配してくれていることがわかっていたからです。その場面だけのことでなく、その先生の人となりを知っていたからです。先生の顔を見た瞬間に僕は「しまった」と反省したのです。

見つかって「しまった」ではなく、バカなことをして「しまった」ですよ。だから、もう叩かれる必要などなかったのです。

世の中には一目惚れというのがたまにありますが、速効の教育もたまにしか起こらないものです。

徳の生まれる場所

ちょっと話が逸れますが、じっくり考えてみれば僕たちの道徳観というものは単なる善悪という価値判断だけに基づくものではなく、その背景で「愛」が支えていることに気づきます。愛が育たない世界では道徳は捨てられます。

橋下徹市長と義家弘介政務官はどちらも敵をつくって市民に訴える戦略を取る方たちです。日教組などのうらぶれた諸団体や人など、弱り目を叩いて人気取りするところはメディアと同じのお二人ですが、体罰事件後の対応についてはどちらも互いを非難し合っています。同じ勘違い同士なのに。

いつも敵をつくる人生はなかなかたいへんです。ご同情申し上げます。

行政がしなければならないことは道徳教育を推進することではなくて、愛が育まれる社会を整えることでしょう。道徳教育で愛が育まれる社会が育つのではありません。勘違いしてはいけません。

今朝の新聞には「35人学級断念」というニュースが出ていました。自民党の意向を受けての文科省案です。サポーターがたくさんいるコンクリート倶楽部には大盤振る舞い、サポーターがいない教育倶楽部は減額らしい。

行政の本務であるはずの教育環境整備を怠り、戦前思考を引きずる精神論ばかりの教育政策。学校が体罰の温床になるのは当たり前です。そして、教員が生徒を放り出して学校から逃げていく。

年度途中での公務員の退職手当減額がいろんな地方自治体で決まりました。そのため学年末を待たない教員の駆け込み退職が問題になっています。これは「徳よりも金」が大事という大人の常識が教育界でも十分通用することを示しています。そんな教員が「金よりも徳」と説いても子どもたちは本音を見抜いています。道徳教育の不毛とはこういうことです。

管理教育で有名だった愛知県に駆け込み退職者が多いのも何かを物語っているようです。

街に賢人や聖人がいなければ、学校にも賢人や聖人はいません。それは政治の世界でも同じです。街に愛が息づいて賢人や聖人が行進するほどに増えれば、学校の門をそういう人たちが教師としてくぐっていくようになるのでしょう。

愛の無知

さて、話を戻します。体罰の勘違いにはもうひとつ大きな理由があります。誰も言わないことですが、体罰を受けてうれしかったという人は先生や親からの愛情と痛みを同時にインプットされたために混同が生じ、痛みの分まで愛情として感じられたからです。それはつまり、マゾ的な快感でしょう。

これは体罰をする側にも生じてサド的な快感が生じます。こういう関係で結ばれた師弟関係や親子関係は強くなります。こういう人たちに殴らなくてもいいじゃないかと理屈を言っても通じません。だって気持ちいいんだもん.......(^^ゞ

しかし、愛を感じずに痛みしか感じなかった人には不快感が残るだけとなります。

子ども時代に一度そういうマゾ的快感を得た人は指導する側になってからも相手が同じ快感を得るだろうと思い、それを再現しようとします。それを繰り返すうちに反作用としてサド的快感が高まることになるわけですね。

体罰を教育的な手段として用いている人を心理分析してみれば、それなりの傾向が出るはずです。教育的信念のようなものは後付けの理屈でしかありません。

暴力は法律で禁止されているのに、教育の場でずっと法律無視がまかり通っている異常に注目しないで、体罰と暴力を分けなさいという勘違いは許されることではありません。バスケットボールが好きだった少年の死を無駄にするものです。

学校に影響を及ぼすような人たちがこんなありさまでは「ベンチがアホやから野球がでけへん」みたいなことになりかねません。安心して勉強させてやってください。

体罰を是認する人々がおこがましくも口にする「愛の鞭」。そんなことが言えるのは愛というものをわかっていないからです。だったら、おまえは知っているのかと問われれば、もちろんわかっている......わけがありません.......(^^ゞ

しかし、愛が何であるのかわかっていないからこそ、「愛の鞭」などという言葉を受け入れるような愚かなことをせずにすみます。「愛の鞭」はSMの世界ではきっとあるのでしょうが、しつけでも教育の世界でもお尻たたきはいりません。お尻はなでるものです。

結論を勘違いしないでね。

2013-01