プリオシン海岸  プリオシン通信

こだま

あの鳴るすずはわたしのようにたくさんのうたは知らないよ


雨蛙と紫陽花
雨蛙と紫陽花


今日の小雨が降る中、まるで野原に自生する花束のような紫陽花に一点の染み。雨蛙くんでした。英語では tree frog (木蛙)と呼ばれます。どちらの言語でもこの蛙らしい呼び名です。

花束のような紫陽花 最初は染みにしか見えなかったものが雨蛙とわかったとたん、小さな心臓の音を立てる花束に見えてくる不思議。たった一匹のこんな小さな生き物もたくさんの花に負けず笑っていました。

さて、民主党政権が出来てからあまり政治問題に触れませんでした。去年8月に民主党トロイカ組を「3○○トリオ」と記してからでしょうか。あまり品のない書き方をしたくなかったので伏せ字にしましたが、そろそろ伏せ字はやめます。この三人組について「トロイカ?」と聞かれれば、「トロイです」と答えます。

歴代総理大臣のとろさは、自民党という永久政権にあぐらをかいていれば済む故の不勉強のせい、あるいは親の七光りのせいだと思っていましたが、これは僕の見当違いでした。長年支持していた管直人のとろさを見て、そう思わざるを得なくなりました。前任の鳩山さんは宇宙人という例外だったので、まだ自分の見当違いに気がつきませんでした。

民主党トロイカ 政治家という仕事は大変な職業です。評論家のように後出しジャンケンで批判していれば済む世界ではありません。あらゆるジャンルを勉強して、先出しジャンケンで実践していかなければならない厳しい仕事です。そんな世界で何十年も鍛えられたら、相当な見識と行動力をもったリーダーに育つのが道理というものです。

そういう中から代表ともいうべき総理大臣がそれとは遠い人物である齟齬(そご)が起きるのは、政権交代がないという民主主義システムの欠陥によるものが大きいと思い込んでいたのです。しかし、政権交代が起きても「政治家」が現れないし、今後も現れそうな展望が見えないという現況を踏まえれば、自分の考えに根本的な過ちがあったとする他ないようです。

管政権の退陣を求める自民党に政権を返したらどうなるのか。志位共産党委員長が自民党谷垣総裁に政権構想について尋ねたら、「確たる展望を持っているわけではない」と答えたいう低レベル。自民党の背中を押した公明党はもっとレベルが低い。永田町は「低レベル」汚染水で満たされてしまっている。せめて永田町の外へ漏れることがないように頼みます。

これは要するに、政治という世界は選挙を除けばそんな厳しい世界ではないということです。この世界では人は鍛えられない。集まったり分かれたりしながら、肩書きの取り合いに心を奪われ、国民の生活よりも自分の立場を優先する烏合の衆でしかなかった。そう思えば、東日本大震災の長引く混乱の中、被災者そっちのけで政局をもてあそぶ今回の騒動が理解できます。

国民全体から見れば東日本大震災の被災者たちは少数者だから、被害規模の大きさと被曝を止められないという事態の深刻さにも目をつぶることができるのでしょう。

もちろん、政治不在という状況を招いたのは彼らだけの責任ではありません。長年経済の好調に浮かれ、政治を軽視して「政治家」を育てようとしなかった国民の過ちです。

東の混乱のなか西では何が起きたかといえば、大阪府の「君が代」起立斉唱義務条例の成立です。橋下徹知事が代表を務める大阪維新の会以外の会派はみんな反対の中で可決されました。彼は違反を繰り返した職員は懲戒免職する規定を追加するつもりだとか。

先日はインドネシアの学校を視察して、「日本には国歌を起立して歌わない先生がいる。クビにしようと考えているが、日本で大変な問題になっている」と同調を求めるスピーチをして、君が代を歌っていました。いつものことながら乱暴な人です。詳細は何も語らず、都合のいいことだけ話して賛意を求める。

「問題になっている」のではなくて、「問題にしている」というのが正確だと思うけれど、事情がまったく異なる外国の学校でまで訴えるとは、おおさか府知事というよりは、おこさま府知事のような行動です。

永井愛著『歌わせたい男たち』 『歌わせたい男たち』(永井愛著)はいまだ健在なり......(^_^) 表面上、この人たちは国旗・国歌を敬愛しているフリをしているけれど、実は水戸黄門の印籠がほしいだけなんだと思う。

新聞の投書でも十年一日のごとし。曰く、「オリンピックで一番高い真ん中に日の丸が揚がり君が代が流れたら、日本国民なら手放しで喜ぶはずです」(53歳)。曰く、「自分の国の国旗、国歌を大切にできない人が他国の国旗、国歌を大切に思えるだろうか」(35歳)。

歌わせたい人たちの中には戦後教育を批判する人がよくいるけれど、投書子のように戦後教育を受けた人たちの中にもちゃんと戦前・戦中の教えを受け継いでいる人はたくさんいるんです。どうかご安心ください。

僕は特定の歌をうたうことを強制されるのは真っ平ごめんですけどね。国旗が日の丸であろうがなかろうが、国歌が君が代であろうがなかろうが、偶像崇拝みたいなことはしたくありません。

「歌わせたい男たち」もピンクレディーの「ペッパー警部」をフリ付きで歌えと強制されたらイヤでしょ? いや、そりゃうれしい!という人もいるでしょうけれど......(^_^) 歌いたい人だけで歌って踊ったらそれでいいだけの話。

日本国民にはいろんな人がいます。オリンピックに関心のない人。外国選手と知り合いの人。日本よりその外国が好きな人。戦争や差別で君が代が嫌いになった人。日本選手より外国選手の技が素晴らしかったと思った人。やむを得ない事情で日本国籍を取った人。鬱で喜べない人.......(^^ゞ 個々の事情や状況を見ずに、「日本国民なら」とひとくくりにするのはやめてほしいものです。

こういう人たちにとっては、祖国よりも日本が好きというイタリア人がもしいたら、きっと彼は好ましい人物でしょう。逆に祖国よりイタリアが好きという日本人がもしいたら、彼はどのような人物として映るのでしょうか。

掲げる国旗と焼き捨てる国旗 この画像は韓国人が日の丸を焼いているところです。太極旗は大事に掲げています。このように外国で日の丸を焼いているニュース映像が時々現れますが、その人たちは自分たちの国旗を大事に掲げて振っています。

日本でもたまに右翼が外国の国旗を毀損(きそん)してデモンストレーションしています。この例からは、自分の国旗を大切にしている人は外国の国旗も尊重するとは必ずしも言えないようです。

投書のように「自分の国の国旗、国歌を大切にできない人が他国の国旗、国歌を大切に思えるだろうか」という理屈に正当性はありません。自分の国の国旗・国歌を大切に思えない人でも、外国の国旗・国歌を尊重する態度は育ちます。

なぜなら、日の丸・君が代を愛する人たちを尊重する姿勢が、外国の国旗・国歌を尊重する態度に繋がるからです。つまり、それは他者を尊重する態度から生まれるものだからです。

ひるがえって、国旗や国歌はイヤだという人を尊重しない姿勢は、嫌いな国を尊重しないという態度に容易に結びつき、先に述べたように国旗毀損のニュースとなって現れると思えます。

同様に、歌わせることに熱心な東の石原慎太郎さんと西の橋下徹さんの過去の言動を思い起こせば、お二人の共通点は自分の考えと合わない人は尊重しない、というよりはバカにして排除したいという態度です。

考えが違うという理由で自分と同じ日本国民さえ尊重できない人が、どうして外国を尊重する人になれるのか、その方がとんと合点がいきません。

歌いたい人は大声で歌いましょう。歌いたくない人はしばし沈黙しましょう。

ところが、国だけでなく地方の公務員にとってはそうはいかない時代がやってくるのかもしれません。先月末から立て続けに最高裁で起立斉唱の職務命令をめぐる3つの裁判の判決が出ました。すべて石原さんの東京都を訴えた裁判です。第2小法廷、第1小法廷、第3小法廷とどれも原告である教員や元教員側の敗訴です。

最高裁判所 この裁判で原告が勝つ見込みがないことは明らかでした。ひとつは、最高裁が権力のそばに立つ存在であることは歴史が教えていることだからです。実際、3つの裁判を通じて14人の裁判官が意見したわけですが、そのうち多数意見に反対意見を述べたのは二人で、どちらも弁護士出身です。

もうひとつは、日本人の「起立」行為は生活の中で広範かつ曖昧な所作として法律的な判断にはなじまないと思えたからです。

例えば、学校の授業で挨拶するのに今でもたぶん教室では「起立!礼!」とやっているんじゃないかと思うのですが、これは別に教員に敬意を払っているような気があまりしない行為で、「この野郎」と内心思いながら礼をしても、ほとんど、あるいはあまり屈辱的な気持ちになったりはしません。普段の生活の中ではこういうことはままあります。つまり、それはある対象に敬意を払っているのではなくて、マナーに敬意を払っているからです。

裁判も斉唱だけに絞られていたら結果は微妙なことになったと思いますが、職務命令は「起立斉唱」と一緒くたにされています。法律を扱う人なら当然に、この二つの行為は分けて検討されるべきだと思いますが、3つの裁判を通じて、明確にそれを指摘した裁判官は14名中1名だけでした。

早速ネット上で「反日裁判官」とレッテルを貼られているこの人は第3小法廷の田原睦夫裁判官で、こう述べています。意見のまとめ部分から引用します。

他の引用も含めて読みやすいようにキーとなる文には下線を引きました。特定の意図はありません。引用すること自体が意図ですからね......(^_^)

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以上検討したとおり,本件各職務命令は,「起立して斉唱すること」を一体不可分のものとして発せられたものと解されるところ,上告人らの主張する歴史観ないし世界観に基づく信条との関係においては,本件各職務命令のうち「起立」を求める部分については,その職務命令の合理性を肯認することができるが,「斉唱」を求める部分については上告人らの信条に係る内心の核心的部分を侵害し,あるいは,内心の核心的部分に近接する外縁部分を侵害する可能性が存するものであるといわざるを得ない。
(中略)
憲法19条が保障する思想及び良心の自由には,内心の核心的部分を形成する思想や信条に反する行為を強制されない自由が含まれることは当然である。
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なんか常識的すぎて面白くも何ともないというふうに思えるのですが、そう思う僕はきっと「反日分子」となるんでしょうか。内心では起立もしたくないので、「反日分子」決定!でしょうか。日本で生まれ育ち、故郷に愛着を持ち、家族や友人も日本人で、日本文化にどっぷり浸かりながら、日本人のために働き、この日本で死ぬ覚悟をしているのになあ。

さて、反対意見を述べたもう一人の裁判官は第1小法廷の宮川光治裁判官です。この人はマイノリティ(社会的少数者)の観点から意見しました。引用します。

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憲法は個人の多様な思想及び生き方を尊重し,我が国社会が寛容な開かれた社会であることをその理念としている。そして,憲法は少数者の思想及び良心を多数者のそれと等しく尊重し,その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していないと考えられる。
(中略)
国旗に対する敬礼や国歌を斉唱する行為は,私もその一員であるところの多くの人々にとっては心情から自然に,自発的に行う行為であり,式典における起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし,そうではない人々が我が国には相当数存在している。それらの人々は「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし,平和主義や国民主権とは相容れないと考えている。そうした思いはそれらの人々の心に深く在り,人格的アイデンティティをも形成し,思想及び良心として昇華されている。少数ではあっても,そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみることができる
(中略)
多数意見は,式典における起立斉唱行為を,一般的,客観的な視点で,いわば多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる。およそ精神的自由権に関する問題を,一般人(多数者)の視点からのみ考えることは相当でないと思われる。
(中略)
国旗及び国歌に関する法律施行後,東京都立高等学校において,少なからぬ学校の校長は内心の自由告知(内心の自由を保障し,起立斉唱するかしないかは各教職員の判断に委ねられる旨の告知)を行い,式典は一部の教職員に不起立不斉唱行為があったとしても支障なく進行していた
こうした事態を,本件通達は一変させた。本件通達が何を企図したものかに関しては記録中の東京都関連の各会議議事録等の証拠によれば歴然としているように思われるが,原判決はこれを認定していない。しかし,原判決認定の事実によっても,都教委は教職員に起立斉唱させるために職務命令についてその出し方を含め細かな指示をしていること,内心の自由を説明しないことを求めていること,形から入り形に心を入れればよい,形式的であっても立てば一歩前進だなどと説明していること,不起立行為を把握するための方法等について入念な指導をしていること,不起立行為等があった場合,速やかに東京都人事部に電話で連絡するとともに事故報告書を提出することを求めていること等の事実が認められるのであり,卒業式等にはそれぞれ職員を派遣し式の状況を監視していることや,その後の戒告処分の状況をみると,本件通達は,式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく,前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができると思われる。
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長い引用になりましたが、国旗及び国歌に関する法律や学習指導要領、そして「入学式,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」のその経緯をきちんと踏まえ(ここまでは当たり前)、それまで平穏だった式典に混乱を持ち込んだのは都教委の側にあるとし、行政側の姑息なやり方まで踏み込んで批判した珍しい意見です。できれば全文を読んでほしいところです。反対意見は後半以降に記載されています。

裁判所
http://www.courts.go.jp/
平成22(行ヒ)124 行政処分取消等請求事件
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110606165018.pdf

この裁判官の意見が多数意見になるような時代はやってくるはずもないことですが、本来裁判所が実現しなければならないこと、つまり、今では古臭くなってしまったけれど「正義とは何か」という真っ当な問いが思い起こされます。

僕も昔は原告たちのように、その歴史的経緯から「日の丸・君が代」は敬遠したい口でしたが、すでに国民多数に広く受け入れられている現実からそれを尊重しようと思うようになりました。「君が代」の暗い調べはやはり好きにはなれませんが、元気に大声では歌いにくいこの歌は、人前で歌うことに含羞(がんしゅう)を覚える国民性から言って案外ふさわしいのかもしれません。カラオケを発明した国なので今さら含羞などないのでしょうけれど。

僕はただ「日本の子そこのけそこのけお国が通る」が嫌なだけなんです。

大人になってから国旗を掲げる家庭を見たことがありません。子ども時代は見ました。どこでかって? 実は我が家です......(^_^) 小学校の担任教師に言われて祝日には玄関に掲げていました。父の渋い顔を覚えています。

歴史では、この先生が話してくれる大昔の合戦から現代の戦争まで、どれも血湧き肉躍る話ぶりがとても面白かったです。僕らを担任した翌年は教育委員会へ異動されました。

誕生日だとか、結婚記念日だとか、米寿だとかのお祝いに、あるいは建国記念日に国歌を歌うお家は皆無だろうと思います。「歌え」という人たちも家ではさっぱり歌いやしません。しかし、公の空間に出ると「国」という抽象概念をほしがるのはなんでしょうか? これって病気だと思うんですけどねえ.....m<_ _>m 僕もいろいろ病気持ちですから、もちろん「お国大好き」を尊重します

「日本鬼子」、「小日本」。 ご存じのように、日本人や日本を罵倒する中国語。尖閣諸島問題の中国デモでやはり叫ばれたこの言葉は日本のネット上で「ひのもとおにこ」と「こひのもと」という萌えキャラになって登場しました。なるほど、「鬼子」は日本では女の子の名前として受け取れますからね。これに対して中国のネット上では戸惑いが広がったとか。ちょっと笑える事態です。

日本鬼子 顔が見えないのをいいことに罵倒がエスカレートするのがネット界の常識。たぶん、今まで「日本鬼子」も「小日本」という言葉にも出会っていなかった若い世代が生み出した対応だと思われますが、今までのように非難の応酬に発展させず、ベントするみたいに怒りの蒸気を外に出す智恵は石原さんや橋本さんよりも大人の対応というべきものがあります。

中国人は「日本鬼子!」と叫んでも、今や日本の萌えキャラのファンだと勘違いされるかもしれない恐怖と闘わねばならず、日本人もついつい萌えキャラを連想してしまうので、あまり腹も立ちません。

大阪維新の会 国が異なれば少なくとも二つの見方があります。個人なら、その数だけそれぞれの見方があります。日本人はなにかあれば一つにまとまれと規制が働きますが、それは団結とは別ものだと思います。

民主主義がなんでも多数決で済ませてしまう制度なら、とてもおぞましい制度です__かつてそんなことを書きました。この国には「ごめんなさい」とすぐに謝ってしまう民族が住んできました。謝れば許すという、暗黙の了解があるからです。それほどに寛容な文化を育んできた国です。宗教にもそれは顕著に表れています。そしてガラパゴス的進化を遂げてきた童謡にも........

金子みすゞ童謡集『わたしと小鳥とすずと』   ---------(『私と小鳥とすずと』)
  わたしが両手をひろげても、
  お空はちつとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のやうに、
  地面(じべた)を速くは走れない。

  私がからだをゆすつても、
  きれいな音は出ないけど、
  あの鳴るすずは私のやうに
  たくさんの唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがつて、みんないい。
  ---------

金子みすゞのこの詩に拒否感を持つ人はまずいないことでしょう。なのに詩集からちょっと目をそらして、日常に還るとたちまち目はくもりだします。

  ---------(『こだまでせうか』)
  「遊ぼう」つていふと
  「遊ぼう」つていふ。

  「馬鹿」つていふと
  「馬鹿」つていふ。

  「もう遊ばない」つていふと
  「遊ばない」つていふ。

  さうして、あとで
  さみしくなつて、

  「ごめんね」つていふと
  「ごめんね」つていふ。

  こだまでせうか、
  いいえ、誰でも。
  ---------

こちらはAC公共広告機構のCMで有名になった詩です。たしかに僕たちは共感できる言葉を持っています。でも、目がくもり出すと、小さな声に耳をふさぎ、声高な物言いにこだましてしまう悪い癖も持っています。

この詩は「木霊(こだま)」のことを描いている振りで書き出しながら、ほんとうは「人霊(ひとだま)」の有様を描いています。そして、東日本大震災では国全体から見ればマイノリティですが、多くの人魂も生まれました。

政治をあきらめている人はそれでやっていけるのだからいい。でも、政治でしか救われない人がいます。政治家とはその人たちのために働く人ではないでしょうか。「立て!」だの「歌え!」だので誰が救われるのでしょうか?

たった一匹の木蛙の小さな鳴き声をみんな黙って聞く大きな紫陽花のように、政治家のみなさんにはたくさんの人霊と、たくさんの人魂の想いがこだまとなって伝わりますように。



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