プリオシン海岸  プリオシン通信

いじめと五輪

蹴るべきもの


日陰で憩うスズメ
日陰が恋しい季節


ペルセウス座流星群の夜はだめでした。12日は雨、13日は土砂降り。ペルセウスとはなかなか仲良くなれません。

この夏は五輪もあり。五輪になると、だいたいケチをつけるのが僕の定番。今回もその通り.......(^^ゞ 五輪はもう終わりましたけど、へそ曲がりに終わりはない。


女とオリンピック

先月シネマ短評で『プリンセス・カイウラニ』のコメントを書きました。そこで女子サッカーチームの「なでしこジャパン」という愛称に沖縄は視野に入っているのかと憎まれ口を叩きました。ちょうどそんな時に、ロンドン・オリンピック行きの飛行機で男子サッカーはビジネスクラスで、なでしこはエコノミークラスという差別を受けていたことがわかりました。朝日新聞に出たのはニュース記事ではなく、経済のコラム記事。記者はなでしこジャパンのチームが問題としていないから救われると書いていました。

『プリンセス・カイウラニ』(2009年) なるほど、確かに「なでしこ」らしくおしとやかでよろしい。しかし、こればかりは怒らないとダメなんじゃないでしょうか。これを問題にしないマスコミもどうかしている。なでしこジャパン優勝で大騒ぎして国民栄誉賞まであげておき、もっと援助しろとまで言い募っていたのに、こんな差別待遇は気にしない?

と思っていたら、イギリスのマスコミで取り上げられたこともあり、他のマスコミでも取り上げるようになりました。朝日も数日後イスラム圏の女子選手参加のニュース記事に関連して、この問題を取り上げていました。この記者は「不満が漏れた」と書いていましたが、主語抜きなので誰が不満を示したのかわからずじまい。いかにも日本人だ。

この記事の中にはオーストラリアのバスケットチームがやはり男子がビジネスで女子がエコノミーという同じ差別の伝統が紹介されていました。これもイギリスのマスコミの受け売り? しかし、同じではないことがあって、それは女子選手が不満を言ったこと。「なでしこ」ではないだけあってさすがです。やはりスポーツ界はどこの国でも封建的で、セクハラも含めて女性には厳しい社会のようです。

なでしこジャパン帰国 ウェブニュースではもともとはエコノミーだったが、プレミアムエコノミーに改善されていたそうです。沢穂希さんは帰国はビジネスをと要望したそうで、メダルを取ったこともあったのかビジネス帰国でした。

国民栄誉賞とか経済的な支援とかよりも、女性の尊厳が守られるようなスポーツ環境改善こそ取り組んでほしいものです。日本の男女サッカーチームは同じ便でロンドンに向かったそうです。サッカーを愛する男ならビジネス席を蹴ってエコノミー席へなだれ込んでほしかったです。

若い人は知らないかもしれませんが、日本でオリンピックを五輪と言うのは宮本武蔵の『五輪書』が由来です。「ごりんのしょ」と読みます。密教の五輪をなぞって「地・水・火・風・空」の五巻からなっています。

対訳五輪書(講談社インターナショナル) 兵法の書ですから、闘うという意味の上では通ずるものがあります。もちろん、そんなことは関係なしに五つの輪からの連想なんでしょうけれど。読売新聞が使い始めたそうです。

ちなみに古代ギリシャではオリュンピア(地名)で行われ、ゼウスに捧げられる祭でした。女人禁制で、全裸で競技しました。異説もあるようです。


スパコン・オリンピック

昨年8月の通信に「12歳の少女」を書きました。そこでなでしこジャパンの国民栄誉賞に触れて、民主党に仕分けされたにもかかわらず、「スパコン世界一」になったことには栄誉賞が授与されないのだという不満の声があることも書きました。

スーパーコンピュータ「京」 しかし、その裏には技術開発という目的を失って、「世界一」こそが目的になってしまった実態があったことがわかってきました。

「スパコン世界一」になったのは日本の国家プロジェクトで設立された理化学研究所のスーパーコンピュータ「京」です。「京」とは名前も巨きいですが、1120億円という費用も「京」並です。しかし、はやくも今年の6月にIBMの「セコイア」に負けたというニュースがありました。1年天下というわけです。そうは言うものの、これはこれで褒められていいとは思います。

しかし、当時は米国も事情があって、開発の遅れが出たことも一因でした。日本では仕分けにあったこともあって、とにかく文科省内ではなにがなんでも一度一番を取ることが至上命令になったようです。「2位じゃダメなんでしょうか?」と仕分けした蓮舫憎しというのがあからさまで、科学者たちまで動員してマスコミを味方につけました。いわゆる素人はなんにもわかっちゃいないという、いつもの論調ですね。

IBM セコイヤ 今回1位のセコイヤは速度が京の1.5倍もあるのに消費電力は約6割です。設置面積は京の5分の1なんだとか。日進月歩の世界とは言え、たった1年で逆転された上にそこまで差がつくというのは不自然としか言いようがありません。

スパコンというのはそもそもコンピュータをつなげたもので、数が増えれば処理能力が上がるという道理は知っていますが、結局「京」の技術とはその道理の延長線でしかなかったのかという疑いが濃厚です。コンピュータの人海戦術というところでしょうか。今、セコイヤと京を同じ設置面積と電力で競争させたらどれほどの差がつくのか見当もつきません。しかも、セコイヤの開発費用は79億円だったようです。京の費用の14分の1です。

結局、この技術の差は売れ行きに反映して、上位500台のうちIBM最新機は20台を占めていて、「京」の技術を活かした富士通スパコンは3台しかないそうです。国民栄誉賞をあげろと騒いでいた人たちは反省してください......(^_^) この「世界一」騒動は福島の原発事故問題と繋がっている構図だと思えます。


いじめられた場所から

大津のいじめ事件がずっと尾を引いています。いじめに終わりがないためにそれは当たり前のことでもあります。昨年10月通信「大阪の王子さま」の橋下教育改革批判の中でこんなことを書きました。

「橋下知事はTV番組の中で、いじめられたら転校できるということをきちんと子どもに伝えるようにすると語っていましたが、そんなの改革じゃないです。いじめられたら絶対にその子を守ります、いじめがやめられない子どもは転校できます、と伝えるのが改革です。」

今月初めに橋下市長は「いじめた側の子どもは学校を移すという方針を打ち出してはどうか」と述べたそうです。あの声が通じたのかとも思いましたが、世界の端っこの端っこの、そのまた端っこで書いている願いなど聞こえるはずもありませんよね。「はしっこ」は橋っ子とも書けるんですけど......(^_^)

橋下さんも最近は少しずつ軌道修正してきています。いじめた側の子どもとその家族が生活を考え直す契機にもなるので、機械的にやるのではなく、十分話し合った上でやってもらいたいです。大人たちを巻き込んで真剣な話し合いが持たれれば、それだけで多くの場合は解決されるのではないでしょうか。

不登校とか登校拒否とかいう言葉がありますが、これも原因の大半はいじめだと思います。いじめの解決は不登校への改善にもつながります。

朝日新聞は「いじめられている君へ」あるいは「いじめている君へ」というタイトルで著名人たちが呼びかける連載をしています。過去にも同様の企画をしていたましたが、今時の子どもは新聞なんか読まないという批判ももっともに聞こえますが、まあなんでも大騒ぎすることはいいことだと思います。子どもの世界のいじめなんて当たり前のことなんてしたり顔するのが一番だめですよね。

『研修医純情物語〜先生と呼ばないで〜』川渕圭一 すでに一月以上続いている連載ですが、8月12日付で、37歳で研修医になった川渕圭一さんは「『いじめを受けたらだれかに相談して』というメッセージは無意味なんです」と書きました。とうとう言ってしまったか。

それは今までに多くの人が呼びかけていた内容そのものです。これから呼びかける人たちはどうするんだろう、という余計な心配までしてしまいました。

今まで登場した人たちの中にもいじめられ経験のある人が多くいました。そういう人たちは自分なりに克服した体験を綴っていました。しかし、個性が多様であるように、環境が様々であるように誰にも適用できるものではありません。そんなことできないよ、やっぱり自分はダメだなあと思ってしまう子どももいたのではないでしょうか。

世間では漸くいじめはいじめる子が悪いのだという考えが広まってきたようです。しかし、この連載を見ているとまだ道半ばという感じは否めません。逆効果としか言えないようなことを書いている人もいましたが、そんなことよりもこの企画の方向性に疑問を感じるからです。なぜなら、いじめる子が悪いなら、いじめる子に焦点が当てられなくてはならないからです。

いじめた私から

『ラジオの魂』 小島慶子 自分が読んだ限りでは、30人あまりの中でいじめた経験のある人が登場したのはたった一人。それもいじめられたこともあるという両側経験者のエッセイスト小島慶子さんだけです。幼稚園でいじめたことがあるそうで、40歳の今でもとても後悔していると記されていました。

幼稚園時代のことを覚えているのですから、後悔はほんとうでしょう。小島さんが呼びかけた文章は「いじめている君」へ向けたものですが、言葉が届いている部分があると思います。

この企画は2006年にもあって、そのきっかけは福岡中2いじめ自殺事件です。1986年にも中野富士見中学いじめ自殺事件があって社会に衝撃を与えました。被害者の鹿川くんも中2でした。今回は大津中2いじめ自殺事件となり、場所が変わっただけのことで、世の中は変わらなかったということです。

『ベスト・ウィッシズVプレイヤー』 千住明 この時の連載を朝日デジタルで無料掲載していたので、こちらも読んでみました。28人登場しています。いじめた経験を記していたのはやはり一人で、いじめられた経験もあるとのこと。小島さんと同じ両方の体験者です。この方は作曲家の千住明さん。

僕は人を押しのけてでも、というような気性ではないので、いじめる側よりはいじめられる側に似合いますが、小学生の時に一番仲の良い友達に嫌がらせをしたことがあります。あれから40年以上経ちますが、今でも時々思い出し、チクチクと胸に痛みを覚えます。千住明さんもクラス会に出ても、いじめた相手に話しかける勇気がないと告白しています。いじめられた経験から相手がどう思っているかわかるからと。

僕も子ども時代に受けた先輩たちからの数々の嫌がらせも忘れずに覚えています。だれもが経験することでしょう。しかし、何年も経ってから出会った時も軽蔑の気持ちを消し去ることができませんでした。彼らも先輩から嫌がらせを受けてそれを学習したからに過ぎないとわかっていても。

あれは小学五年のことだったでしょうか。下級生から見れば児童会長という立派な先輩が休み時間に下駄箱で同級生二人を殴りつけているのを目撃しました。友だちの話では二人は児童会長の下足番で、下駄箱のところにいなかったので殴られたのだということでした。織田信長みたいなヤツだなあと思ったものです。今ではこの喩(たと)えが間違いであるとわかります......(^_^) それぐらい記憶に残ることだったのです。

その後もこの二人が休み時間に遊ぶこともなく、下駄箱で待機している姿を見たものです。この時に子どもを見る先生の目は節穴であること、大人には子どもの本当の姿をわかってくれることが期待できないと悟ったものです。告げ口したくてたまりませんでしたが、告げ口は卑怯という子ども界の鉄のルールよりも、また別のところでいじめられるようになるだけだという諦めに負けてしまいました。

中学に入ると、この二人が僕たち後輩に嫌がらせをよくしていきました。抵抗できない後輩が的になるわけです。児童会長の名前も顔も覚えていませんし、僕は彼から何も嫌がらせをされた覚えもありませんが、今でもあなたは僕が軽蔑する人です。僕たち後輩に嫌がらせをしてきた二人の名前も顔も覚えていませんが、僕はあなたたちを憎めません。

そして、三人ともに今は胸に痛みを覚えていることだろうとも思います。

いじめる子が悪いなら、いじめる子に焦点が当てられなくてはならないと先ほど記しました。この連載に足りないのはいじめた経験者からの言葉です。なぜいじめられるのか、多くのいじめられている子はきっと考えています。なぜ自分がいじめられるのか、そのわけを自分の中に見いだそうとしています。それは違うんだと言えるのはいじめの側に立ったことのある人こそができることです。

みんなが求めなくてはならないのは、いじめられた場所から書かれたものではなく、いじめた場所から書かれなくてはならないと思うのです。子どもも大人も知らなくてはならないのはその場所です。

60人ぐらいの中で「いじめた」という側だけから書いた人はひとりもいません。でも、世の中には勇気がある人はいっぱいいます。朝日新聞はこの企画を根本的に練り直してください。解決を子どもたちに委ね、大人は黙って見守るかのような姿勢は見て見ぬ振りの先生と同じになってしまうではありませんか。

いじめを後悔して、子どもたちをなんとか救いたいという勇気ある人たちを掘り起こしてもらいたいものです。すぐ足元の記者たちの中にもきっといるはずです。世界の端っこの端っこの、そのまた端っこからでは聞こえないでしょうから、朝日には手紙を書くことにします。

えらくないからえらい

朝日デジタルを見ていたら、「いじめを見ている君へ」というタイトルもありました。そういうタイトルで書いた人もいたんですね。見直したらその中に美輪明宏さんがいました。

「いじめ」と言うな。「犯罪」と言え。そういう声があります。先日も投書で見ました。ずいぶん以前からそう発言している美輪明宏さんの影響もあるのでしょう。今回の記事にも「いじめは犯罪です。やってることは脅迫、暴行、傷害、殺人。実態をちゃんと表すために『いじめ』ではなく『犯罪』という言葉を使うべきです。」と述べていました。一理ある意見です。

しかし、いじめと犯罪はやはり同一視できません。例えば、「シカト」は犯罪にはなりません。いじめの中の嫌がらせは大半が犯罪とはならないものです。いじめの中には犯罪として罪を問われなければならないものがあり、それを見逃してはならないということでしょう。

「いじめは犯罪です」と言い切ってしまうと、これは犯罪ではないからいじめではないという誤解を生みます。こんな大ざっぱな言い方はやめた方がいいです。すでにこの国では法律に触れなければ何をやってもいいというような考えが蔓延しているのですから。子どもたちにまで誤ったメッセージを伝えることになります。

中野富士見中学いじめ自殺事件でのいじめ寄せ書き 左の画像は中野富士見中学いじめであった葬式ごっこで書かれたクラスの寄せ書きです。担任教師らも含めクラスのみんなが鹿川くんが死んだと仮定して寄せ書きをしたのです。今でもその時の子どもたちはみんな十字架を背負って生きていることでしょう。

そして僕がこのクラスの中にいたら.....と思ってしまいます。この寄せ書きを見ていると中2の時の自分の名前を見つけてしまうような恐ろしさを感じます。

僕も子ども時代はいじめを見ている人でした。だから、「いじめを見ている君へ」なにか語りかける資格はありません。それで言うわけではありませんが、いじめは子どもたちで解決できる問題ではなく、大人が声を掛けなければ助けることはできません。だから子どもと呼ばれるのです。

いじめられている子たちの立場にきっぱり立ちながら、いじめている子たちの現場に立ち入ることこそが大事なんだと思います。彼らを知らなければ、いじめは何も見えてきません。考えてもみてください。いつもいじめる側はいじめられる人よりも圧倒的に多いのです。その経験者もいじめた方が圧倒的に多いことになります。

この人たちが語り部になった時、世の中が変わるのだという気がしてしかたありません。逆に言えば、いじめた過去を恥としてみんなが沈黙を続けるかぎり、僕たちはいじめを根絶できないのです。

いじめはなくならないと言うつもりはありません。いじめはなくならないとしたり顔で言ってほしくもありません。大人がいじめを本気でなくす覚悟をすればいじめはなくなります。なくならないのは自己批判を怖れたり、勇気がなくて「できればね」と考えているからです。だからこそ語り部が必要なのです。

人の心は曲がりながら成長します。一時的な嫌がらせはなくならないでしょう。しかし、継続的な嫌がらせは誰かの目に必ず触れるから、いじめはなくせるのです。大人の覚悟が子どもたちに伝われば、いじめはなくなるのです。

世の中が変わると言ったのはいじめがなくなるという意味だけではありません。助けられるのはいじめられている子たちだけでなく、いじめている子たちも、知らんぷりをしている子たちも救えるのです。毎日安心して過ごせる学校生活はどんな教育改革よりも教育の成果を上げることができます。子ども時代を思い出してください。いじめられないようにどれだけのエネルギーを費やしていたことか。

いじめた側が発言するということはつまり大人が変わったことであり、なでしこジャパンのエコノミー席の問題やスパコンの開発方針や、先だって韓国大統領が竹島を訪問して問題になっている領土問題への取り組みもみんな影響するのです。

今日は終戦記念日です。国内外のたくさんの人々が殺された理不尽を思う日です。しかし、子どもたちはまだ戦場にいて、毎日ビクビク生きています。まだ平和はやってきていません。

『五輪書』の地之巻序にはこんな記述があります。

大形(おおかた)武士の思ふ心をはかるに、武士は只(ただ)死ぬといふ道を嗜(たしな)む事と覚ゆるほどの儀也。死する道においては武士斗(ばかり)に限らず、出家にても、女にても、百姓已下(いげ)に至る迄、義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひきる事は、其差別なきもの也。武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐるゝ所を本(もと)とし、或(あるい)は一身の切合(きりあい)にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ、是(こ)れ兵法の徳をもつてなり。

武士とはいつでも死ぬ覚悟があることだと思われているけれど、それは武士に限らず、僧でも女でも百姓でもみんな同じことだと、宮本武蔵には武士としての驕(おご)りがありません。だれでもそれだけの覚悟をして自分の人生を切り開いて生きているのだというわけです。

曲がりなりにも社会の安全弁がある今日において、そんな覚悟を持って生きている人は稀でしょう。しかし、たぶんいじめられている子たちにはそれぐらいの覚悟はあるでしょう。いじめをなくすには彼らと同じぐらいの覚悟がいります。残念ながら朝日の連載には、あるいは他のマスコミの論調にもそんな覚悟は見えません。文科省に至っては言うまでもありません。

先月書いた「欲望という名の電気」とも密接にからむことで、僕たちはどんなことを大事にする社会に生きたいのかという問題と同じことです。

今回もロンドン五輪を観戦した人たちから「勇気をもらった」という声をたくさん聞きました。以前にも書きましたが、なかなか僕には理解できないことです。しかし、いじめた人がなぜいじめたのかを語ってくれたら、僕は間違いなく「勇気をもらった」と言います。

『どんぐりと山猫』 宮沢賢治著 それは経験とは関係なく、自分の中にいじめを許す心といじめを憎むこころのどちらもがあることに気づいているからです。何十年生きてきても、この戦いは止むことがありません。いじめを憎む心は正しいことだから、心の中で安住しています。しかし、いじめを許す心は正しくないとわかるから、心の中でかくれんぼをするのです。

それを引きずり出して戦うにはいじめた側の語り部が必要なのです。語り部の勇気が必要なのです。犯罪と戦うにはおおかたは犯罪者と戦えばいいです。しかし、いじめはいじめっ子と戦えばいいことにはなりません。どんな立場の人でも、いじめられている子も、いじめている子も、知らんぷりの子も、大人も、みんなが自分と戦わなければなりません。これがいじめと犯罪とをいっしょにできないもうひとつの理由です。

子どもたちから見れば大人は自分と戦う必要はないだろうと思うかもしれません。確かに大人になればいじめから距離を取れるようになります。しかし、大人になってもどこででも徒党(ととう)を組みたがる人はたくさんいるのです。街でいじめられている子を見かけて止めに入る勇気がある大人も少ないです。

いじめ事件があると、先生は見て見ぬ振りをしていたという声がいつも聞こえて来ます。僕の学校時代を思い出しても、それが普通の教師でした。昔はいじめられるヤツも悪いと考えられていたからです。大人も子どもと同じなのです。ましてや大人は節穴だらけの目とも戦わなければならないのです。

宮本武蔵の引用文の中には「武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐるゝ所を本もととし」とも記され、武士は兵法を行うときは他人よりも優れていることが根本だと説いています。五輪書はオリンピック選手向きです。しかし、僕たちは武士でありませし選手でもないから、他人より優れている必要はありません。むしろ、オリンピックとは異なって、いかに他人より優れていないかを告白する勇気こそが必要です。

鹿川くんが自殺したのは父親のふるさと岩手県盛岡駅ビルトイレです。首吊り自殺でした。安らかに死ねると思われているようですが、法医学者によると激痛が伴い、首が切断されるおそれもあるそうです。つるされた体はしばらくけいれんが続きます。

昔、その周辺で生活していてこんなことを書いた人がいました。

「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」


2012.08

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