プリオシン海岸  プリオシン通信

卵のそばに立つ

ハンプティ・ダンプティじゃないから


冬のカモメと船
冬のカモメとコンテナ船


イスラエルのガザ攻撃が世界的な非難を呼んでいる中、村上春樹さんのエレサレム賞決定に民間団体が辞退を要請していたので、村上さんはどうするかなと思っていました。村上さんは15日、受賞した上でイスラエル批判をする選択をしました。

記念講演中の村上春樹氏(朝日新聞) 賢明な選択だったと思います。政治に対してほとんどコミットメントしていなかった村上さんは近年その姿勢を変化させてきていただけに、たぶんそうするだろうと思っていました。

あまりにも多くの人から行くべきではないと言われ、言われたことと反対のことをするのが好きだから来た、という気持ちは天の邪鬼にはよくわかる......(^_^) 行くのが正しいとか正しくないとか、そんなことはどうでもいいこと。意思表示することこそに意味がある。

しかし、受賞講演の写真を見て、村上さんもいつの間にかじいさんになっていたのでびっくり。こっちも老けるはずだわ......(^_^) (記念講演中の村上春樹氏 from 朝日新聞)

「ヘップバーン」のページで触れた故スーザン・ソンタグも2001年に受賞してパレスチナ政策を批判しました。2003年にも故アーサー・ミラーがビデオ講演で批判しています。隔年の文学賞なので、近年は賞を授けてその講演で批判されることの方が多いという、おかしな事態になっているわけです。

文学で賞を授けたわけだから、国の政治を批判されてもちっともおかしな事態ではないという向きもあるでしょうが、僕は人間は政治的な生き物だと思っていますから、何事も政治と切り離すことはできない。勝手に言っときます.......(^^ゞ

イスラエル文学賞の関係者はそれなりに立派であると考えるべきか、その批判に一向に応えようとしない頑なさを非難すべきか迷うところですが、ほんとうはどちらの「べき」でもなく、世界中の文学者が智恵を絞ってもらいたいと思います。なぜなら、暴力に対抗できるものはきっと言葉だろうと思うからです。

Please do allow me to deliver a message, one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:
"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."
Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.

(中略)
Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: it is "The System." The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others--coldly, efficiently, systematically.

Haaretz Israel News "Always on the side of the egg "
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html

高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ。どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵側に立つ。壁とはシステムであり、卵とは魂をもった人間だ、と説明されています。たぶん.......(^^ゞ

報道で要約を知りましたが、違和感を覚えたので原文全文を探して読んでみました。やはりすっきりしないな。システムが抽象的すぎてその実態が見えてこない。これはパレスチナ政策の批判に成り得たのだろうか。あるいは別の意図があったのか。でも、そんな村上さんのスピーチの一節に思い出したことがあります。

何が正しく、何が正しくないかというような判断は、この複雑な世界では全く当てにならない。たぶん多くの人が心の底ではそう思っているでしょう。僕もそう思います。しかし、現実の社会で生きていく上では、この判断をせざるを得ない。そうでなければ真っ当な世の中を築けないと思っていました。

もうずいぶん昔。議論が尽きない職場にいた時に、それが正しいか、正しくないのかをしっかり考えて意見を言っていました。自分でも厳格すぎると思えるほどに。人は組織の中では人間関係を絡めてしまいがちですが、人物の好悪でその側につくようなことは決してしませんでした。当たり前のことですな。

でも、スローシャッターの写真のように時々ブレる自分がいるのにいつしか気づくようになりました。正しいか、正しくないかを横に置いて意見している自分を見つけました。たぶん周りの人々はまだそれに気づいていない。なぜなら屁理屈も含めて理屈屋でしたから、適当に粉をまぶしてごまかせる......(^_^) でも、いつかブレに気づいて、なんだ公明正大はフリだけかと責められるのではと内心びくびくしていたのです。

しかし、ブレを自覚できても改めることができませんでした。そのブレがどこからやってきているものか自分でもわからなかったからです。

その職場を離れる時が来ましたが、とうとう最後まで責められることはありませんでした。でもまさにその時、僕のブレに気づいている人がいたこともわかりました。その方は送別の手紙を下さって、僕の言動についてこう記していました。

「あなたは正しい者の味方ではなく、○○の味方になろうとしているように見えました。」 「○○」は僕が伏せ字にしましたが、この方はクリスチャンだったせいか、それらしい言葉遣いで記してありました。いまここでだれが一番つらい思いをしているかという視点が、正しいとか正しくないとかいう価値基準を蹴り飛ばしてしまっていたのです。村上さんの「always」とは違って、僕がいつもそうであるはずもありません。どんな悪人でも、悪人でない一瞬はあるのです。

振り返って考えてみると、正しいとか正しくないとかいう基準ではなく、このブレた視点でいろんな問題が解決できたことは間違いありません。少々理屈が通っていなくても 「仕方ないか」とか「気持ちは理解できる」とかいう妥協を喚起する力があるのです。最高をスタンダードにしたら、ほとんどみんなこぼれ落ちるけれど、最低をスタンダードにすればみんな拾い上げられるという道理です。どうも人間というものは、筋の通った理屈よりも、たとえたったひとりの人でも大切にできるなら、その道理を尊重するらしい。

さて、これは約8年前のお話。うちの「電信局」で知り合った人たちが何回か東京でお茶したり、お芝居を見に行ったりして仲良くしていたことがありました。でも、どういう行き違いがあったのか一部でトラブルがありました。

東京が遠いので自らオフ会をしたことがなかったのですが、うちのサイトが集まりのきっかけになっていただけになにか対応をすべきか迷いました。しかし、その場の事情もわからない自分が首を突っ込んではかえって問題を複雑にすると思ったことや問題を触れ回ることになりかねないこと、そしてその時の関係者も当然ながら一様に沈黙していたこともあって、電信局では一切触れないことにしました。そして、いつか触れる機会が来るから、その時を待つことにしました。

僕が沈黙したことは正しかったかもしれませんが、同時に無責任でした。事情が何もわからなくても、正しいとか正しくないとかそんなことはどうでもいいことなんだから、僕には何かできることがありました。残念ながら、僕はその時まだあの送別の手紙をもらっていませんでした。

卵のそばに立つ。僕がしなければならないことはただそれだけのことでした。あの時ならお二人のそばに立つことでした。それなのに僕はどちらのそばにも立ちませんでした。わざわざ「そば」と平仮名で書くのは「がわ」ではないからです。

『鏡の国のアリス』のテニエル挿画・ハンプティ・ダンプティ
『鏡の国のアリス』
テニエル挿画
   Humpty Dumpty sat on a wall.
   ハンプティ・ダンプティが壁の上
   Humpty Dumpty had a great fall.
   ハンプティ・ダンプティが落っこった
   All the king's horses and all the king's men
   王様の馬ぜんぶと王様の兵みんなでも
   couldn't put Humpty together again.
   ハンプティを元に戻せなかった

マザー・グースに登場するハンプティ・ダンプティ。人間は壁の上のハンプティ・ダンプティのように、いつも危なげに立っている存在です。でも、人間はハンプティ・ダンプティとは違います。落ちたらだれも押し上げられないのではなく、だれかの力を借りてまた壁に押し上げてもらっているのです。そしてまた墜落する.....だからこそ、だれかがそばにいなくてはならない。

村上さんはパレスチナとイスラエルを隔離する壁から連想して、システムを「壁」と比喩したのでしょう。パレスチナ人がいつも卵側ではないし、イスラエル人が必ず壁側であるわけではないように、ひと個人も同じです。その時その場で一番危うげな卵のそばに立つ。その覚悟が僕にはありませんでした。いつか責任を取れる日が来ることを願っていましたが、それは叶いませんでした。

新聞の訂正記事のようにひっそりと片隅で心苦しいですが、いつの日にかこのページが目に留まって僕のお詫びの気持ちが伝わることを願います。

同じ卵の話でも、世界的な話から身辺の話へと、ずいぶん矮小化した話の流れだと眉を顰めた方もいらっしゃるでしょう。でも、僕はやはり同じ重さの話だと思っているのです。大げさに言えば、パレスチナ問題も「がわ」 (on) ではなく、「そば」に (by) 立つことこそが解決に繋がると思っているのです。


2009-02-27

このページのトップへ


プリオシン海岸トップへ