プリオシン海岸  プリオシン通信

ホトケの耳に念仏

葬式仏教にシビレル


秋雨に煙る田園
秋雨に煙る田園


雨空の日が続いていましたが、昨日はよく晴れて中秋の名月でした。夜空もよく晴れ渡り、その名にふさわしいきれいな顔を見せてくれました。

今日はF1レース決勝でエンジン音が響く日です。こんな日は市民としてはひっそり家にいるに限ります。弟宅では知り合いの子どもを預かり、その親たち大人はサーキットへ行ったそうです。

子どもは「あれは大人が見るもので、子どもが見るものじゃないから、私は行けないの」と言っているとか。

大人はいつもこうやって子どもを騙して、いけませんね。F1レースは車の最先端ですが、今回は宗教の最後尾の話でぐちります。

今年は寺世話をやっています。都会の人には未知の領域でしょう。簡単に説明すれば、「同行」という同じ宗派の地域グループの連絡係というところでしょうか。

1年を通じていろんな行事がありますから、その度ごとに連絡や集金やらの雑事をします。先日も斎米(ときまい、時米)と修繕費を集めて寺へ持って行きました。

こうして僕はきちんとした(^_^)仏教徒に見えるわけですが、実際は全く信仰してません。自分が死ぬときは直葬(葬式をしない)、散骨(墓に入らない)でいきたいと思っています。

父に代わって若いときから法事に出掛けていましたから、数十年も唱え続けてウンザリの念仏なんて、自分が死ぬときぐらいは聞きたくないもんです。

「もう聞けないって!」 そんなこと死ぬまでわかりませんよ......(^_^)

仏教の五戒のひとつに「不妄語戒(ふもうごかい)=うそをつかない」があります。うちは浄土宗なので「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)=わたしは阿弥陀仏を信じます」というウソを念仏の度につきます。一回の読経で100回ぐらいは繰り返し唱えますから、どれだけのウソつきか恐ろしくなります。

五戒=  不殺生 ・ 不偸盗 ・ 不邪淫 ・ 不妄語 ・ 不飲酒

その一方で、お釈迦さんの教えは人類最高の哲学であると僕は思っています。日々役に立つ実用の哲学です。だからこそウソをつくのは恐ろしいのです。

今までにも時にお寺・教団の批判をしてきましたが、せんじつ真宗大谷派の住職さんが「お経は日本語で」という投書をしていました。このお坊さん、寺に生まれながらも、読経を「珍紛漢文(ちんぷんかんぷん)・意味不明」と疑問を抱いてきたそうです。

浄土宗の「四誓偈」の一部 至極妥当な疑問です。そして、お経の日本語訳読経に一番抵抗を感じるのは宗門の僧侶たちだと書いていました。「ありがたみがない」のだそうです。日本人はこういう意味不明の権威に弱い......(^_^)

信者に意味不明であるからこそ、権威があるかのような錯覚に信者も僧侶も陥るわけです。では僧侶たちには意味明瞭なのか?と問うことはやめておきましょう。

僕がこの住職さんに一番感心したのはお経を「『慰霊鎮魂の呪文』ではなく、個々の自覚と他者との共存の智慧と実践の書です」と要約していたところ。的確な表現だなあと思いました。

今朝の新聞にも臨済宗神宮寺の住職さんの意見が載っていました。曰く、「大半の寺院は世襲と家業化が進み、檀家制度というシステムに安住し、社会の苦とは向き合えていない。葬儀でも通り一遍のお経をあげるだけで、納棺にすら立ち会わないお坊さんも多い。寺の門も夜は締め切っているところが大半でしょう」。

日本での仏教の歴史も長くなるので、ずいぶん昔から葬式を仏教でやってきていると思い込んでいる人がいますが、庶民は江戸時代の檀家制度(寺請制度)に組み込まれてからです。

それまでは仏教は葬式にかかわっていませんでした。地域の共同体で葬送していました。かつて仏教国であった韓国は今でも基本的に仏教は葬式にかかわっていません。

徳川幕府は寺院が抵抗勢力にならないように寺院法度を制定して、本山を頂点として無宗派の寺までプラミッド状に組織化させて管理する一方、キリスト教対策としては檀家制度を導入して、菩提(檀那)寺に寺請証文という国内パスポートを発行する権限を与えました。

寺請証文 檀家は寺に従属していないと寺請証文がもらえないので、旅行や引っ越し、結婚や奉公などができなくなる仕組みです。そのために檀家は菩提寺を経済的に支える責務を負うことになり、菩提寺からは葬式や法事が提供されることになりました。

先日、僕が斎米と修繕費を納めに行ったのはこの責務が今も続いているわけです。もう寺請証文は不要になりましたから、現在は一方的に檀家が負担をしているわけです。葬式や法事も檀家だからといってタダで来てくれるわけではないですから。タダどころか法外な値段ですよね。

こうして徳川幕府の宗教政策によって日本仏教は滅び、葬式仏教という新しい習俗が始まることになったわけです。辛辣な書き方でお坊さんは不愉快でしょうが、現在の状況を見てまともに反論できる方はいないでしょう。

現在の伝統仏教の宗派は江戸時代に寺院をピラミッド化した本末制度によって決められたものですが、それがそのまま現代まで続いています。要するに、宗派もやっていることも江戸時代のまま時間が止まっている世界なのです。

伝統仏教は徳川幕府に押しつけられたはずの枠の中に安住して惰眠を貪り、未だ目が覚めない。これではその時代に生きている人々を救えるはずがないし、救おうという気概も見えないのは道理です。

明治期に入って廃仏毀釈が起こりましたが、これなんかは明治政府の政策や神道側の反撃だけでなく、民衆の寺院への怒りがあったはずです。この怒りは国家神道への原動力にもなったわけで、僧侶の罪は深いと思います。

神道側の反撃と書きましたが、逸脱と言った方がいいのかもしれません。神道は信仰というよりは習俗としての儀式として定着していたわけですから。結婚式、地鎮祭、七五三など、庶民は儀式として今も受け入れているわけですよね。それが国家と結びつくことになったために多くの過ちが引き起こされました。靖国神社はそれが結実したひとつです。

国柱会の曼荼羅 宮澤賢治は父親が熱心に信仰していた浄土真宗を批判して在家仏教団体である国柱会に走りましたが、こういうことと無縁ではないでしょう。

江戸時代に入って儀式化した仏教は堕落し、明治期に儀式から逸脱した神道は過激化、両者ともに戦争を鼓舞して国を滅ぼします。敗戦後、神道は儀式に立ち返り、仏教は何も変わらないまま今に連なっているとまとめられるでしょうか。

葬式の話からずいぶん広い話になってしまいましたが、お釈迦さん自体、遺骨の供養は在家にまかせ、出家者はかかわるなと言ったそうです。まあ、昔々の話ですけど......(^_^)

生者にはお経を語らず、ホトケに向かってお経を唱えるお坊さんとは、宗教者ではなく、ただの葬儀業者です。悩んでいる時に住職さんに相談しようと考える人は皆無でしょう。檀家の人々がどんな様子か気に掛ける住職さんもほぼ皆無でしょう。

例えば法事に来ても家族の様子を尋ねないお坊さんが大半でしょう。だから、宗教者ではないのです。

死者に聞かせるために書かれたお経など一巻もないことをお坊さんはどう理解しているのでしょうか。

お盆には棚業(たなぎょう)があります。お坊さんが檀家を廻り、仏壇の前で念仏を唱えていきますが、寺世話はお迎えして各家に付き添って廻り、代理で御布施を受け取ります。

本来は菩提寺のお坊さんが来るわけですが、うちの菩提寺は檀家数がうちの村総世帯の十倍はある大寺のためか他所のお坊さんが来ます。

同行でこんなことはもうやめましょうと相談して、昨年に棚業を遠慮する旨を寺に申し入れましたが、お寺はそんなわけにはまいりませんとの返事。それなら付き添いだけはやめさせてもらいますと昨年の寺世話が申し入れました。

ところが、今年付き添いがなかったとお寺からお叱りがきました。どうもきちんと伝わっていなかったらしい。率直にお詫びしました。しかし、やはり付き添いはしませんと伝えました。

結局、来年からはおたくの同行の棚業には行きませんという返事がきました。お盆に供養に行かないなんてことはできないということだったのに......

お坊さんとは敬われるべき偉い人なんだなあとあらためて教えてもらいました。

位牌 また別のお叱りは戒名。院号は檀家から求められて付けるものではないので、その旨を周知してくださいとのこと。最近、同行内で二軒の葬儀を出しましたが、どちらも院号が付く戒名をもらっていました。

調べてみると、最初のお家は確かに院号を頼んでおり、二軒目は何も頼んでないが院号が付いてきたとのこと。どちらもそれに見合うだけのお金を出さなかった様子。

院号とは身分の高い人やお寺に尽くした人に付けられる戒名です。このこと自体、差別を含むので「本来」とは言いたくないですね。近頃は大っぴらに院号をお金で売る寺も多いようですが、これは確かに菩提寺の言う通りなので従いました。しかし、戒名は本来は洗礼名と同じく、仏教徒になった時に頂くもの。

戒名を死んだ時点で売るというのは、やはり宗教行為ではなくて、ただの習俗に過ぎません。

日本のお坊さん(住職)は宗教者ではなく、葬儀や供養という習俗のマナー指南役というのが適当な「語意」だろうと思います。

こうして見てくると、日本では人は死んで初めて仏教徒になると言えます。ホトケになったので戒名を付けてもらい、初めて向き合ってお経を聞かせてもらうのです。ただし中国語ですから、死ぬ前に勉強しておいてください......(^_^)

生前は読経するお坊さんの背中ばかり見ているんですよね。宗派によっては読経のあと説教をするお坊さんもいますけど、一部でしょう。

法然上人像 葬式の後も何十年と追善供養が続くことになりますが、浄土宗系なら念仏を唱えさえすれば極楽往生に行けるはずなのに、五十回忌とかまであるのは50年もまだ往生できていないということになりますよね。

そもそも葬式の後に永代供養の代金を払いますが、「永代」ですよ。お坊さんと付き合っていたら永遠に往生しそうもないのです。

だから、僕は直葬で往生したいです......(^_^)

浄土宗開祖、法然のことば
(『法然上人御遺訓一枚起請文』より一文抜粋)

唯往生極楽の為にはなむあみだ佛と申てうたがひなく往生するぞと思ひ取りて申外には別の子細候はず

浄土真宗開祖、親鸞のことば
(『歎異抄』より一文抜粋)

親鸞は父母の孝養のためとて一返にても念仏申したることいまだ候はず

目の前に最高の哲学があるのに、お坊さんのお陰でただの習俗に貶められ、意味不明の呪文を退屈しながら聞かされる。我らは、足の痺れよりも忍耐の痺れがよく切れないものだとほとほと感心するしだいです。しかし、もう僕らの後の世代に通用するとは思えません。

村の中でもすでに同行が消滅してしまったところがあります。家ではなくセレモニーホールで葬式を行い、食事も料理店でするようになったため、同行で助け合うような仕事がもうありません。うちの同行の息子たちも同行なんてごめんと言っているようです。

21世紀の廃仏毀釈が静かに進行していることを寺院は自覚しているのでしょうか。「馬の耳に念仏」と諺は笑うけれど、僕はほんとうの仏教が興るまで「ホトケの耳に念仏」と笑います。



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