プリオシン海岸  プリオシン通信

かわいそうな犬

主は帰らない


舟だまりと海鵜
舟だまりと海鵜



飯田のハチ公

いよいよ今年も最後の月になりました。今月半ば、歯医者に行ったら中日新聞が置いてありました。新聞はいつも一面から読みます。びっくりしました。長野県飯田市の大平街道で迷子犬が十日ほどもずっと飼い主を待っているという記事です。山あいの道でのことです。

驚いたのは犬のことではありません。新聞の第一面の1/3を費やして、こんな三面記事を堂々と載せていたことです。中日新聞はいつもこういう編集をしているのでしょうか。たいしたものです。

あの、これ皮肉じゃありませんよ。かすかな感動すら覚えたのです。土曜日の朝、嫌だなあと思いながら出かけた歯医者の待合で感動するようなことになるとは思ってもみませんでした。実際、犬の記事の上にあったトップ記事が何だったのか思い出せないくらいなのですから。

政治的な大きなニュースや事故や災害ばかりで占められるのが普通の1面とは異なって、大きなニュースと卑近なことを並べて編集するという、視点の平準化が新鮮だったのです。

主を待つ犬 この犬は雨が降っても雪が降っても動かなかったそうですが、降雪で大平街道が閉鎖されたためにふもとに下りたそうです。それがこの写真(中日新聞)です。その後飯田のハチ公と呼ばれるようになり、捕まらないように逃げるなか、とうとう大平宿で保健所に保護されることになりました。

犬の習性を考えると確かに主を待っているように思えますが、猟ではぐれたのではなく、飼い主に捨てられたような気がします。僕はかわいそうという言葉はめったに使いませんが、この犬はやはりかわいそうな犬なのです。しかし、記事になったことでどなたか飼ってくださることでしょう。

ゲティスバーグ演説と選挙ポスター

新聞を見た土曜日の翌日は衆議院選挙でした。メディアの予想を上回るような自民党と公明党の復活となりました。人々は選ぶ相手がいなくて、結局3年前の空虚に立ち戻ることを選んだようです。

今まで通信で批判してきたさまざまなことがらがこれから実現していくでしょう。将来の憲法9条書き換えへの分水嶺になるかもしれません。僕にとってはまた辛い新たな時代の幕開けです。しかし、生まれてからずっとそんな時代の連続だったのですから、悲観するに及びません。

国民の大多数が困っていない憲法や軍備の問題と、やはり大多数の国民が普段の生活で困っている問題を平準化して考えることのできる政治なんて求める気もありません。かなり悲観的思考に陥っています.......(^^ゞ

共産主義が絵に描いた餅であったように、民主主義もやはり同じですね。まあ、主義なんて名前のついているものはすべてそうなんですけど。

リンカーンのゲティスバーグ演説 民主主義と言えばよく引用されるリンカーンのゲティスバーグ演説。

「人民の人民による人民のための政治」というフレーズは英語では government of the people, by the people, for the people なのですが、十月に亡くなった作家の丸谷才一さんは「人民を、人民によって、人民のために統治すること」と書いているそうです。直訳風でわかりにくかった前者よりも、確かにこちらの方が意味がはっきりします。

問題は僕たちは「人民」によって統治されているのかという民主的な疑問です。

このフレーズの趣旨はGHQの日本国憲法草案前文に取り込まれ、日本国憲法前文の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」という一文になりました。

自民党選挙ポスター 英語のカンマはそのまま読点に置き換えられていますが、自民党の選挙ポスターにも読点がありました。日本語文として失格と言える使い方ですが、この読点には何か隠された意味があるようです。

やっぱりそこには隠された前置詞があるけれども、of, by, for の後ろには国民は来ないのでしょう。素直に読めば、「日本を(自民党に)取り戻す」という意味でしょうか。深読みすれば、「戦前の精神と戦後の経済成長を取り戻す」という意味なのかなとも思います。目指すことは復古であって、もはや未来を描くことができないようです。

日本を、あきらめない 前回の衆議院選挙の時にもポスター批評をしました。ポスターは的確に政党の現実を映し出していました。2009年9月の通信を読み返すと、今回の自民党のポスターが岡田民主党(2005年)のポスターを踏まえていることがわかります。

なんでまたそんな昔までさかのぼったの?という疑問が湧きますが、句読点までそっくりで、一部を書き換えただけです。過去しか見つめられない現実が垣間見えます。

話せばわからない

枯れ尾花 民主党政権よりも、僕がもっと失望したのは大震災後の国会議員たちの振る舞いです。日頃愛国者を自認しているような人でも被災地には目を向けず政局ばかり。幽霊の正体見たり枯れ尾花です。愛国を叫ぶ人は国民を愛したいわけじゃないという持論が証明されただけのことですけど。

そして復興予算の野放図な目的外使途です。10月の通信「人間の石炭紀」でも触れましたが、国民の大被害を前にして官僚はまだ目が覚めないのかという驚き。今年の最大の驚きでした。目が覚めたのは僕の方でした。

実は民主党政権の初期、つまり事業仕分けでの官僚側のデタラメな言い訳でそれはすでに明らかになっていたのですが、まだ僕は官僚の良識を信じたい気持ちでいたのです。

民主主義とはデモクラシーの訳語ですが、別の訳語には衆愚政治というのもあります。僕たちのデモクラシーはこの衆愚政治でしかありません。

意見とは人がしっかり考えてから結論したものではありません。ほとんどの場合、その考える材料とはその人が得たデータに依拠するわけで、結局はその人がどういう環境の中で育ち、どういう立場の中で生きているのかということから導き出されてきた結論であると言えます。要するに考える前からすでに意見はある域内のブレに収まっていると言えます。

著作権問題にかかわって「オリジナル」なんて偉そうなことを言うなと度々批判してきたのと同様に、オリジナルな考えなどないのです。

下駄をはいた人と登山靴をはいた人がいっしょに山に登ることはできません。革靴をはいた人とサンダルをはいた人がいっしょに潮干狩りに行くことも出来ません。靴の種類は行き先を決めてしまうのです。

生まれた時から金持ちで、一族が国の中枢のあちこちで昔から係わってきたという人と、貧乏な家に生まれ、一族は風が吹けば飛ぶような市井の人ばかり(我が一族、スマン)という僕では話がかみ合わないのは仕方ありません。

菅直人氏の辻立ち 元は市井の人であった菅直人さんは首相を辞めた後でもひとりで辻立ちできるけれど、「貴族」出身の自民党重鎮には絶対できることではありません。衆議院解散が決まる以前から反原発を訴えて辻立ちしていると聞いた時には、彼は本当の立ち位置に帰ったのだなと思いました。

こうした意見の対立は政治という場にいろんな立場の人が混ざることで少しは改善されるわけですが、前者の人々が半数以上を占める自民党の復活をみてもわかるように、残念ながらそういう選挙制度にはなっていません。

安部政権が次の参院議員選挙が終わるまでは安全運転でいくとかしきりに聞こえてくるのを聞くと、やはり国民は彼らの夢を実現するためのスポンサーでしかないのかと思えます。しかし、このスポンサーに気を遣うのもその時まで。

権力者はいつか自分たちが美味しい料理を食べるために国民をダシにしているだけのようです。

そして、選挙の洗礼もなく安泰の永久政権である官僚組織は非力な政治家を使いこなし、やっぱり国民をダシにして自らの利益をむさぼっています。増税しなければ国が滅ぶと宣伝していますが、国を滅ぼそうとしているのは国民ではありません。国民を顧みない行政が国を滅ぼそうとしているのです。

近所付き合いしていて、生活保護を受けている家が2軒ありますが、自助努力を求める新政権では保護費を削られることでしょう。雇用なし、あっても低賃金という状況を改善できずに努力を求められてもと思います。2軒のうちの元気な人は市から福島へのボランティアに派遣されていました。実際はボランティアではありませんけれど、そういう貢献は報道もされません。

国会でろくに議論もしないで政局ばかりにかまける国会議員と、関連組織に予算が流れるように切磋琢磨する官僚は高額報酬と待遇を与えられます。そして自らの改革はできません。戦後ずっとこんな状況の中で僕たちは暮らしてきました。

僕たちは「人民」によって統治された経験がないのです。菅直人さんが夢を実現させることができていたなら初めての経験ができたかもしれませんが、政官財の厚い壁は打ち破れませんでした。

国民の生活が第一 今の人民離れした国政は、「国民の生活が第一」だとなんとも当たり前のことを国民に向けて叫ばなければならない政治家や政党がその象徴です。今、日本の行政では国民の生活は何番目ぐらいに位置づけられているのでしょうか。

選挙で議員や政権党を選び、まるごとお任せという発想では民主主義は機能しません。官僚組織という永久政権は民主主義を嗤っています。「話せばわかる」と言って射殺された犬飼毅首相は知らなかったようです。大人は「話せばわからない」のです。

民主主義とは環境や立場が異なる人々のことを思いやる制度であってこそ機能するのだと思います。「話せばわかる」ではなく、話せばわからない人々にも思いを馳せることで魂が入る制度だと言ってもいいです。「汝の敵を愛せ」なのです。

道徳と美意識

生活に困っていない人たちは国民生活よりもイデオロギーを弄(もてあそ)びます。国の誇り、外国に舐められるな、靖国参拝、国防軍、偏向教育、エトセトラ。教育についてはいじめ問題や学力向上なんかより、歴史の書き換えや武道などの民族教育です。グローバルな人材と言う一方で、ローカルな精神を目指すわけですから武道的に言えば心技一体ではなく、心技分解というところでしょうか。

しかし、安倍晋三首相は内弁慶だから案外外交では強気に出ず、国内で気勢を上げるだけかもしれません。自民党は相変わらず道徳教育の強化を目指していますが、法律違反である選挙での一票の格差是正もできないのにね。

安倍さんの新幹線での座席取りトラブル報道は安倍さんの支持者によると陰謀だそうですが、謝罪後も続く老人の抗議に逆ギレした上に狸寝入りということについては事実のようで、子どもたちの手本にはなり得ません。そもそも老人は金を払って乗車し、議員は無料パスなんだから。無料パスの特権には座席の優先確保まで含まれていません。

こうした個人的な道徳センスは当然政治的な主張にも反映するわけで、従軍慰安婦問題などの日本の負の歴史に対する態度と重なります。批判されたら、『だから、すみませんって言っているじゃないか』と言いたくなるんでしょうけれど、従軍慰安婦問題などの戦争犯罪は「すみません」と過去に日本政府が謝ったことが気に入らないのだから、話はもっとややこしい。

安倍さんとしては支配して良くしたやったのに話が「安倍こべ」だと、謝らずに狸寝入りしたいところなんでしょう。この問題については2012年9月の通信『子ども議院の創設』の中で書いたので、もう触れません。

朝日新聞に載った精神科医の斉藤環さんの自民党はヤンキー化しているという見立ては面白かったです。これは安倍さんにも当てはまります。威勢のいいことばかり叫ぶ安倍さんも、彼の周りにいる人たちからは安倍さんは紳士で心遣いができる優しい人だと褒めるのをよく耳にします。前の内閣の時は仲良しばかり集めて「おともだち内閣」と揶揄(やゆ)されたぐらい仲間を大事にする人らしいです。

しかし、政治家になったからには友だちの輪をもっと広げて、年配の方には席を譲るぐらいの心遣いができるようにしたいものです。安倍さんのお友だちである「ヤンキー先生」みたいな人が道徳を教えるのはヤバイです。

子どもは親の姿を見て育つと言います。大人が学校で道徳を植え付けようとしても、インチキ教師と思うだけですよ。学校から一歩外へ出れば、もっとインチキな大人がごろごろしています。僕もその一員ですからよくわかります。道徳教育するくらいなら、インチキ大人への対処の仕方を教えた方が実用になります。

道徳は教えられるものではありません。他者の言動から学んでいくものです。座席取りの場面に出くわした時にはどういう言動をすればカッコイイか、多くの事例を踏んで学んでいくのです。それはカッコイイという美意識を磨くことから始まるものです。そうでなかったら、いったいどこに「美しい国」など生まれましょうか。

芸術家はみんな一流の作品を見て学びます。それと同じことです。三流の大人ではなく、一流の大人が子どもの目に触れることが大事なのでしょう。

子どもを国家のダシにしてはいけません。おまえはずいぶん子どもにこだわるねと人は思うかもしれません。はるかな昔に人はパンドラの箱をあけてしまい、あらゆる害悪が飛び出してきました。そして、最後に残ったのは希望でした。僕はその希望とは子どもだと思っているのです。

日本の将来を背負うのが子どもだからじゃありません。国境を越えて、時代を超えて、人間の希望とは子どもの中にあると考えているのです。

誇らない誇り

高校生が政治家の言葉である「誇れる日本を!」が「威張れる日本を!」と聞こえると新聞投書で揶揄していましたが、そもそもなぜ国を誇らなくてはならないのか僕はいまだによくわかりません。誇る中身とは何なのか具体的な説明を聞いた覚えもありません。

「貴族」には誇れる家系があるから国家との一体感が強く、自然とそう思うのだろうと、その気持ちを思い遣ることはできます。

しかしながら、日本人が生み出した歴史的な文化にはそれなりに自然と誇りを感じている自分がいます。この点は多くの人の共感があるのではないでしょうか。誇れないのは政治と行政なのです。

高度経済成長で誰もが海外旅行を楽しめる時代になった時、海外で日本人観光客の行儀の悪さが問題になりました。売春(買春)ツアーまであった時代です。田舎者まで海外に出て行くことになったのだから仕方ないという当時の差別的な分析もありましたが、一理あります。経済成長をなしととげた韓国で今やはり買春ツアーが問題になっています。

多くの人が感じる日本文化の誇りとは、奢(おご)らず、争わず、諦観を持って生きることではないでしょうか。昔はそこに質素倹約というのもありました。それは江戸時代から外国人に賞賛されてきた日本人の姿でもあります。これこそが保守の人々が好きな伝統です。

日本の歴史を振り返ってみれば、勇ましい日本人はろくなことをしていないのです。まだ歴史の浅いところでは、戦前・戦中に神国日本としてその大和魂を威張り、経済成長後は金持ちとして威張り、やっぱり恥ずかしいでしょ?

「誇れる日本を」なんて言葉を聞くと、田舎者だなあと笑えるようになりたいです。

子どもの夢

今年の春のことですが、去年亡くなった知人の一周忌に合わせて彼女の実家にお母さんをお尋ねしました。テーブルに小さな遺影が飾られてありました。なぜか暗い表情です。つい率直に口にしてしまいました。急死だったため適当な写真が準備できず、運転免許証の写真を使ったのだそうです。

免許センターで撮る写真には特に女性はいろいろとご不満があることと思います。事務的に撮られる写真だし、虚飾を排して出来るだけ素が出るように撮られるのだから仕方ありません......(^_^) 笑っちゃいけません.....m<_ _>m

そういうことを割り引いてもどこか悲しげな知人。なんとかできないかなと思いながらもその場では何も言えませんでした。

帰宅してから思い切って写真の修正を申し出るメールを送りました。お母さんのお気に入りの写真で作らせてもらえないかと。下手をすればご遺族を傷つける申し出です。しかし、快く許可を頂いてカットと修正をさせて頂きました。素人技術ですから出来はしれたものですが、元の写真は笑顔です。

夏に改めてお礼のメールを頂きました。その写真は彼女の家族にも送られて前の写真と交換され、小学低学年のお子さんが「前の写真は怖い夢ばかりみたけれど、あのにこにこした写真になってから、楽しい夢ばかりみるよ!」と話してくれたと。

どっちの写真も同じく大事なお母さんの写真です。しかし、大人も見た目の印象でずいぶん気分が変わるように、やはり子どもにも大きな違いがあるんだなあと思いました。いいえ、「やはり」ではありません。子どもは大人とは違う世界に生きていて、大人よりもずっと深い精神生活をしているのだと改めて思うとともに、心地よい感動をもらったのでした。

政治家は子どもが喜ぶことではなくて、自分がうれしいことを子どもに押しつけようとするだけです。子どもの未来のために役立てないなら、せめて子どもの精神世界を壊すようなことだけはやめてあげてください。夢を与えられないなら、せめて安らかな夢を守ってあげてください。

何かしてもらおうなんて思いません。国民の生活をこれ以上壊さないでください。

幸あれ 今の僕たち国民はご飯を食べさせてくれる主が帰ってきてくれないかと腹を空かせて待っている犬と変わりありません。しかし、残念ながらお土産を持った主はもう帰ってきません。だから、犬は自活して生きていく他ないのです。犬とは何だ!とお怒りですか。でも、そもそも犬扱いしているのは僕じゃありません。

かわいそうな犬に幸あれ。

大人になったら、幸せから縁遠くなってもいいじゃないかと思います。しかし、せめて子ども時代は幸せな生活を送れるように大人は努力しようじゃないですか。そんな大人を見ていたら、子どもがゆがんで育つはずもありません。

大人は太陽のようにカンカンと照らなくていいんです。月の明かりのように、静かに光っていましょうよ。

子どもたちの安らかな夢が長く続きますように。

* 「草原の夜」 金子みすゞ *

ひるまは牛がそこにいて、
青草たべていたところ。

夜ふけて、
月のひかりがあるいてる。

月のひかりのさわるとき、
草はすっすとまたのびる。
あしたもごちそうしてやろと。

ひるま子どもがそこにいて、
お花をつんでいたところ。

夜ふけて、
天使がひとりあるいてる。

天使の足のふむところ、
かわりの花がまたひらく、
あしたも子どもに見せようと。

今年もお付き合いありがとうございました。良いお年を。

2012/12

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