プリオシン海岸  プリオシン通信

カムパネルラの行方

『銀河鉄道の夜』と昼


白鳥座銀河と流星
白鳥座銀河と流星


毎年この時期になると、喪中欠礼葉書が届きます。いつもご親族にご不幸があったんだなと思うだけで済ませてしまいます。しかし、今回届いた葉書に、春に永眠したと記された名前は知人である当人でした。

今年の年賀状には笑顔で元気な姿が写っていただけに目を疑いました。しかし、文面を何回見返してもやはりそれは彼女の名前でした。

彼女と出会ったのはもうずいぶん昔のこと。僕は尊敬する人が山ほどいますが、彼女もその中のひとりでした。年賀状なんかめんどくさいと思いますが、彼女からの年賀状は毎年楽しみにしていました。子育てに悩みつつも、愛情を注ぐ彼女の近況報告を楽しく見ていました。

生きることに意味はないということはもう何回も書きました。だから、なぜ生きなくてはならないのですか、と理由を問うことなく生きていけます。生きることに意味がないのなら、死ぬことにも意味はありません。だから、なぜこの人から命を取り上げなくてはならないのですか、と理由を問うことなく生きていけるはずなのです。

でも、現実は違います。好きな人が死ぬとどうしようもありません。なぜこの良き人を、まわりに明るい喜びをふりまいている善き人を、多くの人を愛し、愛されている佳き人を、この世から奪わなくてはならないのですか? それは疑問というよりは怒りです。

『春と修羅』 宮澤賢治著 ボンクラな僕は長年気がつきませんでしたが、心象スケッチ『春と修羅』の挽歌で賢治は妹トシの死を悲しんでいたのではありませんでした。どうしようもなく怒っていたのでした。仏教を学び、自分の死を受け入れることはできても、やはり愛する人の死を受け入れることはできなかったのです。

僕も少々仏教をかじり、大方のことは受け入れることができると思っていたにもかかわらず、今までの危機の時には仏教がまったく役に立ちませんでした。

生まれてこのかた幾度も我慢ならない怒りを経験し、ようやく賢治と同じく自分も修羅の道を歩いていることを知りました。それが「プリオシン通信」のトップに「修羅」を記している訳です。


宮澤トシ自省禄と甥の死


怒りの遣り場を求めて、久しぶりに「春と修羅」やら「無声慟哭」やらを読んでいるうちに『宮澤トシ自省禄』なるものがあることを今回初めて知りました。いわゆる賢治本はずいぶん昔から買わなくなったし、読まなくなっていたので気がつかなかったようです。

賢治の甥であり、末の妹クニの長男であった宮澤淳郎(あつお)さんによって1987年に発見されたものです。『宮澤トシ自省禄』というのはもちろん淳郎さんが名付けたものです。僕が急逝した彼女と出会ったのもちょうどこの頃です。

1920年(大正9年)、トシはその5年前の恋愛にかかわる悲しい出来事を受容し、乗り越えるために、たぶん十六日間かかって自分を内省した文章です。それまで存在が知られていなかったのは、敦郎さんの推測とは意見を異にしますが、たぶんクニさんが姉の痛々しい文章を世には出したくなかったためかと思います。

『伯父は賢治』 宮澤淳郎著 これが初めて掲載された本『伯父は賢治』を買い求めました。古本です。『宮澤トシ自省禄』が再録された『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』の方が他の資料もあって詳しそうだったのですが、今の僕には高価でした。

そして、これも巡り合わせ。

この本の「あとがき」は妻である「あい」さんが記していました。著者ではなく、妻が「あとがき」とは不思議なことだなと思い本文を読む前に目を通すと、この本が出版される前に淳郎さんは急逝されたとのこと。奇しくも今の僕と同じ年齢です。

以下に引用します。

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そのため、本書が、淳郎の最初で最後の本になったわけです。それが賢治伯父とトシ伯母に関するものであるというのには、何か不思議な縁があるような気がします。妻である私の目から見ると、淳郎は、いつも相手の気持ちを思いやる人間で、賢治やトシの愛他精神に通じるものがあったように思われるのです。それにしても、愛していたさまざまなものから、突然引き離されてしまった夫の運命は、妻としてはいかにも受容しがたく、つらくてなりません。
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まったくそのとおりです。

愛していたさまざまなものから突然引き離されてしまった人の運命は、いかにも受容しがたく、つらくてなりません。寿命が尽きて死ぬのであれば受け入れることもできます。しかし、その前に亡くなるのは、掠(さら)われて行方がわからなくなるのと変わりません。たとえそれが病死であったとしても、目には見えない津波に掠われるようなものです。

津波の前には引き潮があると言われますが、この目に見えない津波は、その後に大きな引き潮を起こして、遺された者たちの足許までをも崩そうとするのです。

宇宙論やSF作品でお馴染みの「パラレルワールド」ですが、現実世界でそれを実感する人は少ないかもしれません。しかし、こんな感じを持つ方もいるのではないでしょうか。地震で地層がずれて断層ができるように、大事な人や好きな人が死ぬと時空間がずれて断層ができます。その断層は別の世界へと分岐し、自分はもうかつての自分でなく、別の世界の別の自分がいるばかりなのです。


トシの死とその受容


トシが亡くなったのは大正11年(1922年)11月27日。今年は日曜日に当たり、そして今日がその命日です。24歳でした。この翌年の夏に賢治はトシからの信号を受け取るために直感から北へ北へと樺太まで旅しましたが、トシからのシグナルはありませんでした。

この時に書かれたのが『青森挽歌』です。その一節はこのサイトの開設とともにトップページに記してきたので、すでにお馴染みのはず。

     こんなやみよののはらのなかをゆくときは
     客車のまどはみんな水族館の窓になる
        (乾いたでんしんばしらの列が
         せはしく遷ってゐるらしい
         きしやは銀河系の玲瓏レンズ
         巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
     りんごのなかをはしってゐる
     けれどもここはいったいどこの停車場だ

もはや自分がいる場所さえわからなくなっている銀河宇宙の中で、賢治はぽつんとひとり汽車で逆行します。

このサイトを開いたのは仕事でHP作りの知識が必要になったからです。星空が好きで、ちょうど『銀河鉄道の夜』という題材があったから、これを選んだだけのことです。賢治の作品の中で『銀河鉄道の夜』はそれほど好きな作品でもありませんでした。もっと好きな作品がいくつもありました。

カール・グスタフ・ユング しかし、あれから13年。この間に僕は読んだり書いたり、いろんな苦しみも経験し、『銀河鉄道の夜』という作品がじつは奇跡のような作品であることがしだいにわかってきたところです。

そして、なぜトップページに『青森挽歌』を記し、なぜ電信技師と名乗ったか、その裏に何かの巡り合わせがあるのかもしれません。そう感じるのは心理学者カール・ユングが後ろに立って背中をつつくからです。

『新編銀河鉄道の夜』 新潮文庫宮澤賢治著 『銀河鉄道の夜』では車上の人々はみんな天上らしきところへ向かって消えていきます。しかし、ジョバンニにはそれがどこなのかわかりません。どこまでもいっしょに行こうと誓い合ったカムパネルラも忽然(こつぜん)と消えてしまいました。

ですから、ジョバンニにとって車上の人々は天上へと旅だったのではありません。みんな行方不明になったのです。カムパネルラも行方不明になったのです。

『銀河鉄道の夜』が法華経を広めるためだけの童話であったなら、こんな事態はあり得ないです。法華経を熱烈に信仰していたはずの賢治でさえ、この怒りから逃れることができなかったのだと思います。

カムパネルラの父が「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」ときっぱり言ったことにだれもが戸惑いを覚えたことと思います。それは賢治がトシの死を受け入れることができなかった現実からも不思議なことです。ただし、「博士は堅く時計を握ったまゝまたきゝました」とあるので、やせ我慢していることは伝わってきます。

近年の賢治研究の進展はまったく承知していませんが、今もこの謎は解き明かされていないのではないでしょうか。僕は、トシの死の受容が時の経過とともに変化していったためだと思います。悲しみが癒えて理性的になっていったのではなく、逆に学問や信仰で抑え込もうとしていた苦しみから解き放たれていった過程です。悲しみは悲しみのままに。あるがままにと。

死者との別れという点において、賢治の心の現実はカムパネルラにもジョバンニにも反映しています。同時にそれは僕たちの現実でもあります。そして3次稿まで登場していたブルカニロ博士は4次稿で跡形もなく消えてしまったわけではなく、新登場したカムパネルラの父に反映しています。3次稿で「博士」と呼ばれていた人はブルカニロでしたが、4次稿で「博士」と呼ばれているのはやはりカムパネルラの父です。


平衡する世界


話が少々それますが、銀河鉄道の夜には白と黒の対比があちこちに描かれています。とにかく「白」と「黒」が頻出する物語です。4次稿の冒頭からこんな塩梅(あんばい)です。

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「ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のやうなところを指しながら、みんなに問をかけました。
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そしてたとえば、上記の「乳の流れ」は牛乳屋の登場を促し、黒板は「黒い丘」や「そらの孔」である「石炭袋」を描き出すのです。

カムパネルラは黒い上着を着ていました。同じく、汽車の中の人々も黒い服や黒い帽子や黒い髪など、黒いものを身につけています。そして、カムパネルラの父も賢治によって黒い服を着せられました。どうもカムパネルラの父も地上の人とは立場を異にする人のようなのです。

ここで思い出す別作品があります。賢治は昭和3年夏から昭和5年春頃まで病に伏せていましたが、この時期の作品群「疾中」に『眼にて云ふ』があります。

     だめでせう
     とまりませんな
     がぶがぶ湧いてゐるですからな
     ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
     そこらは青くしんしんとして
     どうも間もなく死にさうです
     けれどもなんといゝ風でせう
     もう清明が近いので
     あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
     きれいな風が来るですな
     もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
     秋草のやうな波をたて
     焼痕のある藺草のむしろも青いです
     あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
     黒いフロックコートを召して
     こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
     これで死んでもまづは文句もありません
     血がでてゐるにかゝはらず
     こんなにのんきで苦しくないのは
     魂魄なかばからだをはなれたのですかな
     たゞどうも血のために
     それを云へないがひどいです
     あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
     わたくしから見えるのは
     やっぱりきれいな青ぞらと
     すきとほった風ばかりです

悲惨な光景にもかかわらず、いえ、悲惨な光景だからこそ、何回読んでも、なんとも美しい詩です。ちょうど『銀河鉄道の夜』3次稿と4次稿の間隙にあたる時期に書かれたようです。この博士は黒いフロックコートを着ており、賢治に「こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけばこれで死んでもまづは文句もありません」と安心(あんじん:仏教語)を与えてくれる人でした。


地上への帰還


さて、話を戻します。ブルカニロ博士やカムパネルラの父は、賢治の学問や信仰の成果です。しかし、ジョバンニは賢治の偽らざる心、「執着」が映し出されているのだと思えるのです。

 雨ニモマケズ手帳 ブルカニロ博士はカムパネルラを探すことを「むだだ」と言い、カムパネルラの父は「もう駄目です」と言う。なぜ冷然とそんなことを言うのかについて答えれば、それは後で触れる『手紙四』の中に記されている「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」。

「ナムサダルマプフンダリカサスートラ」とは、他にもいろんな音訳がありますが、「南無法蓮華経」のことです。上の画像は賢治手帳の『雨ニモマケズ』が記された直後のページ全文です。

賢治の法華経信仰は巷間(こうかん)に伝えられるほどに堅固なものではなかったと思います。頭ではわかっちゃいるけど、賢治でもどうにもならなかったのがトシの死です。『春と修羅』に「噴火湾(ノクターン) 」という作品があります。一部引用します。

   そのまつくらな雲のなかに
   とし子がかくされてゐるかもしれない
   ああ何べん理智が教へても
   私のさびしさはなほらない

当初は頭でっかちで「銀河鉄道」を書き始めたのですが、年を経るにつれて現実の重みが「銀河鉄道」を「夜」に傾斜させていったのだと思います。しかし、それは「夜」だけではありません。

みなさんも『銀河鉄道の夜』の中に行方不明の人がいたことを知っています。賢治の法華経とは、つまり宇宙の理(ことわり)ですが、その役割を担ったカムパネルラの父は、カムパネルラが探しても無駄な行方不明者になったことを告げるとともに、行方不明だったジョバンニの父がまもなく帰還することをも告げています。

ここで「らっこの上着」が気になります。黒い服を着たカムパネルラが去って、ジョバンニの父がおみやげに持ってくる「らっこの上着」は何色なのか。それが白いろだとやはり「ペアリング」の可能性が出て面白いわけですが、残念ながらその色の記述はありません。

『風の又三郎』(宮沢賢治絵童話集)  くもん出版 他の賢治作品でラッコの色を記しているのは『風の又三郎』だけのようで、「みんなはわれ勝に岸からまっさかさまに水にとび込んで青白いらっこのやうな形をして底へ潜ってその石をとらうとしました」という文があるのみです。

「青白い」とはまさにラッコの毛皮。光のあたり方で、白くも青くも見えるような色で、要するに「グレイ」ゾーンです。残念でした。

そんなわけで、どこかへ去って行く者あらば、どこかからやって来る者もあり。それが「ナムサダルマプフンダリカサスートラ」だ、夜と昼は巡っているのだと告げているように僕には思えます。

ジョバンニという自分に向かって賢治は言い聞かせようとしているのです。賢治は1926年に農民芸術の講義を行いました。その内容は『農民芸術概論綱要』で知ることができます。序論から一部抜粋します。

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世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
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ここには銀河宇宙へと羽ばたく勢いの賢治がいます。その一方で頭についていけない身体があり、「悲しみは悲しみのままに」とありのままの自分を受け入れることもよしとするようになっていきます。それがちょうど4次稿に手を入れていた年である1931(大正6)年の『雨ニモマケズ』にも結ばれます。悲しみも苦しみもみんな地上で共有する生き方を願ったのです。

     東ニ病気ノコドモアレバ
     行ッテ看病シテヤリ
     西ニツカレタ母アレバ
     行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
     南ニ死ニサウナ人アレバ
     行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
     北ニケンクヮヤソショウガアレバ
     ツマラナイカラヤメロトイヒ
     ヒドリノトキハナミダヲナガシ
     サムサノナツハオロオロアルキ

(※「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記だと思っていますが、ここで議論する気はないので原文のままの表記としました.......(^^ゞ この問題については翌年の2012年1月の「雨ニモマケズの曼荼羅」ページで検討しています。)

これはちょうど『銀河鉄道の夜』の改変の軌跡と符合します。3次稿まではジョバンニはブルカニロ博士に諭されて丘に戻った時点で物語は閉じられました。しかし、4次稿ではブルカニロ博士は消え、まだ地上の物語が展開していきます。つまり、目覚めたたけでなく、本当の意味でジョバンニは地上に帰還したのです。

賢治の父、政次郎さんは地上から舞い上がろうとする息子を引き留める役割を自覚していたようですが、同じような役割を果たしたのが賢治の身体でした。賢治が無茶をせずに屈強な身体を維持し続けることができたなら、たぶん年老いるまではなかなか足を地に着けることはできなかったのではないでしょうか。

賢治が教え子の柳原昌悦へ死ぬ十日前に出した手紙には「宮澤賢治自省禄」みたいな文が綴られていました。部分引用します。

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私のかういふやうな惨めな失敗はただもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふうものの一支流に誤って身を加へたことに原因します。
僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが、何か自分のからだについたものででもあるかと思ひ、自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからか自分を所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して、却って完全な生活をば味ふこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り世間を憤り、従って師友を失ひ憂鬱病を得るといったやうな順序です。
(中略)
風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の技にも均しいものです。
(中略)
どうか今のご生活を大切にお護りください。うわのそらでなしに、しっかりと落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きていきませう。
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『雨ニモマケズ』手帳から 昔、賢治は年上の人でした。僕の若い頃、世間ではまだ『雨ニモマケズ』が不屈の精神をうたったものとして受け取られていたように思いますが、僕には賢治の挫折感が漂う、ちょっぴり悲しい書でした。しかし今はもう賢治は年下の人となり、『雨ニモマケズ』には、民衆と同じ地べたに立ち、共感する生き方の大事さに気づいた賢治が見えます。(画像は文字をはっきりさせるためにかなり修正しています)


かすむ自己犠牲


同じく若い頃は『銀河鉄道の夜』も『雨ニモマケズ』も自己犠牲にばかりに気を取られていました。賢治が自己犠牲を実践したカムパネルラよりもウダウダ思い悩むジョバンニに最上の切符を与えているにもかかわらず、これらの作品があまり好きになれなかった。

『銀河鉄道の夜』にはカムパネルラの水死以外にも自己犠牲、あるいはそれがにおう事例がいくつも出てきており、ジョバンニさえ「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」と話します。賢治は「求道」という道の大切さをわかりながらも、やはりカムパネルラのような死に方がしたかったんだろうと思えます。

カムパネルラのモデルとして、妹トシや友人の河本緑石や保阪嘉内があげられていますが、僕には賢治の分身の要素がかなりあると思えます。3次稿までは残っていたカムパネルラの人物像はこんな記述です。

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カムパネルラなんか、ほんたうにいいなあ。今日だって、銀貨を二枚も、運動場で弾いたりしてゐた。
 ぼくはどうして、カムパネルラのやうに生まれなかったらう。カムパネルラなら、ステッドラーの色鉛筆でも何でも買へる。それにほんたうにカムパネルラはえらい。せいだって高いし、いつでもわらってゐる。一年生のころは、あんまりできなかったけれども、いまはもう一番で級長で、誰だって追ひ付きやしない。算術だって、むづかしい歩合算でも、ちょっと頭を曲げればすぐできる。絵なんかあんなにうまい。水車を写生したのなどは、をとなだってあれくらいにできやしない。ぼくがカムパネルラと友だちだったら、どんなにいゝだらう。カムパネルラは、決してひとの悪口などを云はない。そして誰だって、カムパネルラをわるくおもってゐない。
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確かに賢治と異なる要素はありますが、ジョバンニと比べてみれば圧倒的に賢治はカムパネルラ的ですよね。だからこそ、その生まれの罪を償うかのようにカムパネルラはザネリの命を助けて、川の中に消えていきます。しかし、カムパネルラは救われたかもしれませんが、ザネリには生涯十字架を背負わせることになります。

「ザネリはうちへ連れられてった」

カムパネルラは身代わりになって銀河の向こうに掠われていったのに、ザネリも舞台から去るように連れられていったのです。自己犠牲の酷さについても賢治は鈍感ではなかったと思えます。モデルを一人に求めるのはそもそもが無理な話です。

『なめとこ山の熊』 (日本の童話名作選) 偕成社 僕は『銀河鉄道の夜』よりも『なめとこ山の熊』が好きでした。たぶん今でもそうでしょう。この作品にも自己犠牲のにおいが漂いますが、「僕のからだなんか百ぺん灼いても」などという激しいものはなく、穏やかなものです。誰かを犠牲にしなければならないことと、誰かの犠牲になることもやむを得ないと、どちらの死をも受け入れる心構えを持って生きています。

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 すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射うたれてやろうか思案しているらしかったがいきなり両手を樹からはなしてどたりと落ちて来たのだ。小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。
「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」
「ああ、おれはお前の毛皮と、胆きものほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」
「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」
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これが書かれたのはおそらく「疾中」前。この「完成品」に比べると、『銀河鉄道の夜』は賢治のこころの中の葛藤が垣間見えるように思えます。葛藤があっただけに推敲を重ねざるを得なかったということです。やはり完成しない物語だったのです。

もう今は自己犠牲にはほとんど関心はありません。

新校本宮澤賢治全集12 自分の命を省みずに他人を助ける行為はもちろんいつでも感動を覚えます。しかし、だれでも自分のためだけに生きることなんてできません。それと気づかずともだれかのために生きているのです。身体が不自由で介助を受けている人も例外ではありません。だから、自己犠牲であろうが、他人を犠牲にして生きているように見える人であっても、生きたという尊さには変わりないと思うようになりました。


ポーセをだづねる手紙


大正12年(1923年)か大正13年に賢治はある物語を印刷して配りました。全集に「手紙四」として収録されているものです。この小さな物語は『永訣の朝』や『銀河鉄道の夜』やらをほうふつとさせる内容を含んできます。

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
『手紙四』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45657_35656.html

登場する「ある人」とは名前を与えられていない「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」です。『銀河鉄道の夜』がたぶんまだ書き起こされていない時期です。そして名前が登場する二人は『双子の星』のふたりの童子と同名です。

『双子の星」は賢治がまだ二十歳過ぎだった1918 (大正7)年8月に家族に朗読した作品です。現存原稿はその時のものとは異なるようですが、朗読はトシが発病(11月)する少し前の時期になります。冒頭から3行引用します。

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わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つてゐるかたはありませんか。チユンセがさつぱりごはんもたべないで毎日考へてばかりゐるのです。
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「ポーセはチユンセの小さな妹ですが」と続きますが、受け取った方はさぞや面食らったことでしょう。これも仏教説話のような童話と理解してくれたかもしれませんが、あまりに生々しい事実を含んでいるからです。無記名で配布されたこの紙片は物語というよりは、行方不明者を尋ねるビラでした。賢治らしい奇行とも言えます。

「あるひと」はやはり「チュンセはポーセをたづねることはむだだ」と賢治に話しています。しかし、賢治に「ポーセをだづねる手紙を出すがいい」と許しを出しました。それが「手紙四」になっています。だから、『銀河鉄道の夜』とは何かと問われれば、それは行方不明者を尋ねる長い手紙だと答えられるのかもしれません。

僕たちはここがどこの停車場かわかっているつもりで暮らしています。しかし、どこからやってきて、どこへ行こうとしているのかまるで知らないのに、ここがどこの停車場か知っているはずもありません。巨きな水素のりんごの中を走る汽車の中で、「けれどもここはいったいどこの停車場だ」と首をかしげる賢治と同じなのです。

僕は「プリオシン通信」というビラを配りながら、やはり賢治のようにポーセを尋ね歩いているのかもしれません。賢治と同じ奇行です.......(^^ゞ 行方不明者を探すことは無駄なのかもしれませんが、通信することは許されています。だからもうしばらくの間、僕もきっと行方不明者を尋ねる手紙を出し続けるのでしょう。

急逝した知人は賢治と同じく享年37歳でした。彼女の冥福を心から祈りながら......

「どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つてゐるかたはありませんか。」

2011.11

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