プリオシン海岸  プリオシン通信

めちゃくちゃ

生きなくちゃ


中州に咲く菜の花 
中州に咲く菜の花


昨年末に書いた「菜の花畑」を探しては見たけれど、畑一面の菜の花を見つけることはできませんでした。残念ながら菜の花畑で青い空を見上げる希望は叶いませんでしたが、これは精神的な問題ゆえではなくて、そんな畑がないという農業産業問題です......(^_^)

この辺りでは菜の花は一面に植えるようなものではなくて、畑の一角で慎ましく育てられています。

先日、野菜農家の男性が自死したというニュースを知りました。30年以上前から有機栽培に取り組んできた福島の人です。

先月の「シネマ短評」で『ヒア アフター』の津波シーンのリアルさに驚いて、暢気にコメントを書いておりましたが、その後起こった東日本大震災被害の甚大さには恐れおののきました。被災者の皆さまにお見舞い申し上げますという、通り一遍の言葉では到底語れません。相も変わらずめちゃくちゃなことを書くことしかできません。

僕は世界を構成している基幹となる宇宙は人間のためにあると思っています。宇宙が人間の存在に適しているのはそうでなければ人間は宇宙を観測できないからだ、という「人間原理」。「プレシオスの鎖」に書いた「天上のアイスクリーム 」のページを読んでもらってもその一端はわかってもらえると思いますが、悪く言えば人間中心主義の究極だとも言えます。

人間が認識することによって世界は成立していると考えるその一方で、大災害が起こる度に、地球は人間のためにあるのではないとしみじみ思い知らされます。地上の生き物はまったく地球に生えたカビでしかありません。

たぶん仏教の無常観の源泉はここに理由があるのではないでしょうか。

生き残った人と生き残れなかった人の間にたぶん何の理由もありません。生き残りたかったと思っている死者がいる一方で、死んだ方が良かったと思っている生者もきっといることでしょう。そして、やはりたぶんですが、生死の分かれ目とは逆になんらかの理由があるでしょう。

日本のために世界の多くの国が救援に駆けつけてくれ、祈ってくれています。29日付け新聞では救援申し入れ国は137ヶ国になるそうです。日本人はみんな諸外国に感謝していることでしょう。その一方で世界では毎年、いえ毎日が被災の現場のような国で生きている人たちもいます。しかし、時々TVや新聞の片隅で報じられる程度でしかありません。

世界は神さまが造っているのではなく、人間の認識によって成立しているので平等ではないと思います。年配の方は今回の大震災をまるで戦争のようだと思われた方もきっといらっしゃるでしょうが、たしかにかつての日本の戦争でもこれが日常でした。そして今もどこかの国の戦争の日常であり続けます。

福島の自死した男性は原発の放射能汚染による被害からくる心労で絶望されたようです。僕が学生の頃は原発問題がずいぶん議論されていた時代でした。広瀬隆というジャーナリストら、反原発派からの批判は国や企業を含む専門家たちからの反論で次第に下火になっていったように思います。

そんな想定もできないような危険まで大げさに言うなという専門家たちの意見に慣らされながらも、大企業の社員たちはタッチせず、下請け作業員たちが季節労働者のようにあちこちの原発を移動しながら放射能を受け続けているという広瀬隆のルポは、今でも記憶に強く残っています。

つまり、1基での作業で想定された基準なのに、それを他の原発でも作業を担うから基準を超えてしまう危険性の指摘です。それが今回でも明らかになった現実です。

人間の想定は認識できる範囲でしかないから、これは想定された時点ですでに破綻しているか、いつか必ず破綻します。原発は一般人にとってはブラックボックスで、過去には専門家が言うから大丈夫という根拠のない漠然とした安心感、そして、それが破綻した今はその程度の放射能なら安全と言われても、やはり根拠のない漠然とした猜疑心でいっぱいになっています。

愚かなことです。しかし、この愚かさが人間の現実です。

石原慎太郎都知事が訂正謝罪した「我欲」論で人は死んだのではありません。これは天罰だと叫びたい宗教者もいるかもしれません。でも、僕は地球が生きているから動いただけだと思うし、大勢が死んだことに理由などありはしないと思います。

きっとほとんど人がそうであるように、僕も十代から生きることの意味を探し求めながら、今では人生に意味はないと思うようになりました。それなら生きることに価値はないのかと問われれば、その問い自体に意味がないと応えるほかありません。同時に、生あるのもは生きなくてはならないとも思うようにもなりました。

その理由は何かと言えば、何もありません。人生に意味はないという帰結から言えば当たり前のことです。めちゃくちゃ言っています.......(^^ゞ しかし、この世に生まれ落ちた瞬間から、僕たちはきちんと整えられた世界ではなく、不条理というめちゃくちゃな世界に放り出されています。翼をもがれた鳥のように。

生あるものは理由なくして生きなくてはならない。だから、時に辛くなるのです。

もう十年以上前のことだったと記憶しますが、なぜ人を殺してはいけないのか?という若者からの問いに大人は答えを求めて右往左往した時期がありました。そんなものにもやはり理由はない。

戦争が起これば人は殺さなければならないのだし、日本では死刑と決まればやはり受刑者を殺さなければならないのだから。ルールが変われば人を殺してもよい世界のどこにそんな答えがあるでしょうか。

狼は狼を殺すことができませんが、人は人を殺すことが許されている存在です。だから毎日殺人がある。しかし、人は人を殺してはいけないのです。理由なんかない。問われなければならないのは、その問い自体の方にあります。なんにでも理由があると思うのが大間違い。若い頃の自分がそうだったなあ。

生き残った方はあらゆる助けを求めて生きてほしい。助けを求められた我々はそれに応えられるだけの共感と智恵でやはり生き続けなくてはなりません。

この世界に落ちてきた僕たちは「落下」という理由だけで生きなくてはなりません。どうか生きてください。

菜の花畑を探していて見つけたのは、小さな川の中州に咲いた一株の菜の花。一雨ですぐに増水するような川の中で踏ん張って咲いていました。君もめちゃくちゃなところで花を咲かせたものだね。

自然界の生き物はみんな理由なく「生きなくちゃ」という姿を見せてくれています。人も自然の一部です。自然に倣ってみんな一緒に生きていきましょう。日本にはそんな気分を手伝ってくれる春がやってきます。



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