プリオシン海岸  プリオシン通信

欲望という名の電気

ネコの手を借りよう


のんびりいこう
海浜公園のネコ


去年、『大法輪』10月号が金子みすゞを特集したことに触れましたが、その時になぜ特集に取り上げるのに宮沢賢治よりも金子みすゞの方が早いのか不思議に思っていました。そう思う人が多かったのか今年の4月号は「宮沢賢治と仏教」が特集されました。

『大法輪』2011年10月号特集「金子みすゞと仏教」        『大法輪』2012年4月号特集「宮沢賢治と仏教」

しかし、編集部が金子みすゞを取り上げたのは東日本大震災で人気が出たからでしょうから、そもそも金子みすゞも宮沢賢治にも関心がなかったというのが推測としては正しいのかもしれません。

世間ではまだ二人の出番が続いていて、TVでは今月も上戸彩主演で『金子みすゞ物語』が放送され、映画では猫主演でアニメ『グスコーブドリの伝記』が上映されています。


上戸彩主演『金子みすゞ物語』          アニメ『グスコーブドリの伝記』


金子みすゞ初心者である僕には『「金子みすゞ特集」はそれなりに面白い特集でしたが、賢治についてはさすがに初心者だと言うにはおこがましい程度の知識があるせいか面白い記事はありませんでした。仏教雑誌だからそれなりに深い考察記事、特に国柱会のことが出ないかと期待していたのですが残念でした。考えてみれば、特定の仏教団体に触れるような記事は仏教雑誌にとっては逆に差し障りがあるわけですね。

みんなのお寺

むしろ目を引いたのは別の記事です。宮城県仙台市にある、どこの宗派にも属さない単立寺院の「みんなのお寺」について書かれたものです。「みんなのお寺」は記事のタイトルではなく、寺の名称です。もともとは浄土真宗のお坊さんだった天野雅亮住職が、葬式仏教よりも生きている人にこそ役立てたいというコンセプトで始め、檀家ゼロから十数年で五百軒にまでなったということです。うちの菩提寺は六百年という歴史のある大きなお寺ですが、檀家数はそれ以下です。

みんなのお寺
http://www.mintera.info/

今まで度々菩提寺批判をしてきましたが、その批判に応えるようなお寺が現実に機能しているのはうれしい限りです。檀家数を記しましたが、ここは檀家にもこだわりがない寺です。お参りも相談事も誰でもOK。お寺からの定期の費用請求もなし。あるのはお布施だけ。

 しかも、お布施は僧侶への対価ではなく、仏様への供養であり、お金がなくても供養させていただくと言い切るあたり、林から涼風が吹くような爽やかさです。これでも生活していけるということを実証していることがすばらしい。こんな寺が近くにあったら、今の菩提寺を捨てて、明日にでも檀家になります。でも、檀家というよりはサポーターですね。

春の新聞に載ったお寺の盗難記事には、現金1100万円と腕時計やネックレスなど貴金属約500万円相当の被害とありました。こちらからは腐臭しか漂ってきません。

昨年末には、仏教各宗派がお坊さんの婚活を支援という記事が出ていました。世襲ということも含めてだんだん立場が医師に近づいてきたということでしょうか。菩提寺だけでなく、宗派本部も根本的に勘違いしていると思えます。仏教界においても禁欲は死語になっているらしい。

天野住職はお寺の生まれではありません。アルビノの生まれです。メラニン欠乏のため髪も肌も白いので、高校に入る頃まではやはりいじめを受けていたそうです。ヒマラヤで神秘体験もされています。宗教家というならやはり神秘体験ぐらいはしていてほしいものです。そうは言ってもドラッグには頼らないでね。

政治家の世襲率はよく取り上げられるところですが、何も期待されていないお坊さんの世襲率は記事になりません。世襲で当たり前と思われているのかもしれません。そう思って僧侶をまともに相手にしない民衆でいるかぎり、日本の仏教は死んだままです。

日本に無数あるお寺が「お金」ではなく、「仏教精神」で活性化したら、日本に宗教革命が起こることはまちがいありません。いえ、宗教にとどまらず世の中はすっかり変わります。お坊さんをお布施のための忙しい法事から解放してあげれば、仏教の交番として人々を救えるようになります。そうなればお布施は取られるものではなくなり、弱者救済のための寄付金として気分よく出せるようになります。

僕はお坊さんを批判ばかりしていますが、お坊さんが尊敬される世の中を願っているのです。お坊さんが尊敬される世の中はきっと人間が、生き物が大事にされる世の中だと思うからです。

タイのレストランにて

新聞の投書にタイでの話題が出ていました。タイと言えば、男子の出家が成人になる通過儀礼になっているぐらいの仏教国と聞きます。期間はだいたい3ヶ月以内らしいです。

投書では友人のタイ人とレストランで食事をした際に、「君は本当に日本人なのか」と尋ねられたといいます。そのレストランのテーブルマットに日本人には食前には「いただきます」、食後には「ごちそうさまでした」という習慣があると紹介され、その言葉の意味まで説明されていたのでした。

「いただきます」の意味を知らない日本人のためにタイ人の説明も書いておきます......(^_^) 「いただきます」は「私の命のために動植物の命をいただきます」。「ごちそうさまでした」は「大事な客をもてなすために食材を集めた人たちへの感謝を表す」。そうだったのか!.......(^^ゞ 

「ごちそうさまでした」には料理をしてくれた人や他の命への感謝含まれていると思います。これは人ごとに思いは異なるかもしれません。しかし、結局「いただきます」も「ごちそうさまでした」も別々の意味ではなく、同じ内容を表す感謝の言葉だろうと思います。

ワンガリ・マータイ 昨年亡くなられたケニア人の国連平和大使ワンガリ・マータイさんが提唱した「MOTTAINAI モッタイナイ」という言葉と同様に、日本人の食事作法は日本の美徳を表すものですね。もちろん昔は当たり前のことで美徳でもなんでもないことですけれど。

こういう謙虚な態度を示す言葉の裏には、仏教や儒教の影響もあるのでしょう。宗教が廃れたために、あるいは宗教嫌悪のために「いただきます」も「もったいない」も捨てつつあるようです。

ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王とペマ王妃 外国人が日本人から影響を受けたのとは逆な仏教国がブータン。2005年の国勢調査で97%が幸福と答えたそうで、そのうちの半分近くが「とても幸福」というレベルでした。まるで山奥深くの桃源郷みたいな話。日本人は驚いただけで影響を受けたとはいえませんけどね。

昨年、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王とペマ王妃が来日して東日本を訪問しました。この若きご夫婦の姿や発言に多くの人が深い印象を受けたのではないでしょうか。

ブータンについてはほとんど何も知りませんでしたが、豊かな国ではないことぐらいは知っています。貧しくてもそれとは別の尺度で幸せを感じているわけで、いったいそれはどういう生き方なのかがぜん興味が湧きます。

モノからコトへ

国民総幸福量ポスター すでに先代国王が提唱した国民総幸福量(Gross National Happiness)という言葉は耳にしています。言うまでもなく、国民総生産 (Gross National Product)の Product(生産物) を Happiness(幸福) に置き換えたものです。国の豊かさの尺度を「モノ」から「コト」へ転換する思想だといえるかもしれません。いわば、手にしたものではなく、どんな現象が生じているかを見つめるわけですね。

だからこそ、それを見つめるためにずっとブータンのルポを読みたいと思っていたところ、ちょうど朝日新聞が5月に連載をしました。デジタル版では紙面よりも詳しく書かれていました。そしてやはり驚かされました。貧しい国なのに医療費と教育費が無料になっている、なんてことは驚くに値しません。驚いたのは、その圧倒的な貧しさです。「困」という言葉がぴったりくるレベルの貧困です。

子どもの1割が家庭では食事ができていないために、学校では国連の支援で朝と昼に給食がある。この一文だけでもそれがわかります。じゃあ、家庭では夕食だけ食べているのかと問われれば、それも時々食べられないと言います。

これは首都ティンプーから車で約7時間の南部ダガナ県ツァンカ村で、記者は貧しい地域に照準を合わせて書いているのでしょうから、国全体としては割り引いて受け取る必要はあります。しかし、ブータンは国民の4人に1人は貧困レベル以下の生活をしている国なのでした。

ブータン人の貧しい一家の家 記者はこの村の1軒屋に入っていきます。小さな掘っ立て小屋で、5人家族。しかし、夫は家に寄りつかず、たまに帰宅すると暴力を振るって金を持っていく。食事は1日1回。村に電気が来たのは3ヶ月前。

教育費の無料は日本と同じく授業料だけです。文房具の支給もあるようですが、子ども二人を借金して通わせているそうで、この子どもたちのお母さんは教育を受けたことがなく、読み書きもできません。楽しいことは何もないといいます。たぶん、ブータンでも最底辺層と言っていいのかもしれない家族です。

日本でなら、こんな家族に「あなたは幸せですか」と聞く人はいないでしょう。記者は聞きます。

「はい。ここには自分の土地がある。いろいろ問題があるが、それなりに生きている。近くの女性たちとも助け合っているから」

「自分の土地があるから幸せ」という答えはブータンの他の人からもありました。ブータンでの成人識字率は5割です。家事はやはり女性がするものという考えがあり、男性中心の識字学級でその考えを改めさせていく指導もなされているようです。

それにしても何か似ている。どこか似ている。いえ、ずいぶん似ている。この識字率に男尊女卑的な考え方。相互扶助。戦争がない。これはまるで日本の江戸時代ではないか。

識字率は男女差が大きいですが、幕末期にはほとんどの人々が読み書きできていたようです。儒教や仏教による男尊女卑思考。村の結い。鎖国状態で国内平和が保たれていた。しかし、土地は地主のもの。

もし、江戸時代に「あなたは幸せですか」と日本人に尋ねたら、多くの人が「はい」と答えそうな気がする。江戸時代の日本人の多くは自分の田畑を持てなかったけれど、自分の土地があったなら答えはやはり「はい」だったのではないだろうか。

悪徳の栄え

原爆死没者慰霊碑 東日本大震災によって、僕たちは「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑に刻まれた誓いを破っていることを知りました。さすがに今回ばかりは国も変わって二度とこの誓いを破らないぞ、しかしながら過去の経験から半分ぐらいの期待で見守ってきましたが、やはり今回も裏切られてしまいました。

現在の生活水準を落とさないためには国民の生命を危険に晒してでも原発を維持する。それが我が国の政財官界リーダーたちの決断でした。決断と言えばまだ聞こえがいいですが、きちんと考えた節もなさそう。結論ありきです。

事故調査委員会が政府、国会、民間、東電の4つも並立して発足したものの、どれもが調査不十分か責任回避でお話になりません。なぜこんなことになるのかを国会事故調は図らずも教えてくれています。

国会事故調報告書 国会の報告書は英語版と日本語版の序文が大きく異なっていたために問題になっていました。英語版には「根本原因は日本に染みついた習慣や文化にある」とありました。これはまさに事故の1原因だけでなく、事故調の問題そのものです。

委員会や委員会と繋がる組織、つまり原発事故を引き起こした原発ムラと同じような「場」を和ませるための調査でしかなかったということです。しかし、正確に言うならば、「日本に染みついた習慣や文化」ではなく、それは単なる悪徳です。

曰く、「条件反射的な従順さ」。曰く、「権威を疑おうとしない姿勢」。曰く、「決まり事にこだわる習性」、「集団主義」、「島国根性」。戦争で何百万人もの犠牲者を出しても変わらなかった根性です。

今、大津でのいじめ自殺事件が大きく報道されていますが、この根性は学校という狭い檻の中でいじめられている無数の子どもたちを見殺しにしている現状まで結びついています。

羮に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)と言います。また逆に、喉元過ぎれば熱さを忘れるとも言います。今回ばかりは忘れるのではなく、こんな悪徳は吹き飛ばしてほしいものです。

経済レベルを落とすことがそんなに怖いことでしょうか。貧窮国から日本人の生活を見れば、日本は旧約聖書に描かれたソドムかゴモラと言っていいような放埒さだと思えます。「もったいない」と「いただきます」の精神を取り戻すだけで、十分豊かな生活が送れるのではないでしょうか。

電気たっぷりの生活はしょせん電気椅子の座り心地なのです。子どもたちの未来を設計せず、今の権益にしがみつくリーダーたちはさっさと引退してください。いつか変革の時はやってきてしまうのです。それなら早い方がいいのです。

欲望電池

みんなが貧乏であった時、人は貧乏を不幸とは思いませんでした。モノがどんどん増えて、他人よりモノが少ないと人は自分が不幸だと思うようになりました。

人類にはみんながそれなりの生活ができるだけの経済力があるのに、富が偏在しているために人類の半分は貧窮している現実。我が身はなかなか客観視できませんが、大英帝国の歴史を見ればそれが植民地からの収奪と不可分であったことが一目瞭然です。

宮澤賢治は富裕な家に生まれたため、自分は社会的被告であるという責めを負い続けました。日本は戦後貿易立国として海外から多くの富を得てきました。そういう意味では日本人も賢治と同じ責めを負っていると思えます。温水でお尻を洗ってもらえる幸福も富の偏在のお陰だと言わなければなりません。

ブータンの近代化はそれに抵抗しようとしていますが、すでに都市部ではその兆候が現れていると言います。ブータンでも電気が国中に届くようになり、すでに欲望電池に充電が始まっているのです。

ランプを捨てて電気が通るようになってから、人々の欲望は一気に加速を始めました。電気とはまさに欲望の代名詞です。星の輝きも静かに眠る夜も消えました。そして、世の中で一番輝くものはお金になってしまいました。経済通の人々はお金が流れないから問題だ、もっと金を使えと脅してきます。その先にあるものは何でしょうか。

『それをお金で買いますか―市場主義の限界』マイケル・サンデル(著 マイケル・サンデル教授は何でもお金と交換しようとする市場主義に、それは道徳的に正しいのかを問うています。巨人軍の原監督はかつて恐喝された時に元暴力団員に1億円を払ってしまったそうです。巨人軍は相手は反社会的勢力ではなかったから問題はないと言い張っています。

人生を破壊される怖さに1億円を払ってしまった気持ちには同情の余地があります。しかし、恐喝されて1億円もの大金を払ってしまう行為自体は反社会的行為です。巨人軍は過去からの度重なる金銭問題で反社会的勢力になってしまっているから気がつかないのでしょう。

モノを増やすために人々は働き続け、富はますます偏在していきます。自分が住む土地と、生きていけるだけの食料と、愛され愛する人間関係があれば幸せであった人間は、富というもののためにどんどん阻害されてきました。資本主義は「人の幸せ」とはなんの関係も築けないシステムです。

不要なモノを次から次へと作りだし、宣伝で欲望をかきたてて、それを買うために低賃金で働く。まあ、低賃金で働いている人はあまり不要なモノは買いませんけどね。不要なモノを買いたい人たちのために、国外の人々も含めて低賃金で働いて作ってあげていると言ってもいいです。こんな不正義をいつまでも続けられません。

星がかがやく日

左手首に帯状疱疹が出て腕時計ができなくなりました。右手首に腕時計を巻くと、太くてはまりませんでした。右利きだからでしょうか。人の多くは左右脳のバランスが取れていなくて、多くの人が左脳が大きいそうです。僕も右利きだし、思考傾向を考えると左脳がきっと大きいのだと思います。

生物の中で人間だけが特殊であるものはたくさんありますが、その中でも筆頭にあげられるのが脳の巨大さですね。脳化指数という体重に脳が占める割合を示すものがあり、脳の容積を体重の2/3乗で割った数値になります。人、0.86。イルカ、0.64。チンパンジー、0.31。象、0.22。ビーグル犬、0.16。ネコ、0.12。スズメ 0.12。サラブレッド、0.08。野ウサギ、0.05。こんな感じです。

『人体 失敗の進化史』 遠藤秀紀著 脳化指数が知能の目安になるわけではありません。しかし、脳が大きいか小さいかはわかります。チンパンジーやオランウータンの脳容積は400cc前後です。人の祖先であるかどうかまだはっきりしませんが、脳容積が400ccのアファール猿人からたった400万年弱の間に1400ccのホモ・サピエンスが登場しました。実に脳容積が3倍以上も増えたのです。これは人の脳はリミッターが壊れてしまったと言っていいぐらいです。

実際、この巨大脳がしていることを観察してみれば、叡智とはほど遠い。他の生物は調和を保って生きようとしているのに、人はそれができない。それはまさに欲望という名の電車から降りることができないからです。

被曝警告の標識 帯状疱疹は子ども時代にかかった水疱瘡(みずぼうそう)のウイルスが神経節に潜伏していて、加齢やストレスなどの免疫力の低下で発症する病気です。原発から出る放射性廃棄物は生物の寿命とは比較にならないほどの長期にわたって潜伏させなければなりません。

ウイルスの潜伏期間は人が死ぬまで。放射性廃棄物は人類が死ぬまでです。いいえ、人類が滅んだあともその危険は残るでしょう。

もうそろそろ大げさなことを言わないといけない時代が来ているのではないかと思えます。すでに地球の資源は限られ、国々が先を争って手に入れようとしています。しかし、新興国ではいま欲望に目覚めたところで、日本がかつて歩んできたような金ピカの道をたどろうと夢見ています。土用の丑に鰻が食べられないと泣いている場合ではありません。

1926年、賢治は『農民芸術概論綱要』で言いました。「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」

賢治が言ったことは百年早かったと言うつもりはありません。たぶん数百年は早いです。しかし、そんなことを頭の片隅におく時代がやってきているのだと思うのです。民主党から議員が次々と逃げ出していますが、今週も「尖閣諸島問題に政府は弱腰だ」と批判して離党した議員がいます。ナショナリズムを鼓舞するような、もうこんな議員が活躍するような時代ではありません。

東京ではデモが繰り返し行われています。デモも結構。しかし、「原発いらない」だけでは展望が見えません。政財官界が将来の展望を描けずに「原発再稼働」と叫ぶのと拮抗してしまいます。「原発いらない」だけでなく、僕たちには「いらない」と叫ぶモノをひとつずつ積み上げていく内なるデモが求められています。飽食をやめる覚悟なくしてダイエットしてもリバウンドが待つのです。

日本には子どもを甘やかす悪習があります。しかし、未来は子どもたちを甘やかしてはくれません。「いらない」モノを教えましょう。放射性物質を拒否するだけで、国土が汚染から免れるわけではありません。それは生命と正義を大切にしない思想と闘うことで支えられるものです。

正義なんて言葉はほんとうに古くさい。しかし、カビが生えた「正義」を持ち出さずにはいられない昨今です。カビも発酵させたら、いいものになるかも。

賢治が今また綱要を書くとしたら、こう書くかもしれません。

曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ金が 欲望があるばかりである

あるいは百年後、金子みすゞならこう唄うかもしれません。

わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
放射能にひかっていることが。

わたしはふしぎでたまらない、
たれにきいてもわらってて
あたりまえだ、ということが。

今年はめずらしく七夕が晴れました。しかし、田舎の星空でもやはり灯りが明るくて、星は輪郭を失っています。過去2回あった石油危機の時には空が暗くなり、TV放送も零時ぐらいに終了しました。いらないモノはいくらでも出てきます。自転車に乗りたい僕としては電気自動車よりも自転車道を作ってほしい。あれっ、これは僕の欲望でした.......(^^ゞ

公園の猫には家もスマートフォンもぜいたくな食事もありませんが、穏やかな目をしています。猫にできることなら、猫より百倍も賢いと自認する人間にできないわけがありません。後ろ足で首を掻くことはできませんけど。

2012.07

このページのトップへ

プリオシン海岸トップへ