プリオシン海岸  プリオシン通信

子ども議院の創設

わたしには夢がある


土砂降りの雨蛙
土砂降りの中の雨蛙


今月は『銀河鉄道の夜の星空案内』等をアップしたのを機会にそれの概説を書こうと思っていましたが、気温も世情もこう暑くては書く気になれませんでした。それで「いじめ問題」と「領土問題」という二つの騒動にしたがって、僕もアホウになって書くことにします。元からアホウじゃないかって? 同じ阿呆なら踊らにゃそんそん。


わからない大人

まずは先月書いた「いじめと五輪」の記事内で朝日新聞の連載「いじめられている君へ」担当者宛に手紙を書くと記しましたので、その報告です。とは言うものの、もちろん報告するようなことは何もありません.......(^^ゞ 意見はメールでも受け付けていることがわかったので、メールを送って終わりです。

完全版 いじめられている君へ いじめている君へ いじめを見ている君へ いじめられた側の声よりも、いじめた側の声を拾ってほしいということ。子どもに行動を求めるのではなく、大人に覚悟を迫ること。この二つがその趣旨ですが、とにかく子どもたちに「いじめはなくならない、自分でなんとかしろ」というメッセージを伝え続けるのはやめてくださいということ。いくつかの取材企画の提案も入れて送りました。

言うまでもなく僕の意見が反映されるような記事が出ることもなく、連載終了後も続く子どもの自殺ついての考察記事も出ていません。ただ、9月13日に加害者に向き合うことと大人の対応を求める意見が社説に出たぐらいです。「加害生徒と向き合おう」というタイトルで、最後は以下の一文でまとめられていました。

「それは『いじめを止めて、学校に行けるようにしてほしい』という必死の訴えだと、大人は受け止めなければならない。」

教育問題担当者たちはいじめ問題が理解できてないけれど、社説を書く論説委員は問題点が見えているということでしょうか。それにしても時期が遅すぎやしませんか。9月20日には担当者の取材記事が出ました。この連載を題材にした小学校の2回にわたる授業の記事です。

6年生の子どもたちの教室で、なぜか国語の授業です。それにツッコミを入れるのはやめておいて、子どもたちがなかなかよくわかっているので感心しました。やはりわかっていないのは大人だったのかと嘆息しました。

記事では著名人四人のメッセージが取り上げられていて、そのいずれにも子どもたちからの反論が返ってきています。前回の通信で書いた通り、子どもが自分で解決しようとするなら個別的な解決方法しかないからです。あなたに通用しても他の人には通用しない。

しかも子どもたちは、子どもたちに教師を評価させるという制度の提案についても批判を加えます。たぶん、そこに子どもたちはいじめの芽を見つけているのです。


あべこべな話

「いじめを見ているのも、結果的にいじめているのと同じ」というコメントには子どもたちの「本音があふれた」と記されています。当たり前のことです。大人に向かってそんなことを言っても誰も耳を貸さないでしょう。

生物の生存本能では自分に危険が及ばない限りは距離を取るのが最適です。その制御が外れる時は子孫を守る時だけです。それでも守れないと判断されれば逃げます。自分が生き残ってあらためて生殖した方が有利だからです。

動物園にいる動物や人間はそういう本能が壊れつつある生物なので、上記の説明が当てはまらなくなってきていますが、いじめを傍観しないで行動するという行為は明らかに本能とは反対行動になるわけですから、相当にハードルが高い。

他人の子どもであっても命を投げ打つ覚悟がある人でも、救う対称が大人になればほとんどの人がその危険を引き受けることはできません。こうした年齢による区別もやはり個体を超えた人類という遺伝子の問題と関係がありそうです。

ニワトリ 前回、狼は狼を殺さないと書きましたが、ニワトリはニワトリを殺します。いじめの問題でニワトリの「つつき順位」という行動がよく取り上げられます。

閉鎖された空間においては順位付けのためにトサカつつきが起こり、最下位のニワトリはみんなから全身つつかれて死ぬことがあります。結局また順位が移動して繰り返しになってしまうので愚かな行動に思えますが、ニワトリという個体にはその場を生き残るための最適な行動なのでしょう。鶏舎でニワトリが個室に入っているのは経済効率のためだけではありません。

自分の命が一番可愛いと思っている集団があって、そのなかで自分を捨てて他人を守りなさいということが、いかに荒唐無稽な説教であるかは明らかです。そんなことができないから自己犠牲の精神は尊ばれます。そしてそんなのは欺瞞だと批判する人もいるわけです。それは説教されて生じる行動ではなくて、自発的に本能を抑え込んで育てなければならない意志です。

保護者はそんな子どもの自己犠牲精神を望まないでしょう。この教室の教師は「まずは教師が動くべきだと思う」と語っています。当たり前のことではありますが、大人社会は「まずは大人が動くべきだと思う」となっていません。

朝日の連載は大人たちには好評だったようですが、子どもたちに否定されてしまっています。僕の考えは子どもたちと同じでした。僕の智恵は小学生並だったわけです.......(^^ゞ

前回の通信をアップした後も連載は続き、論理明晰なはずの姜尚中(カン サンジュン)氏も登場して、他の人と同様自分の体験を引き合いに「家出をしよう」と呼びかけました。しかし、つつかれているニワトリには跳躍思考という翼がないのです。大人になるということは、子どもがわからなくなるということと同義のようです。

子どもたちは狭い世界で暮らしています。そんな世界が開けるのは自立してからのことです。だから、自立できなかった大人は引き籠もるのです。

朝日新聞の記事 今回の取材で記者も少しは思い直したかと思いましたが、その気配はなく、この記事の左隣には上に掲載した本の宣伝が「きょう発売」と大きく掲載されていました。

コメントした著名人たちは印税を求めないでしょう。そこから考えると千円という価格は儲けを見込んだものです。朝日紙に求められて勇気を出してコメントした著名人たちは、朝日紙上で子どもたちに批判されてご同情申し上げます。

僕がこんな連載を企画するなら、大人が子どもたちに語りかけるのではなく、子どもから大人たちに語りかけるものにします。タイトルは「いじめを見ている君へ」です。


ひとりでできるもん

実はこの時期にまた別のところへもメールを送っていました。それは市役所です。メールを計5通送りました。

ある市民サービスでその手続きがあまりにプライバシー無視で屈辱的なものだったので、その問題点の指摘と改善方法の提案をしました。ずっと以前からやっているようですが、僕は今回初めて利用して気づきました。3通目まではお役所言葉だけで問題点に答えるのを避けて、意味不明の「ご理解ください」ばかり。

返事が来るとまた説得を繰り返し、ようやく4通目で問題点を認め、ほぼ提案どおりの改善方法を検討するという返事が返ってきました。まだその改善方法に問題があったので、5通目は改めてより良い方法をお願いしてお礼を記しました。

私企業ではある朝日新聞は読者を無視しても問題はありませんが、これは人権問題だし、相手は市民だから相手をしてくれたと言えます。市は人権尊重宣言をしています。これを利用しました。

手紙でなくメールを使えばかなり気軽にやりとりできます。今の世の中はさすがに人権問題については敏感になってきています。朝日新聞でも人権にかかわる訴えであれば無視できないでしょう。

子ども視点でないと改善できない問題が実はたくさんあると思います。大人が牛耳っている社会は今いろんなところで行き詰まっていて、ほとんど解決策を見いだせないでいます。だから、議員の質は同じなのに新しい政党ばかりできます。子どもたちは孤独を怖れるが故のメールのやりとりではなく、自信を持っていろんな意見を社会に発信してほしいですね。

今、もうひとつ取り組みたいことがあります。この夏も節電に努めてエアコン30度設定で過ごしましたが、すでにいろんな節電に取り組んだ後なのでもうあまり効果はありません。同時に節水にも努力してきましたが、いつからか毎月同じ料金になり、1円も変わりません。そのうち水道局に問い合わせようと思いながら月日が経ってしまいました。

朝日新聞記事 ところが、先日新聞の投書欄にその答えを見つけました。投書子も疑問に思って問い合わせたそうです。答えは基本料金です。ですから節水しても料金面では無駄ということです。今、すでに基準使用量にも満たないということは、僕が一人暮らしになっても料金は下がらないということです。

節水努力が報われないという料金体系はこのエコの時代に合致しているのでしょうか。しかも、水道料金には下水の処理費も含まれているので、ダブルの価格差と環境負荷度になってきます。この問題をどう考えるか僕自身がまだ結論してないので、先の課題になります。

恨み節

尖閣諸島 尖閣諸島問題は連日やかましいほどの報道ぶりです。昨日は中国で日本車に乗っていた中国人がデモ隊に暴行されて半身不随になったという記事を読みました。なぜこんな理不尽な目に遭わなければならないのでしょうか。

そもそもは石原慎太郎都知事の「政府に吠え面かかせてやろう。」発言が発端です。僕の記憶では1977年の環境庁長官であった時に水俣病被害者の陳情を無視してゴルフに出かけたことに始まり、他人を不愉快にさせることに熱情を注いできた男の総決算のつもりだったのでしょうか。

問題を解決するのではなく、問題を起こす政治家が多いなか、まさに一流の政治家根性です。しかし、結果的には領土問題がないはずだったものが国際問題になってしまい、東京都が島を買えずに国に買われてしまって自分もいっしょに吠え面をかく事態に陥ったことは、いつもの戦略性のないでたらめぶりで、確かに彼らしい。

しかし、この彼らしさはいつも恨み節であって、その個人的感情を政治や激しい言葉で投げつけられる側の被害は「彼らしい」とクールには言っていられません。

尖閣諸島をむりやり日本領にしてそのメリットは何か説明している政治家はいません。勇ましい言葉を吐いて人気取りをしているだけです。そんな係争地では何の事業も展開できず、軍事基地を置ける広さもなく、結局何にもできないのです。竹島も同様で、韓国は警察の警備隊が常駐しているだけです。「ご苦労さま」と言ってあげたい......(^_^)

大日本帝国の領土と占領地など 戦時中、日本は広大な領土に膨れあがっていましたが、国民は物資不足や食糧不足に喘いでいました。戦後は奪った領土や占領地など全部と、もともとの領土の一部まで失っても国民は豊かになりました。利用価値のない小さな島で争って、何の得があるのでしょうか。

尖閣諸島も竹島も武力衝突が起こって何発かミサイルが撃ち込まれたら消えてしまうような小島です。島が消えてしまっても戦争だけが続くという、笑い話にもならない事態だってあり得ます。

尖閣列島戦時遭難者遺族会会長の慶田城用武さんは慰霊を政治に利用するなと憤っています。魚釣島では戦争末期に疎開船が米軍の攻撃を受け遭難する事件が起きています。7月に自民党の山谷えり子氏から遺族会に魚釣島で慰霊祭をしたいから政府への上陸許可申請に加わってくれと依頼があったそうです。不戦が目的だから領土を守るのとは目的が違うと断ったそうです。

ところが、山谷えり子氏ら日本の領土を守るために行動する議員連盟は8月に石垣島で勝手に神道で慰霊祭を行い、君が代を斉唱したとのこと。遺族会ではずっと仏式でやってきたそうです。翌日には洋上慰霊祭をやり、十人が泳いで無断で魚釣島へ上陸しました。ひどい話ですがまだ後日談があります。

山谷えり子氏は国会論戦で野田首相に遺族会が同意を断ったことを指摘されたら、「もちろん上陸して慰霊をしたい、しかし政府が認めないのならどうすることもできないと、そういうことだったんですよ」と反論しました。国会でも堂々と嘘をつく。自分たちの主張のためなら御霊だって利用するのがこういう政治家たちです。

遺族が慰霊できない事態になったのは政治家たちのお陰で争いの最前線になってしまったからに他なりません。未だに帝国主義的発想を引きずっている政治家に振り回されるのは愚かです。国際問題になってしまった以上は国際という土俵で解決するしか手段はなくなってしまいました。

そもそも国境というのは帝国主義時代の遺物です。欧州ではすでに国境がなくなりつつある時代です。取り合わず、両国で共有すれば活用できるし、友好の地にもできます。

そして、国内問題は大阪市に、外交は東京都に引っかき回されて、国会の凋落ぶりは目を覆うばかり。なぜ都府で選出された人たちが他の地方まで巻き込む権利があるのでしょうか。やりたかったらちゃんと国会議員におなりなさい。

マスコミもいつものことで、こんなにも日中に損害や被害を与える事態を招いた政治家としての責任を少しも追求しません。あんな人に言っても無駄と諦めているのか、国賊と呼ばれるのが怖いのか。

新右翼団体「一水会」顧問の鈴木邦男氏の愛国をめぐるインタビュー記事を読みました。その歯切れのいいこと。

「尖閣諸島や竹島の問題では戦争も辞さない勢いで国民を扇動しています。愛国を訴えて、立派な政治家と思われたいのでしょう。あまりに不純、卑劣な態度です」

「新右翼」の定義がいまだによくわかりませんが、鈴木さんの若い頃はたぶん僕とは正反対の思想で活動していたに違いなく、鈴木さんのポスト右翼化と僕の保守化のせいでどんどん考え方が似てきました。僕の保守化は年齢のせいと時代の保守化の影響だと思います。今回のインタビュー記事は靖国神社に対する姿勢以外はほぼ同感するしかないのでした。

今までに僕が通信で書いてきたことと同じことばかりなんですが、鈴木さんの言葉をいくつか引用します。

「外国人が母国に抱く愛国心を理解し、その上で日本を愛する。自分の国がすべて、日本だけが素晴らしいという考えは、思い上がった自国愛に過ぎません。ただの排外主義です。愛国とは最も遠いものです。」

愛国心が誉められるのであれば、外国人の愛国心も誉められるべきものであることは凡人には当たり前の論理です。

愛国といじめ

領土問題やも従軍慰安婦問題については同じ阿呆なら踊らにゃそんそん、というわけにはいきません。踊ったらそんそんです。鈴木さんの記事からもう少し引用します。

「日本はアジア諸国に対し、弁解しようのない失敗を犯してきた。そこを認めずに日本は正しかった、悪い事はしていない。失敗を認める事は反日だと言いつのり、良いところばかり愛するのは愛国心ではない。心の痛みを伴わない愛国心は、フィクションにすぎません。」

安倍晋三氏は今また従軍慰安婦問題を蒸し返そうとしています。もちろんそうしたい人は石原さんや他の政治家にもたくさんいます。日本には強制性を示す証拠がないから旧日本軍の強制を認めた「河野談話」は誤っているという批判です。

敗戦で日本側は書類を大量焼却し、韓国側からは被害者の証言がたくさん出ているなかで、強制があったかなかったという問題を追求することは不毛としか言いようがありません。

しかも、強盗が銀行に押し入って人質の頭に「銃を突きつけたか、突きつけなかったか」というような、まったく些末的な問題です。言い換えれば些末的な政治家でしかありません。

以前に中国で行軍していた経験を持つ市民の投書を読みました。赤ん坊を抱えた母親を兵士たちが輪姦して、その後も裸のまま連れて行軍していました。そのうち泣く赤ちゃんがうるさくて、一人が赤ちゃんを取り上げて崖の下へ放り投げました。直後、母親も崖下に身を投げたそうです。この事例でも彼らなら「兵士たちは母親を殺していない」と弁解するのでしょう。

中曽根氏の記事 去年は中曽根康弘氏が自ら慰安所を設置するのに尽力したことが明らかになりました。追求された中曽根氏は否定しましたが、のちに証拠書類がいくつも出てきて嘘がばれてしまいました。彼はむしろ慰安所を設置したことを自分の成果として誇っていた節があります。なぜなら兵士たちが現地の女性を陵辱していた現実があったからです。嘘がばれてからはずっと沈黙しています。

日本は敗戦後も慰安所を国内に設置しました。日本軍のように進駐軍のためにも慰安所が必要だと考えたからです。

ジュネーブ条約で日本は「俘虜の待遇に関する条約」を批准しませんでしたが、1942年に尊重する意思がある声明を出しています。捕虜になって生きることを戒める一節が含まれる「戦陣訓」(1941年)の影響もあってか、ドイツ管理下の捕虜死亡率では7%でも、日本管理下の捕虜は約3割が死んだとされているようです。日本ではその数さえわからないのでしょう。

東京裁判ではアメリカ兵の捕虜死亡率は27%で、ドイツでは4%だったとアメリカ側は主張しました。原住民の捕虜を除いて日本側の記録でも2割は超えています。このあたり、マッカーサーに日本は12歳の少年だと言われたことと無関係ではないように思えます。そうは言うものの、連合軍側もドイツ降伏の後で、ドイツ兵捕虜を虐待したり処刑したりしています。しかも、おびただしい数です。

このような戦時下において「強制していない」というのは、「いじめていたんじゃない、遊んでいただけ」というよりも嘘っぱちです。そんな嘘っぱち日本人に誇りに持てというのはどういう倫理性なのか、悪い冗談なのかと思います。彼らは事実と向き合う勇気がなく、フィクションを愛したいようです。

大日本帝国という美酒に酔いたいのでしょう。だから、そのフィクションをぶち壊すような批判は許すことができず、いつも「木を見て森を見ず」な反論を繰り返します。そして、神話のようなフィクションとしての歴史を教えろと教育批判を繰り返します。

中国デモ隊の過激な言動は中国の愛国教育の結果です。安倍さんも日本で愛国教育をしたいのでしょうが、武道の義務教育化ぐらいでやめておいてください。愛国を声高に叫ぶ人たちは結局みんな恨み節であって、そのストレスを発散させるための相手を探しているだけです。愛国にあるのは「愛」ではなく「憎しみ」です。いじめをやめられない子どもと変わりません。

最後は鈴木さんにまとめてもらいます。

「本来、愛国心とは家族への愛、故郷への愛、その延長線上に位置するものです。しかし最近は自分と国家を直接、結びつけることが愛国だと考えられているようです。では売国だ反日だと同胞を暴力的に批判し、弱い者をいじめて家族や地域に嫌われる者が、本当の愛国者でしょうか。多様性、敵対性もすべて含めて抱きしめる心。それが、日の丸掲揚や靖国参拝の回数では、はかれない真の愛国だと思います。」

『ソハの地下水道』 昨日、『ソハの地下水道』(2011年、ポーランド・ドイツ)を見て「シネマ短評」に書いたことですが、自称愛国者さんたちも含めて僕たちは中国の「愛国無罪」を理解することはできないと思います。しかし、日本の戦争犯罪を認めない言動は外国からはやはり日本の「愛国無罪」にしか見えないと思います。

先日、うちで巣立ったセキレイの子どもたちが白っぽい羽を風になびかせてやってきました。バルコニーの床に降りて、窓の中をのぞき込んでいました。故郷とはこういうものです。僕たちの視野に収まらないほどに大きな国はそもそもがフィクションです。動物と違って人はそのフィクションとどう付き合うかを学び続けていくことが大事だと思います。

安倍さんが言うような美しい国など世界のどこにもありません。国家とはその歴史にみんな暗部を抱えているのです。僕たちの前にあるのは美しくできる国だけです。

(2013.03追記:2013年3月に戦争中の捕虜の扱いについての外交文書の公開がありました。今回公開された文書によると、連合国軍は捕虜の処遇について調査するよう日本に命じていました。その報告書の中に「私的制裁は我が国軍の伝統的悪習なるのみならず実に国民的欠陥なり」という一文があります。制裁は軍隊だけに留まらず、学校教練などを通じて国民にまで根付いていたことがわかります。戦時中に苦しんだのは捕虜だけでなく、国民も虐待されていました。これは戦後も体罰として連綿と受け継がれていくことになります。)


わたしには夢がある

キング牧師収監時の写真

I have a dream. と1963年に語ったのはマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師です。

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私には夢がある。いつか、ジョージアの赤土の丘に元奴隷の息子たちと元奴隷所有者の息子たちが一緒に座り、友愛のテーブルを囲む日が来るだろう。
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僕は二院制を支持しています。人は過ちを犯すものです。集団で議論して決めてもやはり過ちを犯すし、集団ゆえに過ちを犯すこともあります。時間がかかっても間を置いて再考する機会があった方がいいと思います。

しかし、衆議院と参議院という二院制は支持しません。散々言われているように、参議院は衆議院のコピーでしかないからです。そして、僕には夢があるのです。参議院を廃止して子ども議院を創設するという夢が。

18歳から衆議院の選挙権を与え、9歳から17歳までは子ども院の選挙権を、12歳から17歳までに被選挙権を与えます。政党は組織できず、小選挙区制度です。精神的成長の早い時期ですから任期は1年です。報酬はありませんが、経費全額と無料交通切符、大人の秘書が二人付きます。

学業中だし、家族から離れるわけにはいきませんから、会議の基本はネットです。学校施設を最大限利用して、事務所も議員の学校に置きます。全国の学校のネット網を利用するので、間接民主制だけでなく、部分的に直接民主制を実現することも可能です。そして、重要法案の時は休日に集まります。学校の試験や出席日数などは特別な配慮がなされます。

参議院議場 ただし、参議院ほどの強い力はありません。法案を差し戻すことはできますが、否決することはできません。しかし、差し戻されるとそれだけ時間がかかるため、時には会期切れで廃案になることも起こりえます。

大人の衆議院は子どもたちが理解して納得できるような議論をしなくてはならなくなります。子どもたちに国際政治や経済問題がわかるのかという反論もあることでしょう。しかし、考えてみてください。大人のどれだけの人々が国際政治や経済問題をわかっているのかと。国会議員のどれだけが国際政治や経済問題に通じているとお考えですか?

中学生以上になれば、政策通の子どもなどいくらでもいます。しかも、今はネットのお陰で世界中の情報を手に入れることができるのです。

子どもが理解できるようになれば、今まで理解できなかった大人の多くもわかるようになるでしょう。

子どもたちも社会参加への窓が開けることで、学校という狭い閉鎖社会の思考から解き放たれ、いじめなどしている場合じゃありません。子どもたちには社会的自立の道が開けます。ニワトリがトサカをつつくのは閉鎖空間にいるからです。まあ、子どもをニワトリ扱いするのはひどいですが、これは大人も同じです。

家庭ではたいてい甘やかされている子どもたちですが、政治家たちは子どもを鍛えろ一辺倒です。子ども時代から社会や世界のことを考え、その責任の一端を担うことが当たり前になれば、その結果は言うまでもありません。政治家たちは口を開けば政治改革と言いますが、変わったためしがありません。しかし、子ども議院の創設は確実に政治改革を招きます。党利党略や利権に基づくような政策運営はできなくなるのです。

そして、いつも子どもを鍛えろと吠えていた大人は、今度は子どもたちから鍛えられることになります。「吠え面かかせてやる」とか「慰安婦は好きでやっていたんだ」なんて言う政治家は相手にもされなくなるでしょう。

僕たち大人がこんなことはオカシイと感じていることを変えられないのは、オカシイことをしている大人の一員であるからです。とっくに大人になっているのに、「もっとオトナになれ」とあちこちから足を引っ張りにくる連中がいるからです。しかし、子どもにはそれは通用しません。

子ども議会がある国はどこにもありません。どこの国にもこども議会ができたら、その最大の恩恵は最大の人権侵害である戦争の恐怖から解き放たれるということです。いつの日にか、子どもたちが革命を起こして、こどもの日が子ども議会誕生の記念日になることを夢見るのです。

私には夢がある。いつか、ジョージアの赤土の丘に世界中の元愛国者たちの娘たちと、世界中の元独裁者の息子たちが一緒に座り、友愛のテーブルを囲む日が来るだろう。

2012.09

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