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有機交流電燈

縁起する世界


ハクセキレイ
ハクセキレイ


家の建て替えにともなって庭が小さくなったので、この数年来訪する鳥も少なくなったと感じていますが、新参者が現れました。水辺が近いところでよく見られるセキレイです。

かなり黒っぽいのでセグロセキレイかなと思いましたが、上から見ているせいもあるのでよく顔を見ると、白い顔に嘴から目を横切っていく過眼線が見えているので、ハクセキレイのようです。庭全体を探索したところで、飛んできた若ツバメと交錯しながら消えていきました。

若ツバメは遊びたかったのでしょうか。

ハクセキレイ セキレイはあまり人を恐れないのでカメラは撮りやすいですね。でも、たった6倍ズームのデジカメなので、小鳥は厳しいです。今さらフィルムカメラを使う気はしないし。30倍ズームのカメラがほしいなあと思っているのですが、サイフはズームしないのでなかなか買えません。

今月は若ツバメのように過去に書いた記事と交錯しながら今を追いかけます。

三重県の多度大社と猪名部神社の伝統行事とされる上げ馬神事については2010年1月の「鯨はほえーる」で取り上げて以来、同年5月、今年1月と経過を追ってきています。県は県無形民俗文化財指定を取り消さず、馬の走路や駆け上る坂の改善、馬に対する直接の虐待行為をしない等、改善要求を出していました。

上げ馬神事 しかし、今月4日多度の神事を運営する団体の5人が 馬の虐待行為で逮捕されたというニュースが出ました。懲りない人たち、というよりは、さもありなん。と思いつつ記事を読めば、なんと2009年の上げ馬神事での立件でした。愛護団体が告発したのが2010年5月。ちょうど問題がクローズアップされていた時期です。

11日には県教委の定例会があり、今春の神事での状況が報告されました。猪名部神社では馬に小石を投げる、下腹部を蹴る事例と、馬の骨折事故による安楽死があったそうです。去年も事故による安楽死がありました。多度大社でも小石を投げる、叩く事例があったそうです。これでも改善が進んだとまとめられているので、以前はもっとひどかったわけですね。

行く春や鳥啼き馬の目は泪

5月にNHKスペシャルで『クジラと生きる』が放映されました。和歌山県太地町というよりは漁協に軸足を置いて、海外メディアや反捕鯨団体との、「撮る・撮らせない」の攻防をまとめたものです。

  番宣には「命を奪うということは何か、人間が生きていくということは何か。やがてその波紋は、家族、学校、そして町全体へと広がっていく」とありましたが、付け足しぐらいの扱いでした。「太地町に同情します」みたいな、勝ち目も展望も見えないという空しさだけが残る番組でした。スタッフは何を言いたかったのでしょうか。

今年2月にシー・シェパードの妨害による調査捕鯨中止に触れましたが、その時すでにアクセスできなかった日本鯨類研究所サイトは今も見られません。研究の質が低いとか、生体ではなく死体での研究は効率が悪いとかの批判も浴びながら、結局調査捕鯨の中断とともに消えてしまうようでは、やはり商業捕鯨だったのかという疑いを拭いきれません。

今は原子力発電にかかわる「まやかし」が次々と明るみになっていますが、捕鯨にもいろんなまやかしがあることは間違いありません。「クジラと生きる」という、よく耳にするこのフレーズにもまやかしがあります。「クジラで生きる」であって、決して共生しているわけではないのですから。

捕鯨賛成派の反論に、家畜だってクジラと同じ生き物ではないかという真っ当な意見があります。確かにその通り。それは嘘だと言える人はいません。しかし、「鶏と生きる」とか「豚と生きる」、あるいは「鶏との共生」とか「豚との共生」とか誰も言いません。「牛と生きる」というのなら辛うじてセーフというところでしょうか。しかし、児童文学の世界に近い。

日本語に厳しいはずのNHKが「クジラと生きる」と言うからにはこれが違和感のない表現だからで、日本人も欧米人と同じくクジラを特別視している証(あかし)だと思えます。日本人は日本文化にケチをつけられたと感じて反発しますが、日本文化はそんなに特殊な文化なのでしょうか。

言うまでもなく捕鯨先進国は欧米です。しかし、彼らの多くはすでに撤退しました。遅れてやってきたのは日本です。そして日本は残飯にたかるハエみたいに叩かれます。何かに似た構図です。それは帝国主義でしょうか? 『おじいさんのランプ』でしょうか?

そもそも僕はグルメじゃないから鯨肉にこだわりがないのかも。子どもの頃には食べていたはずですが、大人の人も肉が食べられないから仕方なしに食べていただけであって、美味しいと聞いた覚えはありません。

木内昇著『茗荷谷の猫』 作家、木内昇(のぼり)さんもグルメではないらしい。分不相応な店での会食で上品な料理に物怖じする自分の不甲斐なさを歎きながら、その一方で机をひっくり返して店中に「生きるために食えっ!」と叫びそうになった、と新聞コラムで告白されていた。

わっはっは。同類である。NHKスペシャルのスタッフさん。次は『クジラで生きる』でお願いします。

TVや新聞では栄養士や料理人が毎日こういうものをこれだけは食べる必要があると話しているのを見聞きします。まやかしだと思う。ちょっと昔まではそんなものは手に入りませんでした。粗食で元気に過ごしていたのです。毎日摂らなければならないのは水だけだと思う。

粗食の昔であっても僕らの世代以降は栄養失調なんて聞いたことがないのでは? 虐待を除いて、僕の知り合いで栄養失調になった人は人生で一人しかいない。学生時代、食費を書籍費にまわして入院してしまった先輩です。尊敬しました......(^_^) 栄養足りていますか、先輩!

『丸元淑生のシステム料理学―男と女のクッキング8章』 栄養学って必要のない理想を語っているんじゃないのと思っていた僕は一人住まいしていた時にこんな本を見つけました。『丸元淑生のシステム料理学―男と女のクッキング8章』(文春文庫)。地に足のついた栄養学とそれに基づいたレシピが載っています。

一部取り入れたものもあるのですが、アパートの一人住まいで、しかも小さな冷蔵庫しかない環境では実践できませんでしたけどね。

『粗食のすすめ』 (幕内秀夫著・新潮文庫) 貧乏生活を予感して近年読んだ本がこちら。電信局でも触れたことがある、『粗食のすすめ』 (幕内秀夫著・新潮文庫)。これはもっと実践できませんでした。なんだ、ダメなのばかりじゃん.......(^^ゞ 米をあまり白く精米しないようにしたぐらい。

この本にはカタカナ食品をひらがな食品にという提案があります。パンはごはんに、ムニエルを焼き魚に。なるほど。ラーメンを蕎に、ピザをお好み焼きに。ふむふむ。チーズを豆腐に、ピラフを焼き飯に。あれあれ。これは勘違いのススメ、みたいな話ですよ。

ピラフと焼き飯は同じじゃないかと思ったアナタは僕とおなじく料理音痴です。この本を読んだ時に僕は調べました......(^_^) ピラフは生米を炒めてからスープで炊く料理で、焼き飯は炊いたご飯を先に炒めてから卵を絡める料理です。じゃあ、焼き飯はチャーハンなのね、と思ったアナタ。甘いです。チャーハンは卵を先に入れます。

じゃあ、ご飯と卵を同時にフライパンに入れるのは?

知りませんよ。好きに呼んでよ、ですね。どちらにせよ、ピラフと焼き飯で栄養学的にそんなに変わりがあるとは思えません。説明がないので、意図不明です。

話が逸れていくのでこの辺で。いや、今回はすべてが逸れた話でした.......(^^ゞ

カタルーニャ国際賞授賞式での村上春樹氏 今の話題はクジラより原発ですね。賛成派と反対派の間で猛暑より暑苦しい。2009年2月の「卵のそばに立つ」で村上春樹さんのエレサレム賞受賞スピーチに触れましたが、今回はカタルーニャ国際賞授賞式でのスピーチが話題になりました。 カタルーニャはスペインにあります。そして、6月9日のスピーチタイトルは「非現実的な夢想家として」。

全文を読みました。彼は東日本大震災から話を始め、災害に耐える国民性として無常観と美意識について語った後、原爆と原発について言及しています。原発賛成派から見れば、村上さんはまさにタイトル通りの夢想家です。いつの時代も、いろんな所で、夢想家と現実家は相容れない対立を続けています。

日本が間違った道を選択したのは「効率」にあると彼は指摘していますが、僕は「利権」も付け加えたいです。「現実を見なさい」と言いながら原発を推進してきた人たちは今でも夢想家に「現実的でない」と言います。

しかし、今や夢想家たちが「現実家」たちに「現実を見なさい」という番になってしまっています。皮肉なことです。想定外だけでなく、想定内のことさえにも対策が講じられていなかった原発管理によって、未だ被曝を止められないという現実。事故前まで、「現実家」たちはそんなことは夢想だとせせら笑っていたのに。

坂口安吾(1906-1955)は「お前は甘いぞと言はれることが、我々日本人にとつては骨身にこたへる一大苦痛」と書いているそうですが、彼が死んでから半世紀以上たっても変わらない現実です。しかし、ジョン・レノン(1940-1980)が71年に『イマジン』を歌ったように、この現実は日本人に限ったことではないと思います。だからこそ、「非現実的な夢想家として」というスピーチが成り立つわけですよね。

人間が夢にも思わないことでも、それはいつか現実としてやってきます。人間が夢に見たことは、それもいつの間にか現実としてやってきました。夢を見る力を鍛えることは人類の未来に欠かせないこと。人間が滅びなければ、いつか『イマジン』で夢想された世界が現実になる可能性はあると僕は思っています。

なぜなら、この歌は40年経ても滅びないし、世界中に受け入れられているからです。

余震と被曝が続く東日本ですが、葬儀の問題もクローズアップされています。2009年10月の「ホトケの耳に念仏」では葬式仏教を取り上げました。今月初め、朝日新聞に「戒名料30万円で100人分の葬儀をして被災者から3千万円受け取るのか」という刺激的な文が載りました。

そういう言葉で知人から詰め寄られた石巻市の住職が無料で戒名を付けたという記事です。この住職は曹洞宗です。石巻市中心部と女川町の曹洞宗29寺の教区長も「法名料(戒名料)で檀家から批判を浴びることをしてはならない」呼びかけました。

ところが、気仙沼市の浄土真宗の住職は「震災犠牲者だけを特別扱いするのはおかしい」と戒名料を受け取っているという、慈悲のこころを失った話も書き添えられていました。こう要約すると、浄土真宗が悪者みたいに聞こえてしまうかもしれませんが、たまたまこうなっただけのことです。

実際、曹洞宗の陸前高田市の住職は「無償化が広がれば存続できない寺も出てくる。檀家との信頼関係を築き、戒名や葬儀の意味をきちんと伝えることが必要だ」と話しているのですから。この数百年間何をしていたの?というような話です。

世界中が特別扱いで被災者を支援しようとしているのに、いつでもだれでも一緒ですというのが仏教の平等なのでしょうか。その一方で、お布施をたくさん出してくれるお金持ちを特別扱いするのはどういう平等観なのでしょう。

人の不幸にあぐらをかいてまで存続させなくてはならない寺とは何なのでしょうか。菩提寺(檀那寺ともいう。檀家の布施で運営する寺)に未来はありません。宗教界の原発です。こちらには「効率」もなく、江戸時代から続く利権があるのみ。

東日本大震災での被災者に「頑張れ」と声をかける違和感を拭えなかったという朝日記者、安倍俊介さんのコラムが今月初旬に載っていました。池田小事件後十年という節目の取材のなかで、池田小事件の遺族に同じように愛する人を失った被災者にどのような言葉をかけるかと尋ねてみたといいます。そして、ある父親の言葉が紹介されていました。

「生きる意味を一生懸命探した。でも,生きる意味というのは必要ないんです。生きる意志さえあれば大丈夫なんです」

今年の3月と5月の通信の中で生きる意味について記しましたが、この方も僕と同じような感慨にたどり着いたんだなあ。

自然界にあるのは生きる意志。それに倣う。

十代の時に宮澤賢治の『春と修羅』に出会いました。ご存じのように、この心象スケッチの『序』はうちのサイトの中にも記しています。しかし、今では昔とは違う光を放っています。

『春と修羅』

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

たったひとりでこの世界に存在することはできません。セキレイもツバメも馬もクジラも鶏も豚も、人も幽霊も、自然も風景も、みんなといっしょだからこその存在、もうすこし丁寧に言えば、現象です。

実体のない現象としての僕たちは縁起しながら世界をただよい、いつの日か、いのちの有機交流電燈が失われても、その電燈が放っていた光はどこかの宇宙でたもたれるのでしょう。

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

アナログ放送終了お知らせ画面 今日の正午でTVのアナログ放送が終了しました。アナログTVの左隅でずっと嫌がらせのように大きく表示されてたカウントダウンともお別れ。人生の多くをアナログで過ごしてきた身には一抹の寂しさがあります。ご年配の中にはこの幽霊のようなヤツが理解できず、いまだ困っている方もおられるようです。

うちはTVをデジタル対応しましたが、レコーダーはまだです。というか、ただのプレイヤーになってしまいました。これも寂しいです。もうすこしレコーダーの価格が下がったら、次は懐が寂しくなるでしょう。

アナログ・レコーダーを、経験をかすれて再生するだけで新たに取り込むのが難しい自分のように卑近に感じてしまうのも、畢竟こゝろのひとつの風物です。



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