プリオシン海岸  銀河鉄道の夜ガイド

『銀河鉄道の夜』はどこか

ジョバンニの街の地図

章へのリンク
 1.ジョバンニの道行き 2.花巻の川をめぐる 3.鏡の国のジョバンニ
 4.道行きを辿る 5.街を組み立てる 6.『銀河鉄道の夜』を歩く
 7.白鳥が降りた鳥の駅「銀河鉄道の夜ガイド」へ戻る


1.ジョバンニの道行き

 この「地上地図」のページは「『銀河鉄道の夜』はいつか」のページを補足するためのものです。原作からの情報は少ないですが、星空の下にある物語の舞台イメージがどこであったのかを探り、物語にどんな影響を与えたかを考察することでジョバンニが移動する時間の精度を高めます。地上ではなく、銀河鉄道の軌道(線路図)については「銀河鉄道軌道図」「銀河に鉄道を敷く方法」のページをご覧ください。

いつものことですが、かなりの長文になっていますのでそのつもりで読んでください。

 天沢退二郎氏によって作成された街の地図が「討議『銀河鉄道の夜』とは何か」P.25(青土社刊)に掲載されています。この討議はまだ原稿の整理がなされていなかった1970年代前半のもので、筑摩昭和42(1967)年版全集をテキストにしたもです。まずこの地図を検証してみましたが原文との矛盾はないと思います。矛盾がない別の地図を作ることも可能ですが、考えが異ならない限りは天沢氏の地図(以後、天沢地図と記します)を尊重していきます。たとえば、西につけても東につけても構わないような小路とか角とかは天沢地図を尊重します。

 天沢地図は街の主要部分を描いたもので、原稿の推移が明らかになっている現在からみれば、3次稿で削られた地理情報も参考に描かれたものと言えます。そして、ここで作成する地図は4次稿に登場するものがすべて収まる広い地図です。しかし、たぶんこうではないかという推測の街ではなく、原作と矛盾しない地図です。矛盾しない限りはどのような配置になってもいいわけで、「推測の街」ではなく、「創作の街」と先にいいわけをしておいた方が無難かもしれません。そもそもお遊びのサイトですので.......(^^ゞ

 『銀河鉄道の夜』の地上ではジョバンニがよく歩いています。ジョバンニの孤独や苛立ちが道を歩きながら表現されていきます。しかし、歩いていたというよりはずっと急かされていたというべきかもしれません。銀河鉄道に乗車するまでの急ぎの表現を抜きだしたのが以下のテキストです。

・おもてへ飛びだしました
・一目散に走りだしました
・勢よく帰って来た
・勢よく靴をはいて
・急ぐのでした
・急いで行きすぎやうと
・いきなり走り出しました
・どんどんジョバンニは走りました(4次稿で削除)
・ちからいっぱい走りだしました(4次稿で削除)
・どんどんのぼって行きました

 カムパネルラが「 みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。 ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追ひつかなかった」と話したように、銀河鉄道に乗車するためにはそれなりの速度というものが必要なのだと示唆されます。ジョバンニは活版所を出た時点から加速するためのエネルギーを蓄えるみたいにずっと急ぎ足です。それはまるでカムパネルラが乗る銀河鉄道の旅立ちに乗り遅れまいとするかのようです。

アニメーション『銀河鉄道の夜』  このページではジョバンニの移動を「道行き」と記していきます。この道行きをうまく視覚表現したのが、アニメーション『銀河鉄道の夜』です。実にいろんな道を歩き続けています。 このアニメは南欧が舞台で3次稿も一部取り込んだ4次稿が原作になっていますが、原作とは異なる部分もあります。アニメ制作に当たって街の地図が検討されたのではないかと推測しましたが、残念ながら参考になるような地図は浮かび上がってきませんでした。

 「『銀河鉄道の夜』はいつか」のページは花巻を舞台と定め、そこから星空を描きながらその夜を探そうとしたものですが、なぜ花巻なのかという疑問にはきちんと答えていません。このページではなぜ花巻なのかという謎を解き明かしてから、ジョバンニの道行きを辿ります。


2.花巻の川をめぐる

 街の地図を作るにあたって、最初に確定しておきたいことは川の位置です。星の祭のハイライトというべき烏瓜流しの場所であり、銀河を映す鏡であり、、カムパネルラが消える水の流れの場ですから、川こそが地上の物語の要(かなめ)だからです。川の記述はこうあります。

・大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
・ジョバンニは橋の袂から飛ぶやうに下の広い河原へおりました。
・向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいてゐました。
・河原のいちばん下流の方へ洲のやうになって出たところに人の集りがくっきり
 まっ黒に立っていました。

 この記述から大きな川であることがわかります。だれでも思いつくのが北上川です。そして、「やぐら」が組んであるような橋が当時の北上川のどこかに架かっていたのではないかという推測もできます。

『モナリザ』の橋部分  レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』の背景には橋が描かれていて、その橋が彼の故郷であるヴィンチ村に架かっていた橋と似ています。それと同じように、身近な橋には愛着があるものなのかもしれません。賢治の生家から北上川の一番近い橋は朝日橋です。これが単なる推測ではないことを明らかにしているのはウェブサイト「賢治・星めぐりの街」です。

 「カムパネルラの捜索現場」として解説されている中で、ワーレントラス型 ワーレントラス型 の朝日橋が賢治が亡くなる前年の昭和7年に完成していると記されています。大きな橋の工事期間を考慮に入れると、4次稿を書いていたらしい昭和6年頃に影響を与えたことは十分に考えられます。このサイトにはその他にも花巻城(鳥ヶ谷崎[とやがさき]公園)下に広がる賢治の街にモデルと考えられる時計屋や活版所などの位置が紹介されています。


賢治生家と朝日橋の位置


 『銀河鉄道の夜』の4次稿がいつ書かれたのかを断定できる資料はありませんので、これを補強するためにもう少し時間を遡って考察すれば、朝日橋は昔からある橋の付け替えであること、宮澤家は花巻の素封家であり、父の政次郎さんは町会議員やその他の公共性のある役を引き受けていたことからも、計画段階からこの橋についての情報がもたらされていたことは間違いないと思えます。

 つまり、こうです。3次稿まで書き上げていた段階で、新しいもの好きな賢治がワーレントランス型という朝日橋の計画を知り、これをザネリらが烏瓜を流す大きな川に渡すことにしました。しかし、すでに書き込んであった「細い鉄の欄干のつゐた橋」が邪魔になり、「小さな川」とともに削除することになったというわけです。新「朝日橋」計画と3次稿から4次稿へと改稿される時期は重なり合っています。現実の町に出現することになる橋が物語にも反映したと考えられるのです。

 他にも別の橋のモデル説があるようです。しかし、橋の記述の変更が3次稿から4次稿へかけて生じたのを説明できるのはこの橋だけではないでしょうか。

 花巻市博物館所蔵の「巖手縣花巻町花巻川口町案内俯瞰圖( 1920(大正9)年東京図鑑社発行)は絵地図の趣もあって、建築物や樹木等が立体的に描かれたり、汽車が走っていたりして面白い資料です。残念ながら掲載できませんが、これに描かれた朝日橋を見ると橋中央が盛り上がった木橋として描かれています。この俯瞰図については後からも触れますので、以後は「俯瞰図」と略していきます。

朝日橋下流の州  この川こそがモデルであると仮定できるのは橋がワーレントラス型であることよりも、川の描写にあります。原文テキストにはところどころで妙に具体的に記されている箇所がありますが、やはり川の描写にも「洲のやうになって出たところ」という箇所があり、生々しい記述になっています。なぜ「州」ではいけなかったのか。実在する場所をイメージしていたから、つい筆が引っ張られていったと推測されます。

 では、ほんとうに実在するのか?先に紹介した「賢治・星めぐりの街」には当時の地図が掲載されていて、確かに確認できます。現在も地形はあまり変わっていないので、先に載せた地図でも確認することができます。右上は現在の航空写真です。

 「洲のやうになって出たところ」が出来上がったのは瀬川(現在は後川)が北上川に合流している地点だったからです。今はその川が切り替えられて、瀬川の下流だったことろが陸地化しつつあるようです。この周辺はかつては洪水被害が頻発したところで、改修のため川の流れが何度も変わっています。賢治も『春と修羅第二集』序で「北上川が一ぺん氾濫しますると百万疋の鼠が死ぬのでございます」と記しています。

朝日橋と瀬川橋の間の大きな州のようなところ  現在の瀬川はイギリス海岸辺りで北上川と合流していますが、当時は朝日橋の西を瀬川が併走して瀬川橋が架かっていました。現在、後川と呼ばれている川の元は北上川であり、次に瀬川となり、そして枇杷沢川となり、今の後川になっています。朝日橋が架かっている北上川の流れは驚いたことに江戸時代に作られたものです。

 一般的な州とは異なる出自の朝日橋の州は、科学的に、あるいは語義から言って「州」とは呼べないのかどうか yu にはわかりませんが、当時は北上川と瀬川の間にある堤から地続きであったことは確かです。俯瞰図でも橋の下流へと堤が続いています。「ほんとうは州ではない」という、賢治の科学的な態度が、「洲のやうになって出たところ」という表現になったのではないでしょうか。

 短歌から口語詩への過渡期作品群と思われる 〔冬のスケッチ〕(1920年〜1924年頃) に次のような箇所があります。

   瀬川橋と朝日橋との間のどてで
   このあけがた
   ちぎれるばかりに叫んでいた、
   電信ばしら。

 賢治はこのように二つの橋が架かる川の風景を眺めていました。この地点のイメージだけは朝日橋周辺でなくてはならないように思います。店や建物や樹木など、一時的な存在物は物語の点景を形作ることはあっても、ステージそのものを準備することは難しいことです。

 他にも、町かど・小川・丘など注目できる地形がいくつもあるのですが、こういうことは他の地域でもやろうと思えばかなりの確率で見つかるものです。賢治が住んだのは花巻、盛岡、東京になるでしょうか。花巻は羅須地人協会時代に1.5km南に下がったところの下根子桜(現・花巻市桜町)という場所もあります。ここは街路は発達していません。

 花巻川口町には北上川、花巻城址という小高い丘、小川、街路、商店、鉄道など、物語に登場するものがほぼ揃っているので、わざわざ遠くまで出かける必要はないでしょう。と言いながら、後で盛岡も参照することになるのですが、ここではモデル探しよりも、賢治の日常であった花巻をステージにして地図を描いていきたいと思います。このページで確認したいのは、まずは賢治の距離感だからです。そして、ジョバンニの道行きを辿ることで、『銀河鉄道の夜』の舞台が花巻でなければならない理由がしだいに見えてくることでしょう。たぶん.......(^^ゞ

 
岩手軽便鉄道の改軌前の軌道(大正初期地図)
『校本宮澤賢治全集』より

 賢治の街は昭和4年に花巻町と合併するまでは花巻川口町と呼ばれていました。銀河鉄道のモデルと言われている岩手軽便鉄道が花巻城址の南を走っていて、その北が花巻町、南が花巻川口町でした。岩手軽便鉄道は後に軌道が北に移動し、今の釜石線となっています。花巻川口町のメインストリートは航空写真で見れば一目瞭然です。戦後の1948(昭和23)年のものです。地上から撮影された大通りの写真は5章でご覧に入れます。


花巻川口町
1948年米軍撮影(国土地理院) 

 ここで天沢地図を参照されている方は川の位置が異なることに気付かれたことでしょう。北上川は賢治の街の東を流れ、天沢地図ではあくまで物語の川であって北上川を想定しているものではありませんが、川は西を流れるからです。どっちが正しいのだ?と問われれば、正しいとか正しくないとかの問題ではありません。原文には南北の情報が書き込まれていても、東西の情報がないために、天沢地図は「鏡の国」のように東西を反転させることが可能だと思われます。それでも矛盾が生じないはずです。


「討議『銀河鉄道の夜』とは何か」より引用(縮小)

正像
正像
反転像
反転像


 ただし、ジョバンニが銀河から地上に帰還するまでは。


3.鏡の国のジョバンニ

 なぜこんなことになったかと言えば、全編を通じて、「東」という語は一度も、「西」という語は一度きりしから出てこないからです。それも地上部分ではなく、「琴の星がずっと西の方へ移って」という星の動きについてです。4次稿では経過時間を訂正するためにこの一度きりの「西」も削除され、東西は禁句になっているかのようなのです。「北」も「南」も何回も出てくるのに不思議なことです。

 『どんぐりと山猫』はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と相似点がいくつかあり、その影響を受けていると思われますが、だからこそ『鏡の国のアリス」にも関心があったであろう賢治のことですから、何か意図があったのかもしれません。銀河と川を、地上と銀河軌道上を鏡面のように描くための、ひとつの仕掛けなのでしょうか。

イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスガ辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考へられる。 実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在した
ドリームランドとしての日本岩手県である。

『注文の多い料理店』広告文より引用

 「『銀河鉄道の夜』はいつか」で示したように、お盆と結びついている祭ですから、この川も深く宗教性を帯びています。ですから、川向こうはまるで三途の川の向こうであるかのように物語の日常には入り込んできていません。もし川向こうがジョバンニの生活圏に入っていたなら、カムパネルラが川に落ちる前から川や橋の描写が書かれていたはずです。なにしろ大きな川だから大きな橋でもあるのです。

 原文テキストで川向こうの記述とはっきりわかるのは「向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいてゐました」という一ヶ所だけです。それはカムパネルラを捜索する人々の灯りと考えられるものですし、ひとだまを象徴していると考えることもできます。

 もうひとつ川向こうと思われるものがあります。野原を川のこちら側に配置するスペースがありませんから、野原を走る汽車は川向こうです。この汽車は銀河鉄道を誘引する音と光を放っていて、夢かうつつか判然としない存在なので、川向こうに配置されることになります。


岩手軽便鉄道
岩手軽便鉄道の改軌前の軌道(大正初期地図)
『校本宮澤賢治全集』より

岩手軽便鉄道と釜石線  北上川の東には鉄道は敷かれていません。鉄道が走っているのは北上川の北と西です。先に述べたように、北には銀河鉄道のモデルと言われる岩手軽便鉄道だった釜石線が走っています。当時は花巻町と花巻川口町の境を走る軌道で現在と異なっています。改軌前には花巻城址そばに鳥谷崎駅というのもありました。左図では中央の黒い実線が軽便鉄道の軌道です。

 街の中を走ってしまう軌道は、この物語のモデルにはなりません。西は言うまでもなく東北本線です。花巻電鉄の軌道も花巻駅周辺で湾曲を描きますが、馬面電車とかハーモニカ電車と呼ばれた車体幅が狭い特殊な車両でもあるし、物語の記述とは少し異なるように感じます。線路を東に置くか西に置くかはひとまず棚上げして、この南北に走る軌道こそが地上の汽車と言えます。

川を境界にして世界を分ける  川は銀河を象徴し、橋も「渡す」という象徴性を帯びています。新朝日橋計画は、町はずれの小さな川に橋を架けるのではなく、カムパネルラが行方不明になる川にこそ架けるべきだと賢治が考え直す契機になります。そして、やぐらのある大きな橋を導入した賢治は、その象徴性を高めるために「小さな川があって、細い鉄の欄干のつゐた橋がかかっていました」という天気輪の丘への道行き部分を削除したのでしょう。川も橋も唯一のものとなったのです。

 こう考えてくると、やはりここは鏡の国であって、賢治が住んだ現実の街は川の西でしたが、物語でジョバンニが住んだのは川の東であったことになります。上図の「岩手軽便鉄道の改軌前の軌道」でイギリス海岸周辺を見ると、実はここにも線路と川が順に並んでいます。その東には田園が広がっているのでここに街を描いたとも言えそうです。

 さて、東西の情報がなければ、左右の情報はどうなっているのか気になるところです。地上部分で「左」と「右」が使われているのは4次稿で追加された部分でそれぞれ1回ずつです。

ジョバンニが勢よく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番側には空箱に紫いろのケールやアスパラガスが植えてあって小さな二つの窓には日覆ひが下りたままになってゐました。

 なぜこんなどうでもいいところで「左」が出てきているのか不思議です。右も左も1回ずつ使って、左右のバランスを取るためでしょうか......(^_^)

そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になってその手の方通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。

 ここで記された「右」は方角を示す重要な使い方になっています。たったこのひとつに「右」で地上の様々なものの配置が決定されてしまうほどです。銀河鉄道から帰還するまでは、銀河と地上に二人のジョバンニが存在していました。それは光の点滅のように白と黒が頻繁に入れ替わる記述からも想像されるように、鏡の国だったのです。天と地、西と東も交錯する世界でした。しかし、銀河のジョバンニが消えたことで対称性は崩れて、地上の方角も決定されることになったようです。

 「右手の方通りのはずれ」とは「右手の方、通りのはずれ」の意味なのでしょう。これに従えば、天沢地図の反転像は成立しないことになります。天沢地図の正しさが証明されました。


「討議『銀河鉄道の夜』とは何か」より引用(縮小)

正像
反転像
×


花巻川口町の小川  川は街の西にあることになり、それにともない鉄道はそのまた西を走ることになります。この配置はちょうど花巻川口町の西を流れる、豊沢川へとつながる小川の位置に北上川を持ってきたことになります。

 また、高等農林学校に通っていた盛岡での配置でもあります。盛岡での経験が花巻へ活かされたということなのかもしれません。



大正初期の盛岡地図
北に高等農林学校があり、西から鉄道・北上川・町が並ぶ。
(大正初期の盛岡)『校本宮澤賢治全集』より


 さて、これで地図を描くためのステージは準備が整いましたが、道をどう引くかという問題が残されています。花巻川口町は十字の街路になっているので、これに倣い街路は多く引くことにします。賢治が書いた「十字」の場所は一ヶ所ですが、他の十字路はわざわざ記さなかっただけのことだと判断します。なぜなら、学校から活版所まで行くだけで町の角を3回曲がらなくてはならないからです。それだけの道があれば、それだけ道も交わるという考えです。

 あとはこのステージに点景を配置していくだけです。地図は3次稿までに記されていた情報も取り上げて描きます。だだし、4次稿では道筋が変更になった部分があると考えますから、そこは両方を描くことにします。


4.道行きを辿る

 この章では地理情報を一覧にします。4次稿で削除されてしまった部分も含めて参照できる箇所はすべて書き出します。並びの順は4次稿で出現する順番になっています。


文字色がグレイ部分は4次稿で削除されたもの。右端のナンバーはあとで参照する時のためのもの。

経 路・対象 原 文
No
活版所 学校


ジョバンニは手を大きく振ってどしどし学 校の門を出て来ました。すると町の家々では
1
家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲って ある大きな活版処にはいって 2
おもてへ飛びだしました。それから元気よ く口笛を吹きながらパン屋へ寄って
3
一目散に走りだしました
4

ジョバンニが勢よく帰って来たのは、ある 裏町の小さな家
5
三つならんだ入口の一番左側
6
カムパネルラ家
ぼくは学校から帰る途中たびたびカムパネ ルラのうちに寄った
7
いまも毎朝新聞をまはしに行くよ
8
ザウエルといふ犬が(中略)ずうっと町の角までついてくる
9


下り坂
ぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行っ てくるよ
10
ケンタウル祭の夜 檜のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来た のでした
11
坂の下に大きな一つの街燈
12
その街燈の下を通り過ぎたとき
13
ザネリが 、新しいえりの尖ったシャツを着て電燈の向ふ側の暗い小路から出て来て 14
ザネリは向ふのひばの植った家の中へは いってゐました
15
町の通りを西へ

牛乳屋
さまざまの灯や木の枝で、すっかりきれい に飾られた街を通って行きました。時計屋の店には
16
街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包ま れ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木
17
町はづれのポプラの木が幾本も幾本も、高 く星ぞらに浮んでゐるところに来てゐました。その牛乳屋の黒い門を入り
18
町の十字交差

町の通りを東へ
ジョ バン ニは、 せわしくこんなことを考へながら、さっき来た町かどを 19
十字になった町のかどを、まがらうとしま したら、向うの橋へ行く方の雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の燈火 を持ってやって来るのを見ました
20
ジョバンニは思はずどきっとして戻らうと しましたが、思ひ直して、一さう勢よくそっちへ歩いて行きました
21
町かどを曲るとき、ふりかへって見ました ら
22
カムパネルラもまた、高く口笛を吹いて 向うにぼんやり橋の方へ歩いて行ってしまったのでした
23
ジョバンニは、なんとも云へずさびしく なって、いきなり走り出しました
24
町の通り

北のはずれ

天気輪の丘
ジョバン ニは、まっすぐに坂をのぼって、あの檜の中のおっかさんの家へは帰らな いで、ちゃうどその北の方の 町はづれへ走って行ったのです。そこには、河原のぼうっと白く見える、小さな川があって、細い鉄の欄干のつゐた橋がかかっていました
25
ジョバンニは橋の上でとまって
26
俄かにまたちからいっぱい走りだしました
27
黒い丘の方へ急ぎました
28
天気輪の柱 牧場のうしろはゆるい丘になってその黒い 平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました
29
露の降りかかった小さな林のこみちを、ど んどんのぼって行きました
30
その小さなみちが、一すじ白く星あかりに 照らしだされてあったのです
31
そのまっ黒な、松や楢の林を越えると、俄 かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘ってゐるのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした
32
ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て
33
天気輪の丘 町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮の けしきのやうにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした 34
遠く黒くひろがった野原を見わたしました
35
そこから汽車の音が聞えてきました。その 小さな列車の窓は一列小さく赤く見え 36

ョバンニの切符
天気輪の丘

牛乳屋
ジョバンニは一さんに丘を走って下りまし た
37
黒い松の林の中を通ってそれからほの白い 牧場の柵をまわってさっきの入口から暗い牛舎の前へまた来ました
38
牛乳屋


牧場の柵を出ました
39
しばらく木のある町を通って大通りへ出て またしばらく行きますとみちは十文字になってその右手の方通りのはづれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった大きな橋のやぐらが夜 のそらにぼんやり立っていました
40
夢中で橋の方へ走りました
41
河原 橋の袂から飛ぶやうに下の広い河原へおり ました
42
向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごい てゐました
43
河原のいちばん下流の方へ洲のやうになっ て出たところに人の集りがくっきりまっ黒に立っていました
44
ジョバンニはみんなの居るそっちの方へ行 きました。
45
博士はまた川下の銀河のいっぱいにうつっ た方へじっと眼を送りました
46
街へ
もう一目散に河原を街の方へ走りました
47



5.街を組み立てる

 4章のテキストを元に町の十字を中心にして描いていきます。まず川を西の端に南北方向へ流し、そこから十字を確定します。あとは物語の登場順を基本にして配置していきます。説明は下表にまとめましたが、重要なものについては6章で取り上げて説明します。


対 象
配 置する位置と説明
参照番号
学校
十字路より北方向あることは考えにくい。学校は町よりも後から作られるため町外れになる可能性が高いことを考え合わせると、南のはずれに置くのが妥当。しか し、町に隣接している。賢治が通った花巻川口尋常高等小学校がそうであったし、移転先の花巻小学校にもそれが当てはまる。また、学校から始まって帰宅に終わる物語ということで、地図の上からもジョバンニの家とは対極になる位置がふさわしい。
1
活版所
町の中心方向へ向かうべきなので、角を3つ作ったところに配置。ただし、物語の進行上まだ十字路を含む東西道は登場してはならないので、十字路への道からは離す。なぜなら、東西道のきらびやかな様子が帰宅した後に描かれるから。
2
パン屋
活版所と同じく、まだ十字路は登場させずに帰宅させたいため、活版所の近くで十字路からは離す。
3
小さな家
ジョバンニの家のことだが、町はずれにあり、学校とは対極になる位置にくる。十字路とは別の道を通って帰宅することになるので、南北に走る道が十字路より東に存在している。橋からは徒歩25分以内。
4,5,6,10
カムパネルラの家
学校から寄り道できること。カムパネルラを含む子どもたちが十字路の南からやってきたこと。カムパネルラが級長もやれるリーダー的な立場にあることを考慮すると、烏瓜を取りに行った後、カムパネルラの家に集まった可能性が高い。ザウエルが町の角までついてくるのも、町なかにあることを示す。よって、十字路から南の位置。
7,8,,9,20
ザネリの家と小路
一度帰宅して、カムパネルラの家へ向かう途中、寄り道をしているらしい。おそらくは小路方面に家がある。この小路は左右どちらか不明。
14,15
ひばの植わった家
坂道をはさんで小路とは反対側に位置。
15
家から町への道
おそらく街全体が緩やかな傾斜地になっていて、町に近いところで長い坂になる。坂の下の向こうには大通りが見える。
11,12,13,14
店が並ぶ道
牧場の位置やジョバンニの帰途を踏まえると、大通りの角を右(西)に曲がっている。街路の飾り付けから、この道が街のメインストリートらしい。
16,17,
時計屋
しばらく行くとまず時計屋なので、これを配置。
16
電気会社
時計屋の次に登場するので近隣に配置。
17
牛乳屋
突然町外れに飛んでしまうが、牧場は天気輪の丘の前にあるので、北の町外れに配置。3次稿には記されていたNo.18の文から十字路を通っていったことがわかる。
18,19,25,38
十字になった町のかど(町かど)
橋が見える街のメインストリートであり、牧場につながる道があることから、川の東に配置。新聞配達でザウエルがジョバンニの後をついてくる角でもある。
19,20,22,23,40
町かど
十字路の角とは別の角らしい。ザネリたちとのやりとりの後にすこし時間の経過がある。ジョバンニは川方向へ行くことを諦めて街の方へ戻っている。十字路から東に配置される。ジョバンニが振り返ったときに、ザネリやカムパネルラの様子が見えているので、距離はあまり離れていない。そこで天沢地図を尊重して、電気会社の前で折れる。
19,20,21,22,23
北の方の町外れへの道
ジョバンニが降りてきた坂道までに小路があるらしい。そこから牧場へと向かう。ただし、第3次稿では「ジョバンニは、まっすぐに坂をのぼって、あの檜の中のおっかさんの家へは帰らないで、ちゃうどその北の方の、町はづれへ走って行ったのです」とあることから、道が変更されたことがわかる。第3次稿では坂をのぼってから丘へ通ずる道を走っていく。
25
小さな川
牧場への途中に配置。
25
欄干のついた橋
小 さな川に架かる。
25
黒い丘(天気輪の丘)
「牧場のうしろ」なので、北を意味することになる。前には牛乳屋がある。町からの歓声がかすかに聞こえる距離にある。
29,34
小さな林のこみち
黒い丘の一部らしい。
30,32
頂の天気輪の柱
丘の頂上に立つ。
32,33
野原
ジョバンニが向いているのは南方向になる。ジョバンニの経路には線路がなかったので、川向こうに広がることになる。
35,36
鉄道
野原を走り、列車の窓がちいさく見える距離に敷かれる。岩手軽便鉄道の軌道ではなく、東北本線の軌道を想起させる。 36

やぐらのある大きな橋とは、トラス橋のこと。朝日橋はワーレントラス型である。  ワーレントラス型の骨組み
40,41,42
河原
橋の袂から広い河原に降りることができる。南へと流れる下流には銀河が映る。
42,43,44,46
州のようになって出たところ
「州」とは記さずに「洲のやうになって出たところ」という具体的な記述になっている。やはりモデルがあるらしい。 44



6.『銀河鉄道の夜』を歩く

 先に完成した地図を載せます。原文の部分的な情報だけからでは設定できなかった部分について、この地図にもとづいて説明していきます。


『銀河鉄道の夜』の地上地図


 見やすいように傾斜する線はできる限り入れていません。ですから南北や東西がきっちり水平や垂直になっているのは便宜上のことです。では項目をあげて解説します。

a.街の大きさ

街の大きさ

 上の地図は現在のものですが、A地点からB地点までちょうど1kmになっています。当時の花巻川口町規模と想定していいと思いますので、ジョバンニの街は1km四方を少し超えるぐらいと考えられます。傍証としては天気輪の丘から川の周辺にいる子どもたちの歓声が聞こえるということからも、大きな地域ではありません。

 猿の叫び声は最大で400mぐらい聞こえるらしいですが、子どもたちが遊ぶ小学校の校庭から数百メートル離れたら、子どもたちの声は聞こえません。しかし、物語上は数百メートルは離れてほしいものです。当時は騒音や障害物が少なかったことや闇で聴覚能力が高まるを考慮して、そのあたりでしょうか。

b.地上の鉄道軌道

 汽笛ではない汽車の音が聞こえています。そして、地上の列車は窓がちいさく見えるほどですから、かなり近距離です。この鉄道を走る汽車も銀河鉄道の汽車を誘因するひとつの要因になっています。ジョバンニが見ている町の灯りは南ですから、見ている方角も南方向であることになることから、必然的に川向こうということになります。

c.銀河鉄道の滑空軌道とジョバンニの裏町

 地図には描いてありませんが、銀河鉄道が降りてきた軌道は岩手軽便鉄道の軌道と合致することになります。実際、天気輪の丘の位置は花巻川口町の地図と重ねると、出来すぎではないかと思いますが、ちょうど軽便鉄道の軌道上となるのです。

花巻川口町の地図と物語の地図

 そもそもは鳥谷崎駅がヒントになったのではないでしょうか。ジョバンニの住む裏町はちょうど小高い丘になっている鳥谷崎神社辺りに相当します。町の坂を下りてくるイメージに合致します。その北の花巻城址もそもそも丘を利用して築城されたようです。町の北は丘や林が多い地形になっていますから、物語の舞台と合うのです。ちなみに、1964年にできた花巻空港の滑走路の先がやはりちょうどこの辺りに向かっているのも面白いですね。

d.十字になった町のかど

 賢治が十字とはっきり書いている場所はひとつしか出てきませんが、もっとたくさんあるはずです。じっさい、一番最初にこの「十字になった町のかど」を通り過ぎたのは牛乳屋に向かう時ですが、十字については何も記されません。いちいち十字だの角だのと記していないだけのことです。

 なぜ十字とはっきり書いた場所がひとつだったかは、これは銀河の中の十字と、地上の十字が響き合うようにするためだと思われます。地上でのカムパネルラと最後の別れになった場所が、この「十字になった町のかど」となっているのでしょう。銀河では南十字(サウザンクロス)を過ぎて間もない石炭袋あたりでカムパネルラは消えます。地上では「十字になった町のかど」を過ぎてすぐの川にカムパネルラは消えていきました。地上で川はひとつにならなくてはならなかったように、十字路もひとつだけ浮かび上がらせる工夫だったのではないでしょうか。

e.町かど

 電気会社のところの角です。現在の花巻の上町の西の突き当たりは刺股(さすまた)のように別れたT字になっていますが(次項 f の地図を参照。「2」の部分)、当時は突き当たりに警察署があって、そこから道が南北に分かれていました。刺股の分かれた半分がないような形で、北へは花巻町へ向かってまっすぐに、南はすぐまた西に折れ曲がって鍛冶町へと繋がります。鍛冶町は母の実家がある町です。この南への折れ曲がった道が賢治の中にあったのではないかと思い、地図にもそのイメージを反転して取り込んでいます。

f.活版所・パン屋・雑貨屋

 点景の商店はどこにでも置けるようなものです。ですから、活版所は角を3つも曲がらなくてはならないので、町の中心からは外れます。賢治が利用した「大正活版所」は町の中心から外れ、賢治の家から3、4回角を曲がります。この影響があるのかもしれません。賢治が通った小学校からは近いのであまり角はありません。したがって地図では適当に置いています。同じくパン屋も十字から離して活版所の近くに置くというだけの大雑把な配置です。しかし、雑貨店だけは指定席になります。十字の角へ置かなくてはなりません。

上町から東方向
上町から東方向
「人と文学シリーズ宮澤賢治」より
上町から南方向
上町から南方向
「くりま」第3号から

花巻川口町T字路  花巻川口町の写真を探している中で2枚の写真を見つけました。この写真は同じ町角を方角を変えて撮影している珍しい組み合わせです。時は左が明治29年で賢治が誕生した年、右が40年頃です。ただし、右の写真は明治29年と記している書籍もあります。場所は上町と豊沢町の大きな通りが交わるT字の角から撮影されたものです。

左は上町から東に向かって撮影しています。右は南の豊沢町に向かって撮影しています。賢治の家はこの先の右側にあります。地図の「1」の位置です。これに気付いたのは同じ看板の店が写り込んでいたからです。「度量衡」と書かれた屋根上の看板には「和洋雑貨」も併記されています。

 ウェブサイト「賢治・星めぐりの街」のモデル地図にはこの雑貨店が取り上げられていませんが、賢治はやはり手近で済ませていますね。このT字の角の雑貨店は物語で十字の角に配置されることになったわけです。賢治のお気に入りの店だったのかもしれません。

g.カムパネルラの家

 カムパネルラにはいろんなモデルが指摘されています。たぶん一人ではなく、いろんな人物が複合的に取り込まれていると思います。その意味ではモデルはいないとも言えます。一方、ジョバンニが賢治の分身であることはほぼだれも異論のないところです。

 しかし、花巻の素封家の子息であり、その言動が新聞にも掲載されるような賢治の立ち位置がカムパネルラと無縁ではありえません。当時の花巻の人々からみれば、カムパネルラこそが賢治です。ステッドラーの色鉛筆でも何でも買えるし、特待生であり、級長であり、科学者であり、絵も描けるし、チェロも弾けるし、蓄音機のラッパに頭を突っ込むこともできたのですから。賢治が学校にも行けないような貧しい農民から嫉妬されていたことは賢治に痛いほどの自覚があったはずです。それゆえにカムパネルラは死をもって贖罪しなければならなかったのですから。

 当時の物語として金持ちと貧乏人という対比はありふれた物語設定でもありますが、賢治なりの自己批判の意味もあったのかもしれません。カムパネルラの立場とは賢治が望まなかったものであり、カムパネルラの行為は賢治が望んだことだったと言えます。『銀河鉄道の夜』の中だけでも、自己犠牲に強いこだわりを見せています。この行為を望んだのは、恵まれた生まれを贖罪したかったからです。

 ですから、モデルが親友だとか妹トシだとか言う前に、ジョバンニと同じく賢治の分身として捉えたいと思います。この問題に深入りするとページの趣旨から外れますので、「プリオシン通信」で触れます。『カムパネルラはだれか』のページを参照してください。

 結論を言えば、カムパネルラ家の位置は宮澤家の位置だと言えます。賢治の生家はジョバンニのような町はずれではなく、町の中心にあります。そこからカムパネルラの家も町の中心に近い位置に配置されると思います。町の十字を南から出てきているので、十字に近い南に配置することにします。

h.黒い丘への道

 天沢地図のこの道は第4次稿にもとづくものですが、小さな川が記されている部分は第3次稿となります。第3次稿に記されていた「ジョバンニは、まっすぐに坂をのぼって、あの檜の中のおっかさんの家へは帰らないで、ちゃうどその北の方の町はづれへ走って行ったのです」という一文は表現としては微妙なところがあって、「で」という否定の助詞がどこまでを受けているのか二通りに受け取ることができます。しかし、「坂をのぼって」の後に読点があることや、わざわざ「坂をのぼって」とまで書き込んでいることを考慮すれば「坂」を上ったことは間違いないでしょう。

 たぶんここでも当初は地元の地形に引っ張られて考えていたのではないかと思いますが、「新朝日橋」の導入により、余分になった「細い鉄の欄干のつゐた橋」ともうひとつの「小さな川」も捨て、不自然に遠回りになる道ではなく、近道を選び直したと思われます。

 なぜ近道になったかと言えば、「川のうしろはゆるい丘になって」から「牧場のうしろはゆるい丘になって」に書き換えられたからです。3次稿では牧場は見えていませんでしたが、4次稿は牧場が視界に入ってきています。物語としても、突如現れた小さな川の後ろではなく、牛乳屋の辺りにあるであろう牧場の後ろが丘になっている方がイメージが膨らみます。

 そして、4次稿の道になったことで、No.29の文「その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました」という描写により近づくことになりました。その風景を見るためにはより南側から丘へと入る必要があるからです。


天気輪と北斗七星
8月20日20時 花巻


この道は北北西に向いていますから正面に北の大熊星、つまり北斗七星が輝くことになります。


大熊座
正面から見た北の大熊星


 ただし、これは単に道を引き直したという問題ではなく、賢治のオリジナルな地形図全体に変化が起きたためだと推測されます。


7.白鳥が降りた鳥の駅

 こうして見てくると、『銀河鉄道の夜』は花巻という歴史舞台があってこそ構成された物語だったといえるでしょう。周りを川が巡っていた花巻城という丘があり、その南には城下町が広がっていました。銀河鉄道が北十時から南十時へと南北に走るように、江戸時代には民衆の力を借りて北上川が南北に流され、明治にはやはり東北本線が南北に敷かれたのです。そこから岩手軽便鉄道が花巻の中を走ることになり、いよいよ舞台は賢治の登場を待っていたわけです。

 北上川を小川の位置へ移動させ、野原の汽車は東北線を走らせ、銀河軽便鉄道の汽車は空から花巻の丘へと降りてくることになったのです。賢治は鳥谷崎駅から天頂の白鳥座(北十字)を眺めながら星空が降りてくるのを見たのです。まるでカムパネルラの父のように時計をかたく握りしめながら。

二疋の大きな白い鳥が
鋭く悲しく啼きかはしながら
しめった朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる

『春と修羅』・無声慟哭・「白い鳥」から抜粋
  1922年11月 宮澤トシ死去

  1923年 6月  「白い鳥」

  1923年 8月  サハリン旅行

  1924年頃  『銀河鉄道の夜』着手

 賢治は妹トシからの信号を求めて地の最北サハリンまで旅したことを思い起こし、今度は天の最南、南十字への旅を決意したのです。



※参考文献
討議『銀河鉄道の夜』とは何か(青土社) 銀河鉄道の夜DVD(アスミック ) 校本宮澤賢治全集(筑摩書房) 宮澤賢治17号(洋々社) 巖手縣花巻町花巻川口町案内俯瞰圖( 花巻市博物館蔵) くりま第3号(文芸春秋) 人と文学シリーズ宮澤賢治(学研) 『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫) ウェブサイト「賢治・星めぐりの街」




銀河鉄道の夜ガイドへ 銀河鉄道軌道図へ


トップページへ行きます