プリオシン海岸  プリオシン通信

銀河鉄道の桟橋

素人の出番


冬が融ける
冬が融ける



 1.  ジョバンニ 2.  比べっこ『銀鉄の夜』 3.  仮名遣い
 4.  角川文庫と新潮文庫 5.  『銀鉄の夜』の改稿表 6.  銀河鉄道の桟橋


ジョバンニ

先月、イタリアのトスカーナ州西岸で客船コスタ・コンコルディアが座礁して多数の死傷者が出ました。小さな船の船長ではなく巨大な客船の船長ですから、その責任感も巨大であるはずです。でも僕たちが見たのは、船長はだれでも最後まで船に残るという伝説に根拠がないという、当たり前のことでした。

コスタ・コンコルディアの座礁      ジリオ島

座礁した海の近くには島民千五百人のジリオ島があり、深夜から四千人の避難者が上陸したそうです。島民総出で援助したというニュースは死者の多さと船長の振る舞いで冷え切った心を溶かしてくれました。

左上の島がエルバ島で、右下がジリオ島です。イタリア語の綴り Giglio をみると「ジリオ」ではないのでは?と思ってしまいますが、イタリア語の発音に近い日本語読みをするなら「ジリオ」になるようです。ちなみに「ユリ」の意味です。

そして、この座礁事故でだれもが思い出したのは1912年のタイタニック号座礁事故です。今回の事故が契機になって、生存者の親戚がタイタニック号の犠牲者だったことが明らかになりました。ロンドンからアメリカへ移民を夢見てウエイターとして働いていた25歳の青年でした。その名前はジョバンニ。

このニュースを耳にしたたくさんの日本人は、え?と思ったのではないでしょうか。賢治がこんな事実を知っていたなら、『銀河鉄道の夜』の主人公は別の名前になっていたでしょう。物語に登場する家庭教師の青年と同じく、ウェイターの青年にとっても悲劇そのものです。

比べっこ『銀河鉄道の夜』

昨年末からの『銀河鉄道の夜』への取り組みで、いつも苦労するのが原稿の推移です。初期形(第3次稿)と最終形(第4次稿)だけでなく、時には2次稿や1次稿まで遡って見る必要に迫られることがあります。あっちをひっくり返したり、こっちをめくったりと面倒ったらありゃしない。賢治、いいかげんにせい。

何か調べる機会が訪れる度にいつも何とかしたいと思うのですが、そうそう簡単に腰を上げることはできません。

短い話だからたいしたことないと思うところですが、4次稿を原稿用紙換算ソフトで調べてみると115枚になりました。4次稿の元の原稿は78枚半ですが、きちんと清書すると120枚ぐらいはあるということですね。これに3次稿と、1・2次稿の大きな「かけら」を含めると、結局長編の物語になってしまうということです。

森羅情報サービス この面倒さを解消するために、うちのサイトでも早くから紹介している森羅情報サービスが「原稿の変遷」作成に挑まれたのだと思います。昔の小さなモニターでも一望できるようにデザインされていて、よく考えられています。しかも、その作りの精緻さに当時は恐れおののきましたね。どれぐらいの手間がかかっているか考えると気が遠くなりそうでした。

これはとても手が出せるもんじゃないと、長年思い込むには十分な迫力でした。新羅情報サービスにリンクしたのは1999年で、「原稿の変遷」ページも同じ年の公開です。その後たまに検索しても類似ページがヒットしないのは、たぶんみんな同じ思いを味わったからではないでしょうか。

2003年に書籍として「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む」(西田良子編著・創元社)が、ゼミの副産物として発行されました。これは見開き2段組にして4つのスペースを取り、1〜4次稿を並列したものです。こんな感じです。

3次稿1次稿
4次稿2次稿

こんな本が出版されるということはみなさんが苦労している証ですよね。というか、研究者はみんななんらかの工夫をしていて、自分なりに参照表のようなものを作っているのかもしれません。大学のゼミで取り上げるなら、きっと学生たちが協力して何か手作りしているのではないでしょうか。それとも文学系は「便利」とか『効率」とか考えないでしょうか......(^_^)

『銀河鉄道の夜』については常に初期形について言及されているのに、なぜもっと比較参照できるものが現れないのかずっと不思議な気持ちでいます。もうすでにあるからいいではないかと思っている方もいるでしょうが、もっとあってもいいはず。

新羅情報サービスの「原稿の変遷」は人によっては非常に使いやすいでしょうが、僕の散漫な脳みそはめまいがします。緻密さゆえにいろんな色が入り乱れていて、緻密の対義語の僕の脳は見ているとくるくるしてくるのです.......(^^ゞ

そして、個人でやる限りは避けられない問題ですが、仮名遣いを主とした入力ミスもあり、全体ではそれなりにありそうです。これはうちの「比べっこ」でも当然出てきます。2回までは見直しましたが、その度にいくつもミスを見つけました。しかし、もう集中力が途切れてやめました。当分見たくない。活用する方の協力を仰ぎます。見つけたら教えてください。

2010年2月の「アバター3D・2D」のページで、誤記がある文章をゆっくり読むと当然間違いに気づくけれど、速読するとちゃんと読めてしまうという話に触れました。この脳の修正力のお陰で、どうしても一人では間違いを正すことができません。そんな言い訳をしておきます.......(^^ゞ

「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む」(西田良子編著・創元社) 一方、「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む」の方はいかにも研究室向けです。本の判型という制限もありますが、単に4つの稿を並べただけで、どこに違いが生じているのか指摘されていませんから、結局読み比べる必要があります。

異なる語句がほぼない章まで延々と同じ文を並べているのは、読者に「間違い探し」をさせる意地悪をしているのかと勘ぐりたくなるほどの律儀さ。カラー印刷でわかりやすくしてくれてもいいのに、やはり普通の専門書扱いと同様なのか単色刷りで、アンダーラインもありません。アンダーラインなら色覚異常のある人でもOKだろうし、なぜ活用しないのか不思議。

単色刷りのために原稿毎にフォントを変えるという不必要な工夫をしているのですが、これが逆に困った事態を招いています。等幅フォントを使用しているのは1行の文字数を揃えるのにいいのですが、「」や句読点などがフォントによって幅が異なるためにその分だけ少しずつ対照する文がずれていきます。結局は等幅フォントがかえって仇になっている始末。

おまけに場面によって段落を揃えたり揃えなかったり中途半端な対応をするために、右のページの1・2次稿と左ページの3・4次稿で違う場面が出てくることもあり、見開きで4つの稿を比較できるはずの本なのに、ページをめくって探さないと比較できないところさえあるのです。これはたぶん編集者の問題でもあるのではないかと思います。

原文のテキストを汚したくないという意識が働いているのか、あるいは自分で勉強して書き込みをしなさいということでしょうか。そしてこれが研究者の限界なのでしょう。しかたがない。素人の出番らしい。

そんないちゃもんをつけつつも、『原稿の変遷』と「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む」というふたつの先達(せんだつ)がなかったら、『比べっこ』はありません。先達に感謝申し上げます。

今はディスプレイの解像度も高まっていることだし、広い領域を使って散漫脳でもわかるようなものを作ることにしました。緻密さも律儀さもありません。おおざっぱです。素人にはそれがいいのです。ほんとうは僕にいいだけ.......(^^ゞ

文章の入力や比較をやりながら思ったことがあります。こんなことを言うと石川九楊先生に叱られそうですが、これも一種の臨書だなということです。やっぱり叱られるな.....m<_ _>m 賢治作品は調べるために該当箇所を見るだけでいつも済ませているので、今まで気がついていなかったことがたくさんありました。賢治の誤字や脱字やうっかりだけでなく、推敲していく思考過程や仮名遣いの揺れなどです。

気づいたことのほとんどはもう忘れてしまいましたが.......(^^ゞ ひとつ、仮名遣いについて書こうかな。

仮名遣い

当時は旧仮名遣い、別名歴史的仮名遣いの時代です。「歴史的仮名遣い」という用語はへんてこな名称だといつも思ってしまいますが、歴史的に言ってこの仮名遣いはそもそも無理があったようで、完全には定着しないまま終わりました。だから、「歴史的に言って無理があった仮名遣い」の略称なのかな......(^_^)

新潮文庫『山椒大夫・高瀬舟』森鴎外著 明治期に学校教育に取り入れられることになりましたが、学校の外ではお構いなしでした。出版関係も含めて、好きに書くというのが民衆の常識だったんですね。おかたい森鴎外なんかは当時の現状に憤っています。森鴎外の晩年はちょうど賢治の教員時代です。賢治は学校の先生もやっていたからそれなりに厳格にやっていたのかと思っていましたが、そうでもありません。

丸谷才一のように作家や学者の中には今でも歴史的仮名遣いを使っている人もいますから、賢治にもなにがしかの考えがあったのかもしれませんが、同じ言葉を書くのにも揺れがあるのでそうでもなさそうです。

例えば、「さいわい」。原作の中ではキーワードになる重要な語です。これが原文テキストの中には「さひはひ」、「さいはひ」、「さいはい」と三通り出てきます。よほど注意していないと気がつかない違いです。こんな違いに気を遣いながら入力するのは現代文の数倍手間がかかります。

じゃあ、現代仮名遣いは定着しているのかと聞かれれば、やはり定着しないまま終わる運命です。発音とは異なる表記はやはり無理があって、たぶん脳みそが抵抗を感じているのでしょう。

「こんにちは」は「こんにちわ」だと信じて疑わない人はたくさんいそうです。昔、ソニーの公式サイトのトップページにも大きく「こんにちわ」と長らく記されていました。

英語も発音と表記は相当混乱していますけれど、たぶん本国の基礎教育現場では悩みの種になっていることと思います。僕が死ぬまでに「こんにちは」は「こんにちわ」に取って代わる可能性が大きい。携帯メールがそれを加速させていますから。

「お」もやっかいですね。「う」か「お」か迷うことは誰でもあることですから。「おおきい」か「おうきい」かそのうちにわからなくなる時が来ます。さっき上で書いた「憤る」のフリガナを書けますか。今わからない人は学校生活を反省してください......(^_^)

角川文庫と新潮文庫

もうひとつ、これは直接原作とは関係のないことで、文庫本のことです。文庫本には第4次稿が収録されているものとばかり思っていましたが、そんなことはありませんでした。長年「銀河鉄道ツアーの概要」ページにはそう記してしまっていたので、訂正しました。いつものことながらいいかげんなことを書いて申し訳なかったです。

『新編 銀河鉄道の夜(新潮文庫) 昨年12月の「カムパネルラとはだれか」を書いた時に、天沢退二郎さんが「草稿を見ると賢治は何度か『カムパネルラ』と『ジョバンニ』を混同ないし混同しかけている」と指摘している注解を確認するために『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)を買いに行きました。古いのには注解がありません。

田舎の本屋でも『銀河鉄道の夜』は2冊も置いてありました。角川書店や他の出版社からも文庫本が出ていますが他はチェックしませんでした。それで今回入力作業をして、矛盾したままで修正が及んでいない箇所に出会って調べてみましたら、文庫本では原文通りでないことがわかったのです。

文庫本という普及版では混乱の元だから修正されたわけですね。新潮では矛盾部分はカットして改変されています。またいいかげんなことを書かないように、このページのために角川文庫を買いに行きました。角川文庫も2冊置いてありました。田舎の本屋に『銀河鉄道の夜』が4冊も置いてあるというのは、やはりこの作品は只者じゃありません。

まずは原文テキストを見てください。

向ふではあの一ばんの姉が小さな妹を自分の胸によりかゝらせて睡らせながら黒い瞳をうっとりと遠くへ投げて何を見るでもなしに考へ込んでゐるのでしたしカムパネルラはまださびしさうにひとり口笛を吹き、二番目の女の子はまるで絹で包んだ苹果のやうな顔いろをしてジョバンニの見る方を見てゐるのでした。

驚きましたが、角川文庫では原文テキストのままになっています。もちろん現代仮名遣いになっていますが、「睡」という漢字もそのままです。底本は新校本全集で、一部表記の変更以外は基本的に第4次稿と考えてよさそうです。新潮文庫は底本を新修全集としており、以下のように改変されています。

(新編新潮文庫)
カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、女の子はまるで絹で包んだ苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。

第2次稿までいた三人姉妹の長女と三女が消えることになるので、第4次稿まで残ったのは「二番目の女の子」です。新潮文庫の「女の子」は「二番目の女の子」のことですから、無理のない修正です。

僕たち世代が少年期に読んだ旧版ではどうかも調べてみました。新潮文庫は1989(平成元)年まで、角川文庫は1996(平成8)年までが旧版で発行されていました。これよりもずっと以前に発行された校本全集で原稿が整理されたので、もっと早く新版が出ても良さそうですが、在庫がはけるのを待っていたのでしょうか。

(旧新潮文庫)
弟を自分の胸によりかからせて眠らせながら黒い瞳をうっとりと遠くへ投げて、何を見るでもなしに考え込んでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、男の子はまるで絹で包んだりんごのような顔いろをしてねむっておりました

(旧角川文庫)
あの姉弟を自分の胸によりかからせて睡らせながら黒い瞳をうっとりと遠くへ投げて何を見るでもなしに考え込んでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、男の子はまるで絹で包んだ苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした

アンダーラインは、両文庫の相違部分です。原文テキストをできるだけ残そうとしてかえって文意を損ねています。目的語も主語も入れ替えてしまう大胆な書き換えです。特に問題なのは席位置を無視していることです。そして、女の子ではなく、男の子が、まるで絹で包んだ苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ている、か、ねむっていることにされていることです。

旧版の角川文庫は持っていませんので、上の引用は青空文庫からです。底本が何なのか調べてみましたら新潮文庫の解説にこんな記述がありました。

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最初の原稿整理者であった森荘已池氏や、賢治の令弟である宮沢清六氏、岩波書店版『宮沢賢治童話全集』編集責任者である堀尾青史氏によって、この新版のような改訂がなされた。
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文中の「新版」とは旧版のことになります。この箇所に限って言えば、出版当時は研究不足でいろんな混乱があって仕方がなかったところもあったのでしょうが、やはりやり過ぎだったと思いますね。しかも、それを長年放置するというのはあまりほめられません。

角川文庫『銀河鉄道の夜』

青空文庫では新潮文庫は新編を、角川文庫は旧版が収録されています。角川文庫については更新を希望したいですね。

どちらかと言えば角川版よりも新潮版の方がいいと思っていた僕ですが、新版は角川の方がいいです。新潮版もずいぶんルビがふってあるのですが、角川版は子どもに対する配慮があり、小学1・2年配当漢字以外のすべての漢字にルビが振ってあります。活字も大きめで年配の方にも親切です。

ただし、角川文庫のカバー絵は月夜になっています。『銀河鉄道の夜』は月夜じゃありません。いくらファンタジーであっても、月明かりには星影が沈んでしまうということぐらいは踏まえておいてほしいものです。賢治は科学的な基本だけは押さえて書いています。

解説は新潮が斉藤文一氏と天沢退二郎氏という賢治文学の権威、いっぽう角川は河合隼雄氏という、賢治にも文学にも造詣が深いユング心理学の権威。文庫の両雄が闘っている感じがあって、これもまさに『銀河鉄道の夜』ならではです。価格は新潮の勝ちです。注釈についてはどちらの文庫も少々不満です。

河合隼雄さんは専門的に言えば門外漢です。しかし、専門家がなめ尽くした後は門外漢が片肘ついて突っつくと意外なものが出てきたりします。河合隼雄さんが賢治や作品についてあれこれ述べていたという事実は知っていますが、この解説を今回初めて読んで拾いものだと思いました。

解説の中で河合さんはよく読まないと誤解される物語だとした後で、『銀河鉄道の夜』に表現された悲しみを「非情の悲しみ」と名付けています。さすが短い言葉でぴしゃと射止める。この言葉でピンとこない方は作品を誤解して読んでいます......(^_^) 書店で立ち読みしてください。

『銀河鉄道の夜』の改稿表

さて、こうした入力作業と平行してやったことがもうひとつあります。原稿の変容過程を一覧表にして、全体を見通す助けにしてもらうための「『銀河鉄道の夜』の改稿表」ページです。半端なままアップしてありますが、徐々に完成させていくつもりです。

こういう一覧表については、全集で作られた推移概念図がいろんな本に孫引きされて掲載されています。昨年末に取り上げたロジャー・パルバース氏の「100分de名著」のテキストでもそれらを元にして簡略化した図が掲載されていました。しかし、基本的にそこにあるのは筆記具とか原稿枚数とかいう物理的なものでしかありません。

物語の内容にまで踏み込むと客観性が失われるので、それを怖れてのことなのかもしれません。あるいは単に表が大きくなりすぎて紙の幅に納まらないせいかもしれません。ブラウザには制限がないこともあり、怖れを知らぬ素人はそれもやってしまいます......(^_^)

『銀河鉄道の夜』の場合いちばん重要な資料はやはり草稿の移り変わりではないかと思いますが、素人は全集をホイホイと買えるわけでもありません。だから素人は徒手空拳でネット上にいいかげんなことを書きます。それはどこぞのサイトの管理人でもあります.......(^^ゞ

それならば、パソコンを捨てて図書館へ行こう。ところが、学生でもないかぎりそこまでするほどに『銀河鉄道の夜』に入れ込んでいる人は少ないでしょう。気になるけれど、気にするほどでもない。それがこの作品の大衆性レベルだと思います。

理系の人とは違って、文学畑の人は概して寛容です。実験ではデータの扱いに少しでも瑕疵(かし)があれば非難されますが、文学ではどんな読み方をしてもそれは間違いではないと大目に見てくれます。文学作品はたしかに発表された時点で作家の手を離れて読者に買い取られ、それをどんな風に扱おうが勝手です。それに反論することは難しい。

しかし、あえて反論すれば商品に用途があるように、最低限守られなければならない基本線があるのではないでしょうか。

たとえば雨に濡れた猫を乾かそうと電子レンジでチンする。電子レンジでどんな調理をしようが勝手ですが、調理用という基本線があって猫乾燥機ではありえません。用途を間違えると猫を殺してしまいます。

同じように文学作品もどんなふうに読んでもいいわけですが、最低限踏まえておかなくてはならない基本線があると思うのです。本で頭をバンバン叩いても内容が頭に入るわけではありません。あれ? そんな話じゃないです。

作家が書き込んだテーマや文意から大きく逸れて理解したら、それはラインを踏み外すということです。『銀河鉄道の夜』を読んだつもりでいても、実はそれはもう『銀河鉄道の夜』ではなくなっていたということが起こりえます。実際、この作品の評論本にもそうなってしまっているものがあります。

アニメ『銀河鉄道の夜』 『銀河鉄道の夜』は誰もがタイトルぐらいは知っている大衆性がある割にはほとんどみんなが誤解している作品です。出版する側でさえ、カバー絵に月夜を描いてしまうぐらいですから。

僕も間違いなく誤解をしています。誤解の咎(とが)の半分は賢治にありますが、完成品でないものを勝手に読んでいるので賢治をあまり責めることもできません。だから読む方が作品に近づくしかありません。この作品が好きだという人が「猫たちの物語」のままでとどまってしまうのは、透明ではない悲しみです。

すこしでもきちんと読んでみようという機会が増えれば、きっとそこから新しくて面白い読みを提示してくれる素人たちも現れてくることでしょう。素人たちが乗船しやすい『銀河鉄道の夜』の桟橋として、「比べっこ『銀河鉄道の夜』」が活用されたらうれしく思います。

銀河鉄道への桟橋

アニメ『グスコーブドリの伝記』から  今夏には『グスコーブドリの伝記』のアニメが公開予定です。天沢退二郎監修で、やはり杉井ギサブローとますむらひろしコンビです。宮崎駿さんは手を出しませんね。

「コクリコ坂から」の挿入歌「紺色のうねり」の歌詞は賢治の「生徒諸君に寄せる」が元なんだそうですが、トトロにも「「どんぐりと山猫」の影響があるらしい。彼が手を出さないのは「作家」としての矜持(きょうじ)があるのかもしれませんね。そして、日本のアニメに国籍不明のものが多いのは何の影響なのでしょうか。

これからも『銀河鉄道の夜』への手がかりになるようなものを思いついたら追加していきたいと思います。実はこれには下心があります。近似死体験者のレポートを読むと、その人の世界観が死んだ後見る世界に反映されるようですから、できるだけ自分の世界観に銀河鉄道を敷いておきたいと思うのです。

もうおわかりでしょう。三途の川を渡るという死生観ではなく、銀河鉄道に乗るというイメージにすり替えておくわけです。渡るのは三途の川ではなく、天の川にするのです。そして、しばし渡るのを待ってもらい、川沿いに汽車の旅をします......(^_^)

死んだ時にひょっとしてまだ意識が残されているなら、銀河鉄道に乗せてもらいたいという魂胆なわけです。つまりは僕自身のための桟橋でもあるのです。

カムパネルラのやうに、「みんながねずゐぶん引き留めるから遅れてしまったよ。」と云ってみたいぢゃありませんか。でも、もし閻魔さまが隣の席に座っていたら言いません。舌を抜かれたくありませんから。

2012.02

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