プリオシン海岸  プリオシン通信

当たらないように撃て

恥ずかしさを知る


堕ちた気球
気球の着地


『歌う女、歌わない女』 昔、フランス映画に『歌う女、歌わない女』というのがありました。その映画の内容とは別に関係ないのですけれど、大阪ではもうこんなタイトルの映画は上映できないでしょうね......(^_^)

卒業式で校長先生や教頭先生が卒業生の晴れ姿をよそに職員が国歌を歌っているか口元をチェックするとは、教育管理職もここまで壊れてしまったかと暗然とします。たぶん、まだ学校までは壊れていないでしょう。

実際、この校長は民間からの校長で、橋下市長の友人の弁護士だということ。さすがに現場出身の校長はまだ『ハレンチ学園』のごとき状況まで堕ちてはいなかったということでしょうか。

『ハレンチ学園』永井豪著  しかし、大阪市の思想調査まがいの職員アンケート担当弁護士といい、弁護士はいつの間にか権力のとりこになってしまったかのよう。たかが歌ごときに、そこまで血眼になって検閲するというのは、病膏肓(やまいこうこう)に入るというべきです。休職してじっくりお休みください。

愛国心だの、政治主導だの、個人的な信条だのという前の話です。ものさしを手にして校門でスカート丈を計ることよりもはるかに人として品性下劣としか言いようがありません。そして、これを公務員として当然の職務と考えてしまう高校生もすでにたくさんいるんでしょう。

戦前の特高警察がやったことと同じことなんですが、こんなことを書くと、バカじゃないの?と反応が戻ってくるぐらい、彼らには結びつかないことでしょう。

(2013年3月追記:この記事を書いてほぼ1年が経過しました。大阪市が職員に実施した政治活動や組合活動への関与を問う記名アンケートは、大阪府労働委員会が3月25日に労働組合法に違反すると認定しました。それを受けて、橋下市長は「今回の不当介入は申し訳なく、労組側に謝罪したい」と25日朝に述べたそうです。ところが、労組側が記者会見でコメントを出すと、夜には委員会に再審査を申し立てると考えを改めたそうです。朝令暮改の変則版となっています。)

植木徹誠という人

戸井十月著 『植木等伝 わかっちゃいるけど、やめられない!』 俳優の植木等は名古屋の生まれですが、幼くして三重県の郡のお寺にやってきました。彼のイメージは名古屋の方が強いですが、父親はもともと三重県人で、らしからぬ気骨のある人でした......(^_^) ずっと以前に、「たこ八郎」のページですこし触れていますが、もう少し紹介します。

『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』』(植木等・北畠清泰著) 植木徹誠(てつじょう 1895年-1978年)を知ったのは、1984年に出版された左の本『夢を食いつづけた男』を読んだからです。絶版になることなく、現在も朝日文庫から出ています。単行本の表紙には植木等の名前しか出ていませんが、中には著者として北畠清泰の名前もあります。

芸能人の本は一般的にはゴーストライターが書き名前は出ませんが、社会運動が詳しく調べられて記されているからでもあるのでしょうか、二人の共著になっています。社会の底辺に寄り添って生きた人間は歴史の谷間に消えていくのが常ですから、身内のことで遠慮もあったでしょうに、きちんと本にしてくれたのはうれしいことです。

ネット上では検索して一部のみを読むことで偏見を助長したり、誤解を生んだりする危惧が残るので歴史として知られている地名以外は記しません。中には同和地区探しという差別心から検索してこのページにたどり着いた方もいるでしょう。

三重県ではどこにでも同和地区があります。東日本では少ないですが、西日本にはどこにでも同和地区があります。東日本に少ないのは田舎だったからです......(^_^) ただの部落も、被差別部落も隣り合って生きてきました。それは社会の差別構造を温存するためにも使われました。

さて、徹誠さんは伊勢生まれなのですが、いったいどこからこんな型破りな男が生まれてきたのかいまだに不思議です。伊勢の人は神宮だけでなく、この男を生んだことを自慢していいです。地元はいろんな利害が絡むので、彼の評価を含めてそれが難しいことも理解できますが。

御木本時代の徹之助 徹誠さんの俗名は徹之助です。1895年、伊勢の大湊(おおみなと)で11人きょうだいの5番目、次男として生まれました。家業は回船業・材木商なので、うちのコンテンツのひとつ「カムパネルラの切符」で登場する人物たちと同様、豊かな家庭だったんでしょう。

まずは真珠王の御木本幸吉の東京工場で働き始めます。時代は大正デモクラシーで、それが工場にも強く影響を及ぼし、新しい思想や宗教で議論の絶えない職場だったそうです。その中でも彼は「熱血漢」と呼ばれました。左が当時の写真です。後に名乗ることになる「徹誠」という名前どおりの容貌です。誠に徹す。

今では考えられないことですが、のちにこの工場はキリスト教精神で運営されることになったぐらいです。ここで徹之助さんはキリスト教と社会主義思想の洗礼を受けます。キリスト教については比喩で言っているのではなく、キリスト教徒になりました。徳田球一や大杉栄、伊藤野枝、そして辻潤などとも交流があったようです。そして、思想研究だけでなく、労働運動にも没入していきます。

大杉栄と伊藤野枝 徳田球一は共産党員で戦後はレッドパージに遭い、中国へ亡命しています。大杉栄はアナキストです。伊藤野枝は婦人解放で活躍しました。右の画像です。しかし、この二人とも関東大震災時に憲兵により虐殺されることになります。辻潤はダダイストです。かつて自分の妻であった野枝の死後も生き延びますが、精神の病を得て放浪生活が始まり、最期は餓死でした。

みんな一筋縄ではいかない人物ばかりで、徹之助さんもいつ死んでいても不思議ではない生活だったのではないかと思います。

三重県の西光寺 関東大震災で工場が閉鎖になった後、各地を転々とするなか過労と栄養失調で病となります。植木等はこの時代に名古屋で生まれています。そして、妻の実家である三重県の西光寺(右画像)へ身を寄せることになります。

ここで部落問題にすこしでも関心のある人は「西光寺」とは聞き覚えのある寺だと思うことでしょう。まあ、「西方浄土」由来の名称でしょうから、全国各地にある寺名だと思いますが、奈良県の御所(ごせ)市にも西光寺があります。「水平社宣言」を起草した西光万吉の生家でもある寺です。

ここまで書けば歴史の教科書の範囲に入ってくるのではないでしょうか。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」ですね。西光万吉の思想には共感できる部分と出来ない部分が半々ですが、奈良のお寺が好きな僕は20代の時にこのお寺も参拝しました。もちろん観光するような寺ではありません。小さな村の小さなお寺です。1748年の建立時は檀家38軒だったそうです。差別と貧困の中、血のにじむような思いで建てたんでしょうね。

部落差別と仏教

さて、三重県の西光寺で植木一家は居候生活をすることになりました。そして、あちこちと出掛ける中で徹之助さんは部落差別の現実を知っていきます。ここから部落差別との闘いを始めるわけですが、結局は思想犯として特高警察に検挙されてしまいます。

若き日の小幡徳月 この後も含めて等さん家族はひどい目に遭います。しかし、西光寺の住職である小幡徳月さんは徹之助さんに一言も文句を言わなかったそうです。むしろ、檀家には部落差別の戒めを説いていたそうです。

お坊さんなら当然だろうと思う方もいるかもしれません。その通りですが、現実はそうではありませんでした。1979年、世界宗教者世界会議で全日本仏教会理事長・曹洞宗宗務総長が日本の部落差別を隠すために「日本に部落差別はない」と否定して、宗教者がいかに部落差別を無視してきたか露呈しました。

まだ30年少し前のことです。ご存じのとおり、どの宗派も同じような実態で差別を放置するだけでなく、死者を差別していたことが明らかになっていきます。その後曹洞宗は率先して部落問題に取り組むことになります。

曹洞宗公式サイト 曹洞宗と人権問題
http://www.sotozen-net.or.jp/activity/jinken/torikumi

現在でも公式サイトの1ページにこう記しているので、あの時の反省は今も忘れていないようです。

西光万吉は水平社創立の1922年にこう言いました。「水平社の運動を起こさねばならぬ事になったのを恐ろしく思っている。もし、本願寺が親鸞の心を以て差別撤廃に尽くしていたならば、かかる必要はないのである」

日本で一番信者が多いのは浄土真宗です。寺の数も最多で、万吉さんのお寺もこの宗派です。本願寺(西本願寺)は浄土真宗本願寺派の本山です。

あるいは、またこうも言いました。「(親鸞の)御開山御在世の時から七百年にも近い今日、依然としてこれ(差別)があるということは、(中略)色衣や金襴の袈裟を着飾って念仏称名を売買する人達の同行(信仰のグループ)であるからではないでしょうか」
※( )は管理人の註です。

2009年の通信で書いた「ホトケの耳に念仏」と同じような批判をしています。万吉さんの批判からまもなく百年経とうとしていますが、ひどい差別を除いてお寺は基本的には何も変わっていないようです。こうした事実は本の「あとがき」で記されています。

「何も変わっていない」と言うのは言い過ぎかもしれないので補足します。昨年は親鸞聖人の750回大遠忌法要の年だったこともあり、浄土真宗本願寺派・真宗大谷派は年末からの人権週間に「親鸞と被差別民衆」という展示を行いました。もっとも主催は大阪人権博物館でした。

そして、「色衣や金襴の袈裟を着飾って念仏称名を売買する」葬式仏教という点においては「変わった」とはなかなか思えません。今でもお布施の多寡(たか)で戒名の尊称や法要する僧の数などを決めているわけですから、「地獄の沙汰も金次第」という閻魔さまと見分けがつきません。かつて批判された「差別戒名」と五十歩百歩だと思えます。

仏教語であった差別(しゃべつ)がすっかり差別(さべつ)として使われるようになってしまったことについて、そろそろ真剣に向き合ってほしいものです。

さて、義父となるこのお坊さん小幡徳月はこういう立派な人だったので、徹之助さんはキリスト教徒でありながら親鸞へ帰依(きえ)し、名古屋の本願寺別院で修行した後に得度(とくど)していよいよ「徹誠」となります。

これを知った徹誠さんの父である和三郎さんは、実父の許しもなく坊主にしたと怒鳴り込んで来たそうです。ところが、徳月さんが僧侶のなんたるかを説明するとお礼を言って帰られたそうです。

跡取りではない次男のことで怒鳴り込んでくるというのはよほど愛情深い親だったのでしょう。腑に落ちて「有り難い」と言って帰る父親、和三郎さんもなかなかの人物です。二人ともに葬式や法事の助手としてのお坊さんではなく、本当のお坊さんを思い描いたということでしょう。

常念寺 この後、徳月さんは豊かな境遇の寺とそうでない寺の二つの候補を徹誠さんに提示します。徹誠さんなら即決ですよね。彼は山奥で檀家が広い範囲に散らばっているお寺を選びます。

徹誠なら即決とは言うものの、徳月さんにとって徹誠の妻は自分の娘であるわけで、なかなかこんな提示はできません。

こうして徹誠は無住で崩れかけた常念寺の住職となりました。檀家の法事に行くにも山を越え谷を越えて泊まりがけも珍しくなかったそうです。このお寺は徹誠さんを最後に廃寺になっています。

僧侶になってからも相手にするのは死人だけでなくむしろ生きている人間ですから、檀家の相談に乗ったり、政治活動をしたり、よそへ出掛けていって社会活動を続けたりしました。そして、やはり警察からの監視や妨害に遭うことになります。しかし、ここにいたのは4、5年で、朝熊へ転居します。

反差別と平和への闘い

転居は後に朝熊(あさま)闘争と呼ばれる活動への参加を請われたためです。熱血漢の徹誠さんは檀家にきちんと説明することもできずに三宝寺へと移り、ここの住職となります。ここは被差別部落のお寺です。

朝熊では共同の財産であった山林をめぐって南部が北部の権利を認めずに占有しようとする事態が生じていました。官憲の力に負けて劣勢になっていたところに徹誠さんが呼ばれたわけです。ここへ移ってからは等さんの妹も小学校で教師から差別されたそうです。

徹誠さんは子どもからお年寄りまで大変人気があったようです。堅物ではなく、若い時には義太夫語りをめざしていた人ですから。その一方で全国水平社、全国農民組合、労働組合などと連携しながら、山林の問題だけでなく、北部住民の権利を認めさせる活動を展開していきます。

時代は戦争前夜でした。徹誠さんは戦争は集団殺人だ、生きて帰って来い、なるべく相手も殺すな、などと言うので検挙。獄から出てくるとまたこれの繰り返しです。この間、小学生の等さんは父に代わって檀家を回り、寺を支えることになります。妹の担任とは異なり、等さんの担任は「君のお父さんは立派な人だ」と言ってくれたそうです。

長くなるので詳細は本で読んでください。結果だけ記します。国会で取り上げられるほどに運動は広まったのですが、結局はまた官憲の弾圧を受け、合計40名ほどが検挙されることになりました。徹誠さんは治安維持法違反に問われ、合計3年間、拷問を受けながら獄に下ることになります。

こんな徹誠さんですが、この人にも弱点がありました。内実はかかあ天下だったようですが、妻に暴力を振るったそうです。この時代の男の意識に捕らわれていた側面も見つめなければなりません。

出征する犬 そして、獄を出た頃にはみんなが好戦気分に取り憑かれており、植木一家は朝熊を追われることになります。等さんはそのわだかまりを抱えて40年後に朝熊を訪れ、地元の人と交流する中で謝罪も受け、ようやくわだかまりを解き放つことができたのでした。

心地よさと排斥

先月自民党が憲法改正案を公表しました。憲法は国家権力の行使を制限して国民に権利の保障をするものという基本を法律の専門家から指摘されながらも、いっこう意に介さず国民が守らなければならない義務を書きたがるのは代々国会議員の家柄だからしかたがないと思います。生まれた時から権力側にいるんですから。

自民党国会議員の4割が世襲と言われていますが、中枢に近づけば近づくほど世襲率が上がっていきます。麻生内閣の大臣は世襲率7割超えでした。

憲法で国民の義務を書き連ねなくても、津波が来たら自分の命よりも義務を優先する国民です。その一方で、津波が来ても原発から放射能が漏れても政争をやめない政治家たちがいます。自分たちの責任感のなさを基準にして国民を判断してもらっても困るというものです。

憲法草案には国旗・国歌の尊重義務も記されました。この種の規制はどんどん先鋭化するのが我が国の悪癖。昔には学校の火事で御真影を焼失させてしまい自殺した校長がいました。国旗に敬礼しなかったとか、お尻を向けたとか、汚したとか、風呂敷にしたとか言って検挙されたくありません。国歌を編曲して楽しむどころか、町民運動会でも口元を調べられることになりかねません。

政官界生まれではないのに、政治家になったとたん権力に従わせようとする人になってしまうぐらい、権力というのは悪魔の魅力があるようです。

国旗も国歌もすべて踏み絵です。現状を見てそう思うわけではなく、基本的に国旗も国歌もそういうものだと思っています。なぜなら、本来ならば世界に対して国を名乗る役割のものなのに、いつも内側に規制が働くからです。

国旗や国歌を提示して、それらに対する態度を見れば国民の国家幻想への信仰度が判定できるのです。そして国民は国家と権力を厳密に腑分けすることができませんから、権力者の思う壺にはまります。

政治家が国旗・国家に拘泥してしまう理由はそこにあると思います。民間からみれば国旗や国歌などなんの関係もないことです。学校や役所は特殊地帯になってしまっています。そこが問題だから改革したいはずなのに。

オウム真理教の信者たちが教祖の写真をみんなで敬い、信者で一体感を共有することのうれしさというか感激は、国旗の下で国歌をうたう嬉しさと何も違いはありません。幻想を共有する仲間意識はとても居心地のいいものです。

心地よい場を侵害されれば、この仲間意識は外部の者に対する攻撃へと転化することはたやすいことです。少年ギャング団みたいなものです。国家は国家幻想よりも強い共同幻想が生まれないように監視して取り締まります。歴史を振り返れば、その事例は枚挙にいとまなしです。

吉本隆明著『共同幻想論』 そういえばつい先日、吉本隆明さんがお亡くなりになりましたね。「共同幻想」は彼が使い出した言葉です。

普段は政治家のことをクソミソにけなしながらも、自分が不満に思っている相手を政治家が攻撃してくれるとすぐに乗っかってしまう市民は良い政治を期待しても幻想に終わることでしょう。改革されるべき一番の相手は政治家です。

さっそく維新の会議員たちの利権要求をも含む横暴な振る舞いがニュースになっていましたが、あにはからんやです。勝ち馬に乗る。昔も今もこれが政治家の一番の行動規範です。残念ながらその思考を支えているのは市民であることも事実です。民主主義は「改革」とはなじみません。同じ市民であっても利害が衝突するのですから。

遠藤周作著『沈黙』 この地に権力が生まれた時から、民を分断して支配するのは為政者の常套手段です。民は何千年も昔からだまされ続けています。国旗・国歌も衝突するから、政治家は市民と公務員の分断に利用します。歌いたくない人が、国歌をうたえと脅迫されてうたったとしてもそれは無効です。何も恥じることはありません。遠藤周作の『沈黙』は沈黙せずに今もそう語っています。

仕事を失って裁判に訴えるのもひとつの闘いですが、子どもたちに弾が当たらないように撃つのも小市民のひとつの闘いです。

教師たちは大和魂と鉄拳で教え子たちを競って戦場へと送り込んだのに、敗戦でアメリカの民主主義にころっと寝返る姿を見て、当時の多くの学生は幻滅しました。あの教師たちの勇ましい言葉は戦後ずっと侮蔑されることになりました。

いつの日にか、のどチンコをふるわせてきちんと歌っているかとのぞき込もうとする、わいせつな人が侮蔑される日が来ることを信じます。橋下さんみたいに下品な表現ですみません。わいせつも時と場合によっては好きですけどね.......(^^ゞ こんなことを書いて検挙される日が来ませんように。

橋下さんも国歌でひどい目に遭う運のもとに生まれていたら、君が代訴訟に率先して取り組む弁護士になっていたのではないでしょうか。そういう熱情だけは彼に感じますね。

彼は同和地区で育ったと公言しています。そして、2008年の大阪府議会では、共産党議員の部落解放同盟への「暴力と利権をほしいままにし、部落差別解消にブレーキをかけた」との批判に対して、「一面的な側面をとらえることなく、きちんと、解放同盟の活動を真摯に見ていただきたく思います」と反論しました。

また、別の共産党議員の「結婚差別も克服、解消されていっている」や「同和行政は逆差別になっている」という批判に対しては、「いまの質問は残念でなりません。そのような数字や机上の論にしばられることなく、現場の実態を見極めて、政治をやっていきたい」という、偏見にとらわれない適切な返答をしています。

橋下氏の差別的な行政手腕を批判する共産党とは逆さまの対立構造になっているところが、立場を越えて相手の靴を履くことの難しさを教えてもくれていますね。

それにしても教師たちが組織的に何も支援活動していないように見えるのが残念です。公務員とはどんなに時代が変わっても、やはり権力者の公僕であるということでしょうか。

教育には人を尊重するという根本原理があるように思います。大阪の人はそれを踏まえることもなく、どんな秀才を育てようとするのでしょうか。国歌を歌わない人は排除するという人になることは間違いなさそうです。

努力と運

トーマス・エジソン トーマス・エジソンは「「天才は1%のひらめきと99%の汗 'Genius is one percent inspiration and 99 percent perspiration.' 」と語ったらしいです。この発明王は電球の発明者ではないのにそう思われてしまうぐらい有名になり、彼の言葉は努力の大切さを説くときの定番の引用になりました。

成功者が努力したから今があるというのもよく耳にします。そもそも努力もせずに大金持ちになったら、成功したとは言いません。努力するなんてだれでも当たり前のことです。人生とはほとんどが運であって、努力の割合は1%もないんじゃないか。もちろん、そうであったとしても努力の価値が下がるわけではありません。

NHK:マイケル・サンデル究極の選択「許せる格差 許せない格差」 先日、NHKのTV番組でマイケル・サンデルの究極の選択を見ました。テーマは正義で、タイトルは「許せる格差 許せない格差」でした。成功は運か努力かと問いが投げかけられていましたが、サンデルも努力よりも運の方が比重は高いと考えているようでした。

例えばインドの貧民街の最低カーストに生まれていたら、努力は報われるのか。昔の被差別部落に生まれていたら、どれだけの人が立身出世できたのか。貧困家庭に生まれ、学業を続けることができなかったら? 親の愛情を受けることもなく、むしろ虐待を受けて育ったら? あるいは、努力しようという気持ちが起こらない環境で育ったら、それは努力しなかった者だけの責任なのでしょうか。

ちなみに、アメリカの資産の4割は人口の1%が所有しています。日本では2割を1%の人で所有しています。1時間働いて800円稼ぐ人がいる一方で、同じく1時間働いて800万円稼ぐ人がいるということです。努力の差だけでこんなに大差がつくはずもありません。

部落差別に加担する人が差別する根拠はそこに生まれなかったという運だけです。障碍者を差別する人の根拠も今のところ障碍を持っていないという運だけです。

努力は民にまかせてください。政治家が為すべきことは努力を競わせるよりも努力が報われる社会を築くことではないのでしょうか。運だけで人生が左右されないような社会。だれもが人として尊重される社会です。

東日本大震災の被災地や長年軍隊の荷重を押しつけられている沖縄の悲しみや怒りの根本は、津波に遭ったとか日本の辺境に位置づけられた悲運ではなく、人として尊重されていないからではないでしょうか。

東日本大震災で積み上がった瓦礫 東日本大震災から1年が経ち、瓦礫処理がようやく全国的に少し動き出しました。三重県でも動きが出てきつつあります。検査の結果放射線がほとんど検出されない瓦礫にまで不安を訴える市民を自治体はそれぞれに説得してほしいと思います。その心配は行き過ぎると偏見となり、差別の種を播くことになります。

恥ずかしさ

『夢を食いつづけた男』の終わり近くにこんなエピソードが記されています。

植木徹誠・いさほ夫妻 等さんが徹誠さんに卓見を披露しようとして熱弁をふるったら、「そりゃ、食える人間の発言だ。食えない人間は、そんなこと、言うはずがない」と言われたそうです。その時、等さんは「自分の身内に走った恥ずかしさは、今も、はっきり覚えている」と記しています。

この父ありて、この子あり。恵まれていない人のことを考えに入れずに得意になって話してしまったという、この恥ずかしさ。恥じるということはほんとうはこういう時のためにあるものです。そしてこの恥ずかしさは大災害が起こっても、暴動や略奪が起こらない日本の社会を維持している大きな理由ではないでしょうか。

世界との経済競争に勝ってそこそこ豊かな生活を維持できたとしても、生真面目に生きる人をバカにしたり、弱っている人を痛めつけたり、卑怯な振る舞いをしたりすることを恥ずかしいと思わない人が増えていたら、こんなはずではなかった、こころさびしいと嘆くことになるでしょう。

民主主義はダメな制度です。改革、改革と性急なことをやってもうまくいきやしません。とぼとぼゆっくりと、しかし着実に歩みを進めていくことが世の中を変える道です。

今日も福井県の原子力委員たちが電力会社側から研究費をもらっていたという報道がありました。みんな判断に影響を受けないとコメントしていました。もし本当にそう思っているなら人の心を知らない人たちです。寄付した側は委員たちを飼い犬と思っているはずなのに、噛まれたら怒るでしょう。金を受け取っておいて逆らうのは正義じゃないと僕でも怒ります......(^_^)

こういうことが批判されるようになっただけでもすこし社会正義は前進したと言えるのかもしれません。正義そのものに疑問を抱くことも大事なことですが、正義とは何かと問うことも同じぐらい大事なことだと思います。

国民人気がダントツだった小泉さんが無茶な解散までやって唐突な郵政改革を断行しましたが、今や元の鞘に収まりつつあります。僕の見立てはほぼ間違いありませんでしたが、あの政権の副産物である負の遺産を国民はまだ背負ったままです。

民主党政権に対する僕の見立てはすっかり外れました。たいへんご迷惑をおかけしております.......(^^ゞ お陰でいろいろと勉強になりました。社会を良くするにはぼちぼちと民度をあげていくことなのだと思うようになりました。性急な改革は挫折するか、代価を払わされるかのどちらかです。とうとう僕も保守になったのかもしれません。もっとも、保守だと自認している人たちの多くは実は保守ではないとも思っていますが。

恋愛になぞらえては外れるかもしれませんが、熱があるうちはうまくいくと思えても、熱が冷めたらどうしてこんなバカなことをしたものかと思うものです。結婚したい人は冷めるまで待ってくださいね......(^_^)

『ニッポン無責任時代』 維新旋風が吹いた後、打ち上げられた気球はうまく着地できるでしょうか。たぶん僕たちはその墜落の後始末をしなければならないでしょう。しかし、植木「等」という名前の由来だけは決して忘れてほしくないと思います。

彼の出世作である「無責任シリーズ」の第1作『ニッポン無責任時代』(1962年)での役名は「平均(たいらひとし)」。息子も徹底しています。 劇中で「たいらひとし、腐っても鯛」とダジャレ言ってます。そこはやっぱり「腐ってもタイらー」と言ってほしかったです.......(^^ゞ

2012.03

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