プリオシン海岸  プリオシン通信

アンネはなぜ

沈黙する多数決


カモメの朝ご飯
カモメの朝ご飯


先月でしたか、南海トラフ地震の最新予想が発表されて、うちの市では最大震度が7になりました。震度7というのがどんなものなのか想像できないので、震撼するしかないです。どんな備えができるのか考えていく必要がありそうです。 南海トラフ地震の最新予想

避難訓練とか自治会でもやったことないし、どこに避難していいのかも知りません。自分でもいろいろと考えるのですが、なかなか実行に移せません。

それでも去年は長年放置して動かなくなっていた発電機を修理しました。なぜそんなものがあるのかはわかりません。父の遺品のひとつです。

冬の省エネ

原子炉事故の収束、放射性物質の除染、被災住民の帰還、瓦礫処理、原発の再稼働、電力の確保、電気料金等々、東日本大震災から1年を経過しても問題山積です。せめて家庭で気軽にできることということで、寒くて長かったこの冬も省エネに努力してみました。努力というにはほど遠く、お遊び程度でお恥ずかしい内容ではありますが.......(^^ゞ

まずは電気湯沸かしポットの使用をやめました。昔の真空ポットを使うことにしました。キッチンはすぐに温まるようにストーブを使っているので、そこにヤカンを乗せてその湯でポットに補充しました。電気ポットはカルキ臭が抜けなかったのですが、ヤカンで沸かしてから入れる湯はカルキ臭がしないのでいいという副産物がついてきました。もう電気ポットは使えません。

家電の消費電力 エネルギー消費であまり話題にならないのが調理です。確かに長時間つかうものではありませんが、かなりの火力です。うちはIHクッキングヒーターですが、3kwです。他の電気器具と比べたらバカでかいです。そこで取り入れたのは余熱調理です。

面倒なことは長続きしないので、沸騰したらただスイッチを切って放置するだけ。卵をゆでる時は以前からそうしていましたが、これを幅広く採用。とは言っても当然適応できる料理は限られるので、たぶん10分の1ぐらいの節約ぐらいでしょうか。

麺類はうまくいかないのでは思っていましたが、それほど時間の差もなく茹で上がりますね。ずっと茹でていると時々かき混ぜないと鍋底に麺がくっついたりしますが、余熱だと放置したままでいいし、くっつきません。かえって便利です。きっと旨くないだろうって? 贅沢な舌を持っていないので、違いはわかりません。

参考までにゆで玉子は沸騰してから10分〜15分で固茹でになります。季節で異なります。殻を剥きやすくするために気室の方(尖っていない方)を軽く叩いてヒビを入れ、水から茹でます。大きなヒビを入れると白身が出てくるので要注意。ヒビから泡が出ていればOKです。

麺類は種類によって加熱し続けた場合より1分〜5分ぐらい余分に時間がかかります。ブロッコリーを茹でるのはあまり違いはなさそうです。ただし、ガスレンジの場合は鍋が浮かんでいるので冷めるのが早いかもしれません。

冬はやはり暖房対策です。去年すでに夜間は窓にシャッターを下ろすことを始めましたが、今年は窓の下部に立てて置くボードを試してみました。その効果は残念ながらよくわかりません。

例年暖房はストーブが基本でしたが、ストーブよりもエアコンの方がエネルギー効率が良いということで夜間はエアコンに切り替えました。ファンヒーターだと石油だけでなく電気も使いますしね。うちはオール電化なので、昼間は標準の1.5倍料金が高くなります。経済的なことも考慮にいれないとね。しかし、これは電気を使うことになるので、電気の足らない地域ではお勧めではありません。

エアコンは停止していても電気を使っているそうで、テレビ番組では40ワットぐらい使用していると伝えていました。マニュアルで確認してみると書いてあったりなかったり。書いてあったのには気温十度以下になると室外機を温めるために25ワット消費するとありました。それ以外にリモコン用の待機電力もあります。

うちは十年経過しているエアコンもあるので、それはもっと消費しているはずです。そんなわけでほぼ使わない部屋のエアコンのコンセントを抜きました。抜いたのは3台です。

また、TV番組では、使う前の6時間以上前にコンセントを繋いでおかないと故障する危険があると言っていました。理由が不明だったので調べてみましたら、電力は室外機の潤滑油を温めるために使われているそうです。そのため冷えた状態で突然運転すると潤滑油の粘度が高くて機械に負担がかかることになるわけですね。突然の来客でどうしても必要な場合はストーブを持ち出した方がいいようです。

また、エアコンの使い方には注意が必要です。基本は連続使用で、つけたり消したりはかえって電力を消費します。エアコンは使い始めにかなりの電力を消費し、部屋が暖まると電力消費が小さくなるからです。その差がとても大きいです。1時間ぐらいならスイッチを切らない方がいいようです。

これで今冬の電気料金はどうなったかまとめれば、夜間にエアコンを使うことになったにもかかわらず昨年よりわずかに減りました。夜間のエアコン分の灯油消費も減りましたし、お遊びでもやった甲斐がありました。

赤川次郎の嘆き

今冬は寒かったのは気候ばかりではありませんでした。もうひとつ寒いことが続いていて、まだ当分終わりそうもありません。先月に取り上げた教育現場の「密告」です。口元チェックの校長さんは批判を受けたらしく、「全く自分の価値観は入れていない」と反論していました。その言葉に口元チェックと同じぐらいに呆れてしまいました。

『ふたり』赤川次郎著 新聞の投書欄に「橋下氏、価値観を押しつけるな」というタイトルが出ていたので、「価値観」という言葉に反応して読んでみましたら、作家の赤川次郎さんでした。赤川さんは東京にお住まいです。

日本の有名人はとにかく社会的な発言をしないことでも「有名」です。その中でも作家は吉本隆明さんに批判されると怖れているのかも知れません。先月吉本さんに触れましたが、もうその心配もありませんよ。もうちょっと発言してください。

赤川さんは最後をこうまとめていました。

「過去に学ぶ謙虚さを持ち合わせない人間に未来を託するのは、地図もガイドもなく初めての山に登るのと同じ。一つ違うのは、遭難するとき、他のすべての人々を道連れにするということである。」

僕も今までに何度か同じことを書いていますが、やはり作家はうまいこと書きますね。校長さんの「自分の価値観はない」という言葉は地図もガイドもなく初めて教育という山に登ることを明らかにしています。子どもたちを遭難させないようにくれぐれもお願いします。

校長さんの反論である「自分の価値観」とは無関係というのは、殺人犯であると確信していても、依頼者が否認していれば無罪を主張しなければならない弁護士らしいです。言い方を変えれば教育者の言葉ではないです。自分の価値観で判断するというのは軍隊でも限定付で許されることでしょう。市民を撃てと言われて何も考えずに実行する兵士なんてどこの国民が許すでしょうか。

戦争の世代は自分で考えることが許されず、お上に従っておびただしい犠牲を払いました。戦争指導者たちでさえも多くが自分の思考を停止していたのです。その結果が敗戦だったはずです。

戦後、それは教育現場だけでなく、自分で考えて行動するという反省が社会全体にありました。そんな反省があっても相変わらず公務員はマニュアルどおりで融通が利かず、「お役所仕事」と市民はずっと迷惑顔で軽侮してきたはずでした。

また個人の思考を停止して、パブロフの犬のような条件反射の教育に戻るための改革なのでしょうか。そんな人間が維新の会が目指すような国際社会で活躍できるような人材になると本気で考えているのでしょうか。他者を理解しようとしない姿勢はだれの共感を得ることもありません。

校長さんの思考法が弁護士のそれであるのと同様に、橋下さんもやはり弁護士のやり方です。相手の意見を排除し、裁判員(市民)を言葉で挑発して味方に付け、自分の主張を押し通すのです。これは政治家のやることではありません。

井の中の蛙大海を知らず。大阪湾だけが海ではありません。

形とこころ

学校で教えられることは日本人の文化だけではなく、人類の文化遺産といっていいものです。文化とは価値の体系そのものです。それを教えるのが学校なのでしょう。国旗を愛しなさい、国歌を歌いなさいというのも、まさに価値観によるものです。

そもそも自分の価値観をまったく入れずに行動するなんてことは普通の人間にできることではありません。マスコミもすかさず、あなたは上司の命令は絶対であるという価値観で行動したのではないですかと、ツッコミを入れてほしいものです。

ところが、彼の上司である教育長は口元チェックに不快感を表し、橋下市長はその教育長を叱るという事態に発展しました。まるで上方漫才です......(^_^) 漫才なら二人でやってくれと思ったのか、教育長は辞任してしまいました。

反論しない人はポコポコ叩くけれど、反論する人にはツッコミを入れることもできずにやり込められるマスコミはあまりにふがいない。マスコミがしっかりしていれば、バカな電信技師がこんな隅っこでぼやかずに済むのです.......(^^ゞ

国歌を尊重するということと、歌うことは別ものです。日本人のほとんど全部は欧米のように家族に対して「愛している」と言葉で伝えたりしません。だけどきっと多くの日本人は家族を愛しているのでしょう。

それが日本人の慎みと恥じらいの文化です。「君が代」が他国のように愛国心を鼓舞したり戦意を高揚させるような勇ましいものではなくて、口をわずかに開いてぼそぼそと歌うのがふさわしそうなのも、たぶんその反映ではないでしょうか。

妻や夫に愛していると言えない人が国を愛しているなんて言えますかいな......(^_^) もしそれが言えるとしたら本気じゃないからです。形だけのこころにない言葉です。

橋下さんは教育は強制だと言っています。確かに教育とは今の大人たちの価値判断に基づいて、人類の文化遺産を次の世代に受け継がせるという意味で強制的な側面を持っていると思います。しかし、教育の役割はそれだけではなく、そこには発見もあれば創造もあり、人としての共感もあります。教育は上から与えるということの前に、子どもを理解するところから始まるものではないでしょうか。

維新の会から伝わってくるものには子どもたちを見つめる視線が感じられません。

大阪維新の会は、まるで維持の会なのかと思えるくらい古くさい教育基本条例案で、「国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てる」と掲げています。そのために「国旗・国歌」が大事なのだという、昔からの文科省(文部省)の言い分と同じです。その仮説が間違っていることは昨年の6月に「こだま」で書きました。

『私の仕事』 緒方貞子著 緒方貞子さんはだれもが認める国際人だと思いますが、13年前のインタビューで「私は、自分がどこの国の人間かと意識したことはない。日本と外国との『架け橋』になっているとも思わない。みんな国際人だ。そんな人間的な連帯感を育てていきたい」と語ったそうです。当時は国連難民高等弁務官だったと思います。

こういう独立した精神を持った方はどこかに帰属しなければ自分を支えられない弱さがないので、やはり言うことがひと味違います。僕もなかなか日本人から離れられない弱い人間です。そして、虎の威を借る狐のように、愛国心、愛国心と叫ぶ人たちはその自分の精神の脆弱さを自覚しているでしょうか。憂国の志士の顔をして、何をそんなに怖れているんだろうと時々不思議になります。

緒方貞子さんは1927年生まれです。僕たちはいつか緒方さんに追いつけるのでしょうか。彼女が出身国を問わず多くの人々から一目置かれ、尊敬されていることは記す必要もないでしょう。

文科省と一体であった自民党が与党であった時に、緒方さんを外務大臣に起用しようという声がありました。国連難民高等弁務官の仕事を終え、アフガニスタン支援総理特別代表の職にあった頃だと思います。愛国心さえ叫んでいれば国益を守れるみたいな幼稚な思想を一部に持つ自民党でさえ、彼女の見識の高さと人柄に魅力を感じていたのです。

好いとこ取り

先月に民主主義はダメな制度だと書きましたが、だからやめちまえ!と言いたいわけではありません。中国政治を分析した『チャイナ・ナイン』(遠藤誉著)の中にも「民主主義の良さは、日本ではどこで発揮されているのだろうかと疑問を抱かずにはいられない」と記されているようで、社会学の専門家でもそう思うのかと暗澹(あんたん)たる気分。

今のところ、これよりマシなのがないからしかたない。でも民主主義とは多数決でものごとを決めることだと考えている人が多くなっている気がします。たぶん選挙制度のせいなんでしょう。

普段は少数意見を大事にしろと書いている朝日新聞も、増税は民主党として決めたことなんだから小沢グループもグダグダ言わずに守れと盛んに言っています。要するに民主主義というルールは自分の主張に合わせて「好いとこ取り」ルールが採用されるようなのです。

自分が多数派に属すれば多数決の原理に従えと言い、少数派に属すれば少数派の権利を守れと言うだけのこと。そこには高邁な思想などどこにもありません。これは朝日だけでなく、多かれ少なかれ誰もがそういう行動をします。

「口元チェック」なんて馬鹿げているとたぶん多くの国民は思うでしょう。しかし、反対する人の大勢は沈黙している一方で、賛成する人は声が大きいから少しずつ斉唱の強制が進むと思います。すでに学校では保護者が教員の口元を監視して、教委に通知するというところも出てきました。

これは少数意見も排除しない民主主義の本来の形ではあります。デモ行進して大衆に訴えるというのも同じですね。ところが、その一方で国歌を歌いたくないという少数者の権利は排除されてしまうことになります。同じ少数者でありながら、保護されるものと排除されるものとの違いはどこにあるのでしょうか。

答えはあまりにも簡単です。攻撃的な少数者は保護され、そうでない少数者は排除されます。多数派から見れば、攻撃的な少数者は敬遠し、そうでない少数者は無視するということになるでしょうか。

世界には「吠える犬は噛まない」という諺があちこちにあるそうです。しかし、吠えない犬は無視できるけれど、吠える犬は無視できません。逆らわなければ噛みつかれはしないけれど、うるさいのです......(^_^)

しゃれを言うつもりはありませんが、その最右翼の例が右翼の街宣車です。これが動き出すとみんな負けてしまいます。対抗して街宣車に乗っている人の家に同じようなことをして抗議したいところですが、良心が許しません。結局、良心が痛まない者の勝ちとなります。

アウンサンスーチー 月初めにミャンマーで補選があり、勝利したNLD党のアウンサンスーチーさんは「民主主義では多数者が少数者の権利を守らなければなりません。他の政党や候補者に嫌がらせしないようにお願いします」と訴えたそうです。

日本の政治家が今さらこんなことを言うことはありませんが、スーチーさんの声に何かしらうらやましい響きを感じてしまうのはほんとうのことです。

多数者が少数者を振り返ろうとしないのが当たり前の民主主義ですが、スーチーさんが語った民主主義の初歩的な考えに異論を唱えることが難しいという建前は残っています。

そこで、こんな民主主義にもうひとつ付け加えてほしいものがあります。それは「民主主義では少数者が他の少数者の権利も守らなければなりません。他の少数者に嫌がらせしないようにお願いします」ということです。

歌いたい人の妨害はしないこと。歌いたくない人の口をこじ開けないこと。自分の心を満足させるために他人の嫌がることをしてはいけないという当たり前のことです。

歌わない人を批判する人たちは公務員をやめろとか言いますが、自分たちとは関係ないと踏んでいるからなんでしょう。かつての自民党は公務員を中心に労働組合のストライキ批判をどんどん強め、今の若者はすでにストライキなんて見たこともありません。しかし、まだやっている公務員たちがいます。

それは野党に転落した自民党です。審議拒否を度々繰り返し、今もまた国会が止まっています。マスコミはストライキと言いませんが、職場放棄はまぎれもなくストライキです。立場が変われば、人は変心するものです。

今の事態は結局、昔からの悪しき伝統である「いじめ」なんだと思います。多数が沈黙しているの(サイレント・マジョリティ)をいいことに少数者が少数者を攻撃しているのです。最近では沈黙する多数もいじめの共犯者であると学校で教育しているところもたくさんあるはずですが、やっぱり教師たちも沈黙しているのか、あきらめの嘆息しか聞こえてきません。

『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』』(植木等・北畠清泰著) それは先月紹介した植木等の『夢を食いつづけた男』に登場していた、戦前・戦中のまだしも良心的な教師の嘆息と同じものです。

戦前を懐かしむご老人はたくさんいますが、戦前も戦中も、戦場も銃後もあらゆるところにいじめがあったことを忘れさせないでください。代々の政治家たちは否定するでしょうが、それは戦場においても将校クラスの地位にいられるような家柄だったからです。

エライ人は威張って当たり前。同じ天皇の赤子同士でさえ、あるいは赤子同士であったからこそ、何かアラを見つけてはいじめていたのですから。そのいじめ根性は戦争にあっては住民や捕虜の虐殺という犯罪を多数生んでしまいました。

戦後に始まった民主主義ですが、このいじめの構図はあからさまではなくなったものの、今もなくなっていません。政治家がいじめを煽っているのが日本の政治の現実です。そして、いじめをなくせないような政治制度はいずれ滅ぶのではないでしょうか。もし、そんな政治制度が存続するとしたらきっと社会が滅ぶのでしょう。

なぜアンネなの?

映画『アンネの追憶』 今月公開された映画『アンネの追憶』の冒頭で、小学生たちを前にアンネの話をする父オットー・フランクにひとりの女の子が質問するシーンがありました。それはどうして人々は残虐に平気だったの?というような疑問でした。知らなかったからか、それとも怖かったからかと? オットーはみんな知っていたと答え、まだその答えを見つけていないと答えました。

こんな悲劇に遭遇することは絶対にないと思っている人もいるかもしれませんが、人間とはそういう状況になったら大きな勇気を出して闘うことなんてできやしません。だから、問題がまだどうでもいいやと思えるぐらいの時に小さな勇気を出して闘いたいものです。

もうひとつの『アンネの日記』 アリソン・レスリー・ゴールド著 先月は人生の運についても触れましたが、この作品の終わりにはアンネの親友であり、同じベルゲン・ベルゼン収容所にいて生き残ったハンナ・ホスラーが、オットーにどうして自分ではなくてアンネが死んだの?と尋ねます。オットーは自分も同じで、なぜ自分でなく、アンネやマルゴーやエーディトだったのかと毎日自問すると答えます。そして、一生答えを探し続けると。
(※アンネ・フランクについては「カムパネルラの切符」の「オードリー・ヘプバーン」のページや「年譜」を参照してください)

天から降ってくるものがだれの上に落ちるのか、それは誰にもわかりません。しかし、人の上に不幸を落とそうとする現場はだれもが目撃することになります。僕たちはその不幸の犠牲になるのか。あるいは沈黙して顔を伏せるのか。それとも振り上げられた手を止めようとするのか。あるいはまた振り上げられた手が自分のものであることに気づくのか。

「なぜアンネなの?」という問いは当事者であったハンナやオットーにとって至極もっともな疑問です。しかし、そんな歴史を学んだ僕たちは「なぜアンネなの?」という問いよりも「アンネはなぜ?」という問いに応える責任のようなものがあると思います。

歴史はたんに過去のことではなく、未来への選択肢だと思えます。その選択がたとえたった一人の一時の決断であれ、歴史という耐震診断に耐えられるものであるかどうか、なみだ一滴分ぐらいの勇気で考えてみたいと思うのです。

2012.04

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