プリオシン海岸  プリオシン通信

大阪の王子さま

民度とエリート


コスモス
秋桜畑にて


いまフォークリフト講習に通っています。とはいってもたった4日間です。いつか役に立つこともあるんじゃないかと思ってのことですが、この講習はほとんどの人が会社から資格取得のために来ているようです。そういう意味では僕は気楽なもんです。

もちろん落ちたりしたら、お金も時間ももったいないです。しかし、どう転んでも落ちそうにない講習です。いや、転んでいったらあぶないって......(^_^)

1日目は講義です。一日中黙って話を聞くなんてことは、この前はいつのことだったか思い出せないぐらい昔のことです。しんどいです。働くことはいろんなストレスがあって大変ですが、黙って座っているというのはそれ以上に大変な気がします。

高校卒業までは毎日こんなことをやっていたわけで、はあー、よく頑張っていたなあと若き頃の自分にしばし感心して座っていました。ちっとも講義を聴いていない.......(^^ゞ 学生時代も同じだったな......(^_^)

こうして「にわか生徒」になっているところに、朝日新聞が大阪府教育基本条例案について3日間連続で特集を組んでいました。朝日としてはよほど気に入らないのでしょう......(^_^) 中立記事のフリをして、批判的な意図は丸見えです。朝日に限らず、日本ペンクラブをはじめ、いろんな団体からも批判声明が出ているので、朝日が突出しているわけでもありませんが。

僕も今年6月に大阪府の「君が代」起立斉唱義務条例を批判しました。今回の条例案は次にやってくるものとして予想していたものです。教育委員会が政治家の言うことを聞かないから政治主導でやりたいというのが本筋ですから。

しかし、教育委員会は戦後まもない一時期を除いては文部省、文科省の言う通りに動いてきたように思えるのですけどね。しかも、この条例案が目指すものは昔の文部省がやろうとしていたこととほとんど変わりないです。自分が子どもの頃を思い出します。

子どもの頃までさかのぼらなくても、1999年に施行された国旗国歌法は単に「国旗は日章旗で、国歌は君が代」として書いてあるだけなのに、日本中の学校で強制が進んだ事実を見れば、法律ではなく政治的圧力が教育に及ぼす影響が大きいのがよくわかります。この法案を提案する側の官房長官であった野中広務さんが現状を憂えているほどなのですから。

条例に対する批判を聞いていても政治的中立を心配する意見はあっても建前止まり、内容に対する批判ばかりです。政治的中立なんて昔から建前だとみんな知っているわけですね。

橋下知事も「百ます計算」で知られる陰山英男さんや元中学校教諭の小河勝さんを教育委員に招いたり、気に入らない委員は再任しなかったりしているわけで、それなりに教育委員会へ自分の意向を反映させることはできたわけです。教育委員を任命するのは首長の仕事なんですから。

しかしながら、自分が任命した教育委員全員から条例案への批判が起こり、可決されたら全員辞任する考えだという報道が9月にありました。

橋下知事が代表を務める大阪維新の会が提出した「大阪府教育基本条例案」は大阪市教育基本条例案と同じ内容なので、先に報道されたこの骨子を転載します。

◇互いに競い合い自己の判断と責任で道を切り開く人材、愛国心及び郷土を愛する心にあふれるとともに国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てる
◇校長は任期を定め、マネジメント能力の高さを基準に多様な人材を積極的に登用する
◇1回目の職務命令違反は減給または戒告、2回目は停職として所属、氏名を公表。違反を5回重ねた場合、同じ命令に3回違反をした場合は直ちに分限免職
◇教委は学力調査テストの市町村別、学校別の結果をホームページで公開しなければならない
◇保護者、地域住民らでつくる学校運営協議会を設け、校長や教員の評価や教科書の推薦などをする
◇保護者は学校に不当な態様で要求をしてはならない
◇3年連続で入学者数が定員割れし、改善の見込みがない府立高校は統廃合しなければならない
◇府立高校の学区を廃止し府内全域を通学区域にする
◇市教委は隣接区域やブロック内で市立小中学校を選べる学校選択制の実現に努めなければならない

半分は当たり前のことと余計なお世話。もう半分は、競争で負けた児童生徒・教師は不利あるいは罰を受けます、最終的には退場しなさいということでしょうか。

物体にも生き物にも、ましてや人間にはストレスというもがあります。原発事故で「ストレステスト」という言葉が浮上しましたが、ちょうどこの教育条例は大阪で子どもと教育関係者と保護者のストレステストをやってみましょうということになるでしょう。

ストレステストとはシステムに通常以上の負荷をかけて正常に動作するか検証する耐久試験のことです。もちろん、人間は対象になるはずのないテストです。やってしまったらそのストレスの傷は取り返しがつきません。

教師のサラリーマン化が叫ばれて久しいですが、これもピラミッド型の統治組織を作り、ヒラ教員が議論もできないように政治がどんどん進めてきたことです。それを更に強化しようというのがこの条例案です。

『バッテリー』 あさのあつこ著 朝日は条例案の解説と近未来シミュレーションの記事を書き、そこに中立を装うために3人のゲストの意見を掲載していました。

1日目、あさのあつ子さん。あさのさんはピラミッド組織の中で教育に効率を求めると「生きていく根っこ」を切ってしまい、上下という単純な価値観を持つつまらない人間になる、競争で行き詰まった世界を生き延びる新しい文化が必要なのだと語っています。復古主義でむしろ現実に対処できないと。

 『五体不満足』 乙武洋匡著 2日目、乙武洋匡さん。教育現場での経験から突出を許さない雰囲気に疑問があり、現状に甘んじていると今の教育には批判的。競争を求める条例部分には賛成だが、居住地域でいろんな人が一緒に学べる公教育の良さは保持すべきだ、そして向いていない先生にはやめてもらった方がいいと言う。

3日目、尾木直樹さん(通称、尾木ママ)。高度成長期ならともかく有名大学でも就職が難しい時代になっていて価値観も多様で社会も複雑なのに、条例案にあるのは古い学力観で時代錯誤。教育は子どもたちの人生を豊かにするためのもの。自分が大阪の教師なら最低ランクのD評価を受けるかも。

『子どもの危機をどう見るか』 尾木直樹著 ここで言う「D評価」というのは19条に記されたもので、教員を相対評価して5%の教員に最低の「D評価」をつけ、2年連続してつけられた教員は分限処分の対象になります。校長による相対評価になりますから、校長に目をつけられたら終わりです。

かなりいい加減なまとめですみません。できることならネット上で原文をお読みください。

尾木さんが言うような「教育は子どもたちの人生を豊かにするためのもの」なんて正論を言ったって通じるはずはありません。しかし、抱えている事情は学校や教師ごとにいろいろで、できる生徒を囲い込んだ教師が得をし、問題を背負い込む生徒と向き合う教師は損をするようになったら退廃の極み、とも語るのは外せない正論だと思います。しかし、すでに退廃がかなり進んでいるのも現実です。

乙武さんが「突出を許さない雰囲気」というのは、学校に限らず日本社会に広く見られる悪しき伝統ですよね。この点においては社会や保護者からの暗黙の要請に合致した教育だと言えます。

わからない授業を聞くのも苦痛ですが、わかりきった授業を聞くのも苦痛です。僕は飛び級したい子がいるなら、その子が孤立しないよう十分配慮をした上で認めたらいいと思います。ただし、社会性までは飛び級できないことを本人も周りも知っていなければなりません。

また、乙武さんが地域性や多様性を尊重するのはやはり彼の育ちからよく理解できます。彼の子ども時代にこんな条例があったら地域の学校に乙武さんの居場所はなかったはずですから。

しかし、彼が「突出を許さない雰囲気」としてあげた例は適切とは思えません。運動会でクラスのやる気を引き出すために「徒競走でクラスが1位を取れたら、先生は丸刈りになる」と児童に約束し、職員室で問題になったんだそうです。

「不適切な方法で子どもをあおった」と批判されたそうで、この意見は適切だと僕は思います。TVのバラエティ番組のような、こういう扇情的なやり方はまるで橋下徹先生ですよ......(^_^) 

向いていない先生にやめてもらうのは当然です。向いていない役人も政治家も去ってもらうのが普通のあり方です。適材適所は社会の基本です。

学校にも教員にも厳しい競争を求める一方で、地域のいろんな子どもたちが共に学ぶことを願う乙武さんは、この矛盾をどう乗り越えるのかという答えは持ち合わせていないようです。

あさのさんの意見は真新しくも珍しくもありませんが、僕はやはり「生きていく根っこ」という言葉に共感を覚えます。昔から政官財は「根っこ」なんかに関心はありません。関心があるのは自分らのようなエリートの育成です。みなさん成功者ですから自信家です。自分らのようなエリートが上に立てばうまくいくと信じているのです。

しかし、成功者でもエリートでもない僕たちは東日本大震災で昔も今も危機管理がまともにできない、政官財のエリートたちを見ました。そして、根っこがしっかりしている大勢の市民も目撃しました。

僕たちはこれをどう理解したらいいのでしょうか。

僕の学生時代は好きになれない先生ばかりでしたが、それでも先生たちが呆れて、あるいは諦めて放置しておいてくれたのは有り難かったと感謝しています。いろいろ手を出されていたら学校で息が出来なくなっていたと思うからです。

中学ではいろんなことに反抗してルール違反やサボタージュを繰り返した僕ですが、担任からはこれらの件で一度も叱られませんでした。担任は賢い人でした。言葉で説明できず行動で抗議する僕の意図を理解していたのだと思います。僕のことを告げ口する同級生に困った表情を浮かべる先生を今も思い出せます。

ルール違反やサボタージュはその後も続くことになり、高校は勉強するところではなく、睡眠をとるところ、小説を読むところ、映画館へ行く途中に立ち寄るところになりました。このお陰というか、このせいで「シネマ短評」があるわけです。とにかく、高校時代は大学合格の実績を競い合う教師たちに我慢ならなかったのです。

大学進学をやめて就職を決心した同級生をあざける教師も見ました。平和な学校という場でも人はこんなに狂ってしまうことがあるんだ。驚きと共に怒りの拳を学生服の下にしまい込みました。

しかし、生徒の自主性?を尊重して放置していいのは独立心が芽生える中学生以降だからであって、小学校はまた別です。

小学校低学年では今でも時々思い出す女の先生がいます。今もいろんな問題を引きずって生きていますが...(^^ゞ、小学時代もいろんな問題を抱えていました。そして、自分がまったくダメなヤツだと思っていました。まわりの目もきっと同じだったでしょう。

宿題もしていかないような問題児でした。教室に宿題忘れのグラフが貼ってあって、このグラフの一番長い線が僕でした。それで卑屈になったかと言えば、内心得意になっていた気分があります。今思い出しても不思議ですが、その堕ちる気分の喜びは今でも感じることがあるので記憶違いではないと思います。

なぜ宿題をしていかなかったのか。勉強は嫌いだったけれど、それは本当の理由ではなく、たぶんSOSだったのだろうと今は思います。

この先生は僕を好いてくれているのがわかりました。僕にもいいところがあるのかなとうれしかったのです。それは自分が生きる上でひとつの支えになりました。当時宿題のひとつに「自由宿題」というのがあって、自分で何か勉強してくるというのがありました。得意なものとか苦手なものとか自分で選んで勉強してくるのです。

この宿題が出るときは僕だけ特別扱いされました。僕には教科の勉強ではなく、工作でも良いというただし書きがついたのです。先生は僕が工作が好きで、家でいろんなものを作っていることを知っていました。宿題をしてこない僕に対する苦肉の策でもあったでしょう。かしこい子どもならバカにされたと悔し泣きするところですが、こっちはバカな子どもですからうれし泣きです......(^_^)

ちょうどその年、ある女の子が好きでした。勉強のよくできる子です。席替えでその子と相席になってから問題が起こりました。僕のテスト成績がいっぺんに上がってしまったのです。僕の成績は中の下。今の子どもはどうか知りませんが、当時の子どもは点数を隠さない子が多かったです。そこでだれもが疑うのはカンニング。

試験中はカンニングできないように席の真ん中にランドセルを置いていましたが、やろうと思えばできないことはありません。テストの度にその女の子とよく似た点数になってしまいました。これでは疑われてもしかたがないと自分でも思いましたが、ひょっとしてカンニングされているのではと大バカな考えが浮かんだほど。とうとう彼女よりもいい点数が取れることもありました。

推測するに、好きな女の子の隣でアホをしているわけにもいかず、きちんと授業を聞いていたために起こった奇跡だと思います。こうして僕はその学期をカンニングの疑い濃厚のまま終えることになりました。この先生にカンニングについて尋ねられたのは一度きりでした。

学期が終われば通信簿をもらいます。成績は良くならず、かえって悪くなっていました。小学時代では一番悪かった通信簿でした。先生は僕を信用していなかったのでした。きっと他でときどき嘘をついていた子どもでもあったんではないでしょうか。

今でもこの事件をよく覚えているのはやはり傷ついたからでしょう。でも、この先生を嫌いになることはありませんでした。宿題をしていかない子どものSOSを受け止めることができた先生でも、子どもが時々奇跡を起こすことを知らなかった先生なんだと思います。じっさい学期が変わり席替えしたら、テストは元通りになりました...(^_^)

カンニングの汚名をそそぐ危急存亡の時なのに、ここがダメ夫たるゆえんです。好きな子から離れて緊張から解き放たれ、きっとホッとして授業を聞かなくなったんだろうなあ。女は魔物です......今ふと気がついたことがあります。小学生時代だけは授業を聞いていたと思い込んでいましたが、やっぱり聞いていなかったんだなあ.......(^^ゞ

担任をはずれてからのことです。ある放課後に川の堤防で遊んでいたら、自転車に乗った出張帰りの先生に出会いました。堤防に並んで座り、職場への手土産だったのだと思いますが、それを開けていっしょに食べました。売り物のお菓子を食べる機会はそんなになかった時代です。

今なら勤務時間中に何をしているんですかと先生は叱られるかもしれませんね。自信のかけらもなかった子ども時代にひとつの灯りをつけてくれて、それはその後もずっとこころの片隅で点り続けました。生きていく、ひとつの根っこになったのです。

こんなダメ夫を支えても教師としての評価にはなんにもプラスになりません。むしろ特別扱いしたことで問題になったかもしれません。今の親なら、証拠もないのにカンニングの責任を取らせたと、その責任を問われたかもしれません。校長にとっては困った教師です。

かつて日の丸が好きだった先生の話を書きました。その先生は子どもから見ても「できる」先生だと思いました。だからこそ評価されて教育委員会へ異動したのでしょう。成果のひとつはきっと交通教育。廊下にはセンターラインが敷かれ、信号機がぶら下がりました。確かテレビでも紹介されていたような気がします。

田舎の道にも信号が登場してきた時代だったのでしょう。車どころか人も歩いてこない学校廊下の十字路でひとり信号待ち。笑えます。学校は時々こういうバカをやってますね。

その先生に比べたらこの女先生の評価は低いでしょう。だけど、僕の小学時代はいつもこの先生が背中を押してくれていたのです。いえ、今だって僕の背中にあの先生の手のひらを温かく感じることがあるのです。

お偉いさんたちからお墨付きの「できる」教師たちばかりの学校なんて、ゾッとします。そもそも僕たちはいろんな組織を経験する中で、リーダーたる代表が「部下を評価できる人格」ではないことを時々思い知らされています。評価する観点が違うだけで「クビ」では取り返しがつきません。

光市母子殺害事件の弁護団に懲戒請求を行うよう視聴者に呼びかけた番組 橋下徹さんでさえ、昨年は大阪弁護士会からTV番組での発言で業務停止2カ月の懲戒処分を受けています。弁護士から見れば、彼も「D評価」です。

素人から見てもあの発言は法律家として許されないと思いますが、彼はそれを黙って受け入れることができず、弁護士会に向かって「道頓堀でケツを出すより下品」と文句を言っていました。下品な人だなあ......(^_^) こういうところが好かれるんでしょうね。

笑いごとじゃないですけれど、彼が今までやってきたことは学校現場に置き換えたら暴れん坊教師です。校長なら迷わずD評価です。橋下さんみたいな教師が学校からいなくなってもいいんですか? いろんな子どもがいるからこそ、いろんな 大人がいなくてはならないのが学校ではないでしょうか。

良くも悪くも日本は均一な社会だと言われますが、そんな日本の中でも大阪はその歴史的な経緯からかなり多様な人々が住む社会だと思います。それは商都でもある大阪の活力となったと同時に様々の社会的な課題を残すことにもなりました。

その課題は教育が生み出したものではなくて、社会が生み出したものであり、教育だけでは解決できなかった結果です。なんでも教育に原因を求め、なんでも教育で解決できると考えるのは誤りです。そんな簡単なことがわからない人が大勢いるというのは、どんな教育を受けても結局は受け手の問題であるということです。

大阪維新の会の人たちは、議員が選挙で勝って今の地位にいるように、おまえたちも評価を受けて5%は落選だぞという風に考えているのでしょうか。もうひとつ勘違いがあります。

橋下知事はTV番組の中で、いじめられたら転校できるということをきちんと子どもに伝えるようにすると語っていましたが、そんなの改革じゃないです。いじめられたら絶対にその子を守ります、いじめがやめられない子どもは転校できます、と伝えるのが改革です。

国歌をうたわない人をいじめようとする政治家には学校からいじめをなくすことはできません。やはり、そんな人には転校ならぬ、海外移住できると伝えられるのでしょうか。

東日本大震災で日本人自らが誇りに思い、世界から賞賛された協調と敢闘精神は日本社会が底辺から支えられていることを証明しています。それはいろんな人がいて様々な暮らしがあるけれど、みんなで生きていこうという長年にわたる地域共同体の結束と教育のひとつの成果だと思います。

東日本大震災で発揮された協調精神はそのまま日本の社会の安全性へと繋がっています。社会の根っこへの水遣りを忘れてしまったら、日本はその良さを失ってしまいます。日本人なら国歌を歌えという一方で、日本の大切なものを粗末に扱っていませんでしょうか。

ウォール街デモ 世界の失敗国に共通するのは腐敗したエリート層と社会的な独立基盤のない民衆という構成です。そして今世界で連鎖的に起こっているデモ。これはウォール街から発した、いわば「格差」デモ。東京にも波及したことはご存じの通り。富を独占するマイノリティ(少数)に、富の分配にあずかれないマジョリティ(多数)が怒っているのです。マイノリティがマジョリティに抗議するという今までの公式は崩れてしまいました。

世界に通用する人材と言う割には、世界の現在に触れないエリート教育観は古すぎて、やはり世界に通用しそうもありません。

今月13日、中国広東省で2歳の幼児がライトバンに二度轢かれ、通行人たちに無視されている間にまた轢かれるという事件がありました。結局7分間放置され、病院で亡くなりました。震撼したのはそれだけではありません。被害者の父親が加害者に電話したら、金は払うが警察には行かないと言ったというのですから。

中国での事故被害幼児放置事件 なぜ父親は警察でなく加害者に電話をしたのか、なぜ加害者が警察には行かないというのか理解できないことです。しかし、現地の中国人には理解できるからこそ起こった事件です。警察無用なんでしょう。

僕たちは中国の孟子から「性善説」を学びましたが、その根拠を失うような事態です。井戸に落ちそうになっている赤子を助けようともしないのですから。

昨日、新聞に中国のルポがちょうど載りました。タイトルは「教師の採用もカネ次第」です。学校での競争が激しく、社会もコネがまかり通る中国の現状は時々耳にしていることです。このルポを読むと教室の席まで金品で決まる有様。病院も、警察も、消防も、新聞記者もしかり。

こんな中国ですが、愛国心が強く、世界で通用する?エリートがたくさんいて、経済競争力もあります。維新の会が見習いたい勢いです。そして今や手段を選ばず世界中の資源を囲みこうもとしています。

日本も昔はいろいろありました。就職では教師を含む公務員にはコネが有効だったし、民間会社も同様でした。実際、うちの市の役所では98年に多数のコネ採用が明るみになりました。亡き父は二度手術しましたが、二度とも担当医にお金を包んでこっそり渡しました。中国と同じく、これが常識だったんです。交通違反も警察のコネがあるのとないのでは違いました。

警官になった同級生から結婚の時は相手を調べてやると言われたこともありました。新米警官が言うぐらいだから、当時は警察内で普通に行われていたことなのでしょう。それ以来、その同級生とは会わなくなりました。それは僕個人の良心の問題ではなく、そういうことは許されないという日本の民度と繋がっていることです。

我が市の不正採用もそれは許されないというレベルに民度が上昇してきたが故に、98年に明るみになったと言うこともできます。

日本の民度が上がることによって、徐々に不正が減ってきたと思います。これはエリートのお陰じゃありません。エリートは貰う方ですからね。

コネがないから、生まれが悪いから、お金がないから、女だから、障碍があるから、外国籍だから、独身だから、ゲイだから、片親だから、子どもだから、老人だから、電信技師だから、などなど、努力する前からあきらめなければならなかったことがいっぱいありました。それが少しずつ減ってきたことは、経済的な豊かさよりも日本の生活を豊かにしていると思うのは僕だけでしょうか。

市民が悪に手を染めなければ生活することができない社会から、日本は今ようやく脱しようとしています。愛国心を高め、民度をまた下げて、中国の後を追いかけたいでしょうか。

沖縄県尖閣諸島沖で中国漁船と海上保安庁巡視船が衝突する事件が昨年ありましたが、巡視船にぶつけて逃げようとした中国人船長が中国国民から英雄扱いを受けたのはご存じの通り。しかし、今は軟禁状態に置かれています。愛国心の強さは民度の低下と結びついている、あるいは愛国心と民度は反比例すると言っていいのかもしれません。

『働きアリの2割はサボっている―身近な生き物たちのサイエンス』 稲垣栄洋著 この条例が成立すれば、教師たちは自分の評価が上がるように子どもに接するようになります。子どもが苦しんでいたら教師は自分の評価が下がるので困ります。だから、その子どもの問題は隠されてしまいます。風が吹けば桶屋がもうかる、と言いますが、これはそんなことわざと比較もできないぐらい単純な因果です。

わずかな問題教師をやめさせるために、良心的な教師まで排除するようなことをしてはいけません。どんな組織にも問題となる人はいます。いい生徒が集まらないからといって、学校をつぶしてはいけません。そこは多くの人が学ぶ、そして学んだ母校です。ヤケを起こさず地道に努力する度量を僕たちは試されています。それが民度を高めます。

『星の王子さま』 サン=テグジュペリ著 学校は会社や役所のように大人ばかりがいる社会ではありません。もの言えぬ子どもたちが主役にならなければならない場です。国歌強制も国際競争力もみんな「お上」目線ばかり。子どもたちの声がひとつも聞こえてきません。

「大人はだれも、昔は子どもだった。でも、そのことを忘れずにいる大人はほとんどいない」

星の王子たちが学校でバタバタ倒れていくのを見たくない。こころからそう願います。



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