プリオシン海岸  プリオシン通信

モジ仮説

文字が劈(ひら)くもの


今回の金融というよりは経済危機で、ますます就職が難しくなってしまいましたね。滑り込みセーフでもなんでもいいから、頭から突っ込まないと難しいのかな。原油や穀物の価格急騰は投機マネーとは関係がないという実業家や政治家もいたけど、なんのことはない、今回の危機で暴落し、投機マネーの仕業であることが暴露されてしまった。

持てる者たちが経済市場で宴を開き、生活現場で持たざる者が泣かされる。性善説に立つ共産主義が失敗したように、やはり資本主義も性善説に立っていては失敗するに決まってる。資本主義も強い規制がないと成り立たないシステムだ、ということが今回のクライシスでアメリカさんもわかってくれたかな。わからんだろうな。

人間ってそんないいものじゃないです。人間っていいもんだな、という部分もありますけどね。先週は長年考えている問題のヒントになるようなことがありました。

万葉仮名の木簡 この土曜日でしたか、木簡から最古の万葉集の歌が見つかったというニュースです。記された文字は言うまでもなく、漢字の輸入によって文字を知った日本人が大和式に使った万葉仮名です。

「asahi.com 7世紀の木簡に万葉の歌 奈良・石神遺跡、60年更新」 より

万葉仮名という、この漢字の使い方の見事さはその工夫の妙よりも、「いで(出)」が「山上復有山」だったり、「ぶ」が「蜂音」だったりするように、まるで言葉遊びをしているかのような、文字を使う喜びに溢れているカンジを僕は受けます。

これも先日のことですが、気になるTV番組がふたつ。一つは『ためしてガッテン』で文字のイメージが脳に収納されていることがわかったというもの。今頃見つかったのか、という感じですが、人はこのイメージを参照して字を書いているとのこと。脳内の個人癖がついたイメージがそのまま手に現れているというのは面白かったね。

星野富弘著書 星野富弘さんも登場していましたよ。手で書いていた頃の文字と、口で書いた文字が同じ筆跡になっていた。

このイメージが保存されているのは言語野ではなくて、後頭部。これは意外だった。同時に、「なるほど」と思った。なぜかは後で書きます。

もう一つはNHKスペシャル「病の起源」。このシリーズは見ていないけど、読字障がい (ディスレクシア Dyslexia) が特集されていたから今回は見た。この障がい、簡単に判定できないと言いながらかなり断定的な解説だったなあ。読字障がいはまだ研究が始まったばかりなのか読める文献がないので、僕はいまだ詳細がわからない。

番組では文字イメージを音声化して言語野へ送り込んでいるフィールドは39野・40野だということ。読字障がいはこのフィールドがうまく機能していない。

文字を音声化できないことから来る障がいと説明されているけど、生まれつきの聾者が読み書きできることや、速読が音読の遮断によって可能になることなどから、そういう単純なものではないことは明らかと思える。

A・G・ベルとサリバンとヘレン また、電話の発明者グラハム・ベルが読字障がいだったというのは面白い。彼は聴覚障がい者教育に携わっていて、ヘレン・ケラーにアン・サリヴァンを送るきっかけを作った人でもある。電話はそういう彼の副産物のようなもの。ここにも何かヒントがありそうだなあ。

その一方で、速読を簡単にマスターできないことからわかるように、文章を読むときに音読を断ち切ることの難しさが存在していることも確かなことだ。言葉=音声でしかなかった時代が長かった人類にとっては、文字を一度音声に変換しないと理解できないという理屈も理に叶っている。

仏教の読経をはじめとして、いろんな宗教で聖典を読誦することを重要視しているのはそういう歴史の遺跡であるようにも思う。

標識のように簡単な名詞程度なら誰でも音読せずに理解できるが、悲しいかな、それが少しでも文の体裁をとっていようものなら、音読の誘惑を断ち切ることは難しい。

確かに文字は音声を誘発する道具ではあるけど、すでに文字の歴史は始まっていて、徐々に脳は文字を直接意味に変換するプログラムを書き始めていると思える。進化が始まっていて、今は揺らぎの時だと思う。

ダ・ヴィンチの鏡文字は有名ですが、同時に彼は左利き。左利きでインク文字を書くのはかなり不利。インクの上を手が滑っていくわけですから。左利きの鏡文字は理に叶った記述方法だったと言える。実際、鏡文字を書く人はほとんど左利きらしい。

ダヴィンチ手稿 ダ・ヴィンチにとって鏡文字は自分のために使う文字であって、普通文字が他人に向かって書かれる文字でした。普段は鏡文字しか書いていないので、鏡文字こそが彼が普通に使う文字。言葉通り、その字体は完璧な鏡像になっているそうです。これは脳の中に文字イメージが2種類存在していることを示唆しているように思えます。しかも、そのイメージはもともと別々に存在しているイメージではなく、どちらかが反転したものとして作られたイメージということになります。

こういった鏡文字使用者の例を見ていくと、やはり文字の脳フィールドが揺らいでいる感じを受けます。

ルイス・キャロルも鏡文字者として知られてますが、彼は右利き。でも、元は左利きだったらしい。『鏡の国のアリス』を書いた著者が鏡文字を書くというのは出来すぎの感がありますが、これは言葉・文字遊び好きだった彼の遊びのひとつだったんじゃないかと思う。じっさいダ・ヴィンチのような字体の共通性がありません。

ルイス・キャロルの絵文字手紙 My (鹿の絵)Ina,   (言うまでもなくdearとdeerの洒落)

で始まる直筆の絵文字入り手紙が『少女への手紙』(新書館)に掲載されていますが、鏡文字で書かれた手紙も直筆コピーで載っています。右手のような流暢さがない、たどたどしい筆跡です。紙面の裏から透かして見ましたが、右手文字とはまるで違いますね。努力も透けて見えます。少女を喜ばせたかったんでしょうね。彼の苦労が偲ばれます......(^_^)

ルイス・キャロルの鏡文字手紙 「鏡の国からの手紙」が含まれる彼が書いた手紙は十万通弱。桁が間違っていないかって?Eメールどころか、電話もなかった時代とはいえ、そんなバカな。しかし、そんなバカなんですよ。だれがそんなもん数えたんだと言いたいでしょう。数えたのは彼自身です。

後で確認できるように索引システムを作って、全て通し番号で記録していました。最後は死ぬ一週間前の98721番でした。

話が逸れました。

さて、やっとここからが本題......(^_^) ここまで読んでくれた人、あなたはいい方ですね。もう少し読んでくれたら、あなたは愛すべき人です.......(^^ゞ

大学時代、ある本の中で見つけた手紙文「夕やけがうつくしい」。手紙だけど一般的にそう呼ばれている。この文は「詩の中にめざめる日本」(岩波新書)で読んだものとばかり思っていたけど、詩でもないのに変だなとは思っていたけど、今回見直してみると載っていなかった。違う本らしい。文字を識ることで、夕焼けが美しく思えるようになったというもの。

二十年以上むかしの朝日新聞の女性読者の投稿コラム「ひととき」にも、文字を覚えるまでは、花を美しいと思わず、植木鉢を蹴っていたようなことが書かれてあった。文字を覚えることで、美しさと愛おしさを知ったという。たぶん、そんな内容だった.......(^^ゞ この記事の方が識字が人にどんな変化を起こすのか、手紙文より的確に記されていたが、もう失われてない。でも、朝日新聞のデータベースのどこかに記録されているはず。

もうひとつは男性の体験。これは富村順一の『わんがうまりあ沖縄』(柘植書房)に記されていたと思っていたが、やはり二十年以上昔に確認したらその文章を見つけることができなかった。ひょっとするとすでに死刑執行された永山則夫の『無知の涙』(合同出版)だったかもしれないと思っているが、まだ未確認。なにせ細かい文字で上下2段、300ページ以上ある。どちらも獄中手記なので勘違いした可能性あり。どんなことが書いてあったか忘れてしまったが、やはり心にやさしさが生まれたというようなことだったと思う。

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「夕やけがうつくしい」

わたしはうちがびんぼうであったので
がっこうへいっておりません。
だからじをぜんぜんしりませんでした。
いましきじがっきゅうでべんきょうして
かなはだいたいおぼえました
いままで、おいしゃへいってもうけつけで
「夕やけがうつくしい」現物の一部 なまえをかいてもらっていましたが、ためし
にじぶんでかいてためしてみました。
かんごふさんが北代さんとよんでくれたので
大へんうれしかった。
 夕やけを見てもあまりうつくしいと
思はなかったけれどじをおぼえて
ほんとうにうつくしいと思うように
なりました。みちをあるいておっても
かんばんにきをつけていてならった
じを見つけると大へんうれしく思います
すうじおぼえたのでスーパーやもくよう
いちへゆくのもたのしみになりました。

またりょかんへ行ってもへやのばん
ごうをおぼえたので、はじをかかなく
なりましたこれからはがんばって
もっともっとべんきょうをしたいです。
十年ながいきをしたいと思います。
四十八年二月二十八日
           北代 色
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出来るだけ原文に近い形で載せました。句読点も原文のままです。

うちの歓連サイトのブログ「アバウトなつぶやき」で、先日ちょうど句読点について記事になっていましたが、確かに読点の打ち方は個人差が大きい。じっさい実用上はそれで許される。僕は誤読が生じないかぎり出来るだけ読点を使わない立場です。漢字が続いて読みにくくなるのを防ぐために漢字を平仮名によく修正します。

「アバウトなつぶやき」 http://blog.goo.ne.jp/i-boshi/

それは間を強制される感じがあるからです。それどころか読点の打ち方が合わない人の文章を読むと息苦しくなるほどです。さらに、読点がやたら多い文章では溺れそうになります。技師を殺すにゃ刃物はいらぬ。高校野球の宣誓あればよい。 ヨイ、ヨイ。

句読点が輸入されるまでは、日本人は自分が好きなように間を作って読んでいたんですから。

あ〜、また話が逸れました.......(^^ゞ

文字を知ることによって世界が変わるという体験は、おそらく識字学級の現場ではもっとたくさんの知られていることでしょう。子どもはまだ認識世界を構築し始めた頃に識字するために大きな変化を見つけにくいですが、すでに世界を構築し終わった大人は識字による影響が大きいため、その変化が発現しやすいのだと推測されます。

文字を含めて言語に関するすべての事柄が言語野で処理されていたら、たぶんこれは起こらなかった。文字の歴史が浅いため、応急処置で文字を扱う脳のフィールドを決め、これが言語野とは違うフィールドであったため、新たに結び合うことで、何か生まれたものがある。これが先に書いた「なるほど」と思った理由です。

しかも、文字を音声化する39野・40野はそもそもは視覚・聴覚・感覚という3種類の情報を統合するフィールドなんです。このフィールドで文字認識することになったため、文字を認識することが世界を認識するひとつのキーとして働き始めたと考えられるのです。

ネット上で識字の問題は楽譜を読むことに似ているというレポートを読んだことあるけど、なるほどと思うところあり。僕のように楽譜が読めない人には、楽譜は音符が並んだただの記録紙、音楽のスコアではなくて野球のスコアに近い......(^_^) しかし、読める人はそこから音楽が聞こえてきているんでしょ? 音[ne]?

楽譜に照らしてみると文章も音声をレコードしているわけで、これが人の心になんらかの働きかけをしている。速読が味気ないのはそのためなのかもしれない。また、詩を速読で読もうとするバカがいないのはその証なのかもしれない。でも、詩を速読しているおバカさんがいたら、ぜひ感想を聞いてみたいです。

誤解がないように最後に書きますが、文字を知らない人が非人間的であるということではありません。文字を学べなかった人が愛情深かったり、文字を持たなかったアイヌ民族やネイティブ・アメリカン、あるいはアボリジニが人間性豊かであることを僕たちは知っています。人は言葉を使うことで認識世界を構築していくわけですが、さらに文字を識ることで世界が大きなフレームごと再構築されている可能性を指摘しているだけです。

南部陽一郎著『クォーク』 世界文明と文字は切り離せないものですが、文字は単なる文明の道具ではないと言いたいのです。

ノーベル賞を受けた南部陽一郎さんのクォーク理論を読んだのはたぶん25年前。仮説から定説までに昇格するのは大変な道のり。たった一つの説でも一生かかる。何事でも研究している人にとっては人生は短すぎるだろうな。

誰かこのモジ仮説にノーベル飴一個ぐらいくれないかしら。

2008-10-20 Mon

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