2次稿
 ジョバンニの切符
  苹果
  渡り鳥
  南十字
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 次稿
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 比っこ銀河道の夜
 改稿
 銀河鉄の夜ガ
リオ岸ト
プリオシン海岸  銀河鉄道の夜ガイド

草稿 『銀河鉄道の夜』 第2次稿

賢治のテキスト

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第1次稿 第2次稿 第3次稿 第4次稿

ジョバンニの切符

(ここまで原稿なし)

「さあ、」ジョバンニは困ってカムパネルラの眼を見ました。カムパネルラももぢもぢしてたしかに持ってゐないやうでした。(あゝ、[事]によったら僕が二人のを持ってゐたかも知れない。)と思ひながらジョバンニが上着のかくしに手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入ってゐたらうかと思ってあわてて出して見ましたらそれは四つに折ったはんけちぐらゐの大さの緑いろの紙でした。車掌が手を出してゐるもんですから何でも構はない、やっちまへと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮寧にそれを開いて見てゐました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしてゐましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考へて少し胸が熱くなるやうな気がしました。
「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたづねました。
「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑ひました。
「よろしうございます。南十字(サウザンクロス)へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は黄いろな紙をジョバンニに渡して向ふへ行きました。
 カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたといふやうに急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たくなったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草のやうな模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見てゐると何だかその中へ吸ひ込まれてしまってまた新しい世界の中へでも入るやうな気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあはてたやうに云ひました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答へながらそれを又畳んでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめてゐましたが、その鳥捕りの時々大したもんだといふやうにちらちらこっちを見てゐるのがぼんやりわかりました。
「もうぢき鷲の停車場だよ。」カムパネルラが向ふ岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地図とを見較べて云ひました。
 ジョバンニはなんだかとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなって、殊にあの鷺をつかまへてよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をちらちら横目で見て愕いたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊かうとして、それではあんまり出し抜けだから、(鷲の停車場もうぢきでせうか。)とまで話し掛けやうと考へて振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしてゐるのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と向[ふ]岸の白いすゝきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったらう。」カムパネルラもぼんやりさう云ってゐました。
「どこへ行ったらう。一体どこでまたあふんだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかったらう。」
「あゝ、僕もさう思ってゐるよ。」
「僕はあの人が邪魔なやうな気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんたうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思ひました。
「何だか苹果の匂がする。僕いま苹果のこと考へたためだらうか。」カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。
「ほんたうに苹果の匂だよ。それから野茨の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思ひました。
 そしたら俄かにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子がひどくびっくりしたやうな顔をしてはだしで立ってゐました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。
「あら、こゞどこでせう。まあ、きれい。」青年のうしろに姉妹らしい三人の少女がお互みんな堅く手をつないでジョバンニのうしろに立ち、不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。
「こんなとこへ来たんだな、みんないっしょに、ああよかった。さあ、そら、こゝへお掛けなさい。もうなんにもこわいことありません。ぢきおかあさんの居らっしゃるとこへ行けますから。」黒服の青年はなぜか額に深く皺を刻んで、それに大へんつかれてゐるらしく、無理に笑ひながら男の子をジョバンニのとなりに座らせました。
「あなたはそこへお掛けなさい。」眼のまっ黒な、まん中に居た女の子に、青年はカムパネルラのとなりの席を指さして云ひました。女の子はすなほにそこへ座って、きちんと両手を組み合せました。
「お父さんのとこへ行くんだやう。」男の子は顔を変にして向ふの席に座ったばかりの青年に云ひました。青年は何とも云へず悲しさうな顔をして、じっとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。一番大きな姉は、いきなりハンケチを出して泣いてしまひました。
「お父さんはすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはあんなに永く待ってゐらっしゃるんですから、それはそれは、もうひどく心配して待ってゐらっるんですから、早く行っておっかさんにお目にかゝらないといけないのです。」
「僕、船に乗らなけぁよかったなあ。」
「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの川原ね、こゝはあの夏中、トゥヰンクル、トゥヰンクル、リトル、スター をうたったとき、いつもぼんやり白く見えてゐたでせう。あすこですよ。ね、きれいでせう、あんなに光って。」
 泣いてゐた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年はそっと同朋たちにまた云ひました。
「わたしちはなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないゝとこを旅して、ぢき神さまのとこへ行くし、わたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、めいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうぢきですから元気を出しておもしろくうたって行きませう。」青年は男の子のぬれたやうな黒い髪をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかゞやいて来ました。
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」ジョバンニのうしろの席の人が、さっきから聞いてゐたらしく青年にたづねました。青年はかすかにわらひました。
「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんより、一足さきに本国へ帰るとこだったのです。私は大学へはいってゐて、家庭教師にやとはれてゐたのです。ところがちゃうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは半分だめになってしまって、とてもみんな乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私はもう必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いて呉れました。けれどもそこにはまだまだ小さな赤いジャケツの子や親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私たちはかたまって甲板につかまってゐました。ライフヴイが一つ飛んで来ましたけれども私たちにはあたらなかったのです。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、みんなそれにしっかりとりつきました。けれども私たちはすぐ渦に巻き込まれました。それからここへ来てゐたのです。この方たちのお母さんは一昨年没くなられたのです。ボートはきっと助かったでせう、何せよほど熟練な風で漕いで船からはなれてゐましたから。」
 みんなの嘆息は、あっちにもこっちにも聞えました。
 ジョバンニはきいてゐるうちにほろほろ泪がながれ、いままで忘れてゐたいろいろのことを思ひ出しました。
(あゝ、あの大きなパシフィックの海をよこぎらうとして、この人たちは波に沈んだのだ。そして私のお父さんは、その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、僕に厚い上着を着せやうとしたのだ。それを心配しながらおっかさんはあの小さな丘の家で牛乳を待ってゐらっしゃる。僕は帰らなけぁいけない。けれどもどうしてここから帰れやう、いったい(うち)はどっちだらう。)ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまひました。
「もう帰りたくなったって。そんなにせかなくてもいゝ。まだ二分もたってゐない。まあ安心しておいで。いつでもその切符で帰れるから。」またあのセロのやうな声がどこかでしました。ジョバンニは気持がすっかりなほってまた叫びだしたいくらゐ愉快になりました。青年はうしろの人と何か話し合ひ、あの男の子はもうつかれてぐったり席によりかかって睡ってゐました。そして、さっきのあのはだしだった足には白い柔らかな靴をはいてゐたのです。
 ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向ふの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のやうでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のやう、そこからかまたはもっと向ふからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとほった奇麗な風は、ばらの匂でいっぱいでした。
「あら、お姉さん、苹果持ってゐるわ。」向ふの席のいちばんちいさな女の子がびっくりしたやうに叫びました。「えゝ、さっきから持ってゐたわ。みんなで五つあるのよ。」その髪の黒い姉は、黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに両手で膝の上にかゝへてゐました。
「苹果お呉れ、ねえさん。」いつか眼をさましてゐたジョバンニのとなりの男の子はすばやく一つとりました。
「いけないわ。タアちゃん」カムパネルラのとなりにゐた女の子は頬をまっ赤にしてジョバンニたちの方を気兼ねしながらたしなめるやうに云ひました。
「いゝのよ。ちゃうど1つづつあるわ。」姉はこっちへ一つ渡してそれから向ふの小さな妹に云ひました。「これあなたよ。」男の子はまるで飛びつくやうにしてその大きな苹果にかぢり付いてゐました。あんまり大きいので中々その白い冷たさうな肉が噛みとれないで汁がぼとぼと落ちました。
「先生、苹果ございましたわ。」姉はうしろ向きになってはなし込んでゐた向ひのあの黒服の青年におしまひの二つのうち一つを出しました。
「おや、どっから来たの。立派ですねえ。こゝらではこんな苹果ができるのかなあ。」青年は手にもってまるでびっくりしてしまったやうにいろいろに場処を変へたり眼を細くしたりして眺めてゐました。みんなはいつかきらきらのナイフで苹果をむいてゐました。
 ジョバンニは僕はもうあゝ云ふ苹果を百でももってゐるとおもひました。みんなはナイフで皮をむいてはゐましたが、それもたしかに剥かなくてもいゝやうでした。なぜならその小さな男の子はまるでパイを喰べるやうにもうそれを喰べてゐましたし、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのやうな形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと灰いろに光って蒸発してしまふのでした。
「いまどの辺あるいてるの。」ジョバンニがききました。
「こゝだよ。」カムパネルラは鷲の停車場の少し南を指さしました。
「鷲の停車場もう過ぎたの。」
「過ぎた。さっきあの人が船のはなししてゐた時だ。」
男の子がこしかけの上に大威張りで立ってゐました。そしてジョバンニの向ふの窓をのぞいて叫びました。
「あまの川、
 底のすなごも見ぃへるぞ
 かはらの石も見ぃへるぞ。
 いつまで見ても、
 見えないものは水ばかり。」みんなは一度に窓の外を見ました。
 その景色の立派なこと、殊に川下の向ふ岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまぢって何とも云へずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて来るのでした。
 青年はぞくっとしてからだをふるふやうにしました。
 だまってその譜を聞いてゐると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な[蝋]のやうな露が太陽の面を擦めて行くやうに思はれました。
「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりの女の子が叫びました。
「からすぢゃない。かささぎだい。」カムパネルラが何気なく叱るやうに叫びましたので、ジョバンニはまた思はず笑い、女の子はきまり悪さうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってぢっと川の微光を受けてゐるのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年は誰へともなし云ひました。
 向ふの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そして譜がにはかにあの聞きなれた主よみもとの歌にかはったのです。青年はさっと顔いろが青ざめ、いちばん大きな姉はまたハンケチを顔にあてました。それがすぐとなりの小さな妹に伝はったもんですから、ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌ひ出されだんだんはっきり強くなりました。思はずジョバンニもカムパネルラも一諸にうたひ出したのです。
主よみもとにちかづかん(ニヤラー マイ ゴツド ツジー ニーラー ツゼー)
 のぼるみちは十字架に
 ありともなどかなしむべき
 主よみもとにちかづかん。」
 男の子もまるで教会にでもゐるやうに一生けん命にうたひました。そのうつくしいさまざまの語の讃美歌は、見えない天の川の水を吹いてくる風をふるはせ、広い銀
〔このあと原稿一枚?なし〕


そして青い橄欖の森が見えない天の川の向ふにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまひそこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひゞきや風の音にすり耗らされて聞こえないやうになりました。
「あの森(ライラ)の宿でせう。あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちが集ってゐらっしゃると思ふわ、まはりに青い孔雀やなんかたくさんゐると思ふわ。」
 カムパネルラのとなりに居た女の子が云ひました。
 それが不思議に誰にもそんな気持ちがするのでした。第一その小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってゐるのはきっとその孔雀がはねを広げたりとぢたりする光の反射だらうかと思ひました。
「さうだ孔雀の声だってさっき聞えた。」カムパネルラが女の子に云ひました。
「えゝ、三十疋ぐらゐはたしかに居たわ。」女の子が答へました。ジョバンニは俄かに何とも云へずかなしい気がして思はず「カムパネルラ、こゝからはねおりて遊んで行かうよ。」とこわい顔をして云はうとしたくらゐでした。ところがそのときジョバンニは川の遠くの方に不思議なものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした細長いものであの見えない天の川の水の上に飛び出してちょっと弓のやうなかたちに進んでまた水の中にかくれたやうでした。おかしいと思ってまたよく気を付けてゐましたらこんどはずっと近くでまたそんなことがあったらしいのでした。そのうちもうあっちでもこっちでもその黒いつるつるした変なものが水から飛び出して円く飛んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えて来ました。みんな魚のやうに川上へのぼるらしいのでした。「まあ何でせう。タアちぁん。ごらんなさい。まあ沢山だわね。何でせうあれ。」睡さうに眼をこすってゐた男の子はびっくりしたやうに立ちあがりました。「何だらう。」青年も立ちあがりました。「まあ、おかしな魚だわ、何でせうあれ。」
「海豚です。」カムパネルラがそっちを見ながら答へました。「海豚だなんてあたしはじめてだわ。けどこゝ海ぢゃないんでせう。」「いるかは海に居るときまってゐない。」あの不思議な低い声がまたどこからかしました。ほんたうにそのいるかのかたちのおかしいこと二つのひれを丁度両手をさげて不動の姿勢をとったやうな風にして水の中から飛び出して来てうやうやしく[うやうやくし]頭を下にして不動の姿勢のまゝまた水の中へくぐって行くのでした。見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔のやうに波をあげるのでした。「いるかお魚でせうか。」女の子がカムパネルラにはなしかけました。男の子はぐったりつかれたやうにまた席にもたれて睡ってゐました。「いるか魚ぢゃありません。くぢらと同じやうなけだものです。」カムパネルラが答へました。「あなたくぢら見たことあって。」
「僕あります。くぢら、頭と黒いしっぽだけ見えます。」「くぢらなら大きいわねえ。」「くぢら大きいです。子供だっているかぐらゐあります。」
「さうよあたしアラビアンナイトで見たわ。」姉は細い銀のいろの指環をいぢりながらおもしろさうに向ふでそのはなしをきいてゐました。
(カムパネルラ、僕もう行っちまふぞ。僕なんか鯨だって見たことないや)ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながらそれでも堅く唇を噛んでこらえて窓の外を見てゐました。その窓の外には海豚の形ももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれてその上に一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶった男が立ってゐました。そして両手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号してゐるのでした。ジョバンニが見てゐる間その人はしきりに赤い旗をふってゐましたが俄かに赤旗をおろしてうしろにかくすやうにし青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のやうに烈しく振りました。すると空中にざあっと雨のやうな音がして何かまっくらなものがいくかたまりもいくかたまりも鉄砲丸のやうに川の向ふの方へ飛んで行くのでした。ジョバンニは思はず窓からからだを半分出してそっちを見あげました。美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を実に何万といふ小さな鳥どもが幾組も幾組もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。「鳥が飛んで行くな。」ジョバンニが窓の外で云ひました。「どら、」カムパネルラもそらを見ました。そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は俄かに赤い旗をあげて狂気のやうにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群は通らなくなりそれと同時にぴしゃぁんといふ潰れたやうな音が川下の方で起ってそれからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽の信号手がまた青い旗をふって叫んでゐたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。それといっしょにまた幾万といふ鳥の群がそらをまっすぐにかけたのです。二人の顔を出してゐるまん中の窓からあの女の子が顔を出して美しい頬をかゞやかせながらそらを仰ぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと。」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気ないやだいと思ひながらだまって口をむすんでそらを見あげてゐました。女の子は小さくほっと息をしてだまって席へ戻りました。カムパネルラが気の毒さうに窓から顔を引っ込めて地図を見てゐました。
「あの人鳥へ教へてるんでせうか。」女の子がそっとカムパネルラにたづねました。「わたり鳥へ信号してるんです。射手のとこから鉄砲があがるためでせう。」カムパネルラが少しおぼつかなさうに答へました。そして車の中はしぃんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったのでだまってこらえてそのまゝ立って口笛を吹いてゐました。
(どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこゝろもちをしづめるんだ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押へるやうにしてそっちの方を見ました。(あゝほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか。カンパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに談してゐるし僕はほんたうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったやうにぼんやり白く見えるだけでした。
そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るやうになりました。向ふ岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちらっと大きなたうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて真珠のやうな実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増して来てもういまは列のやうに崖と線路との間にならび思はずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向ふ側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその大きなたうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられてさやさや風にゆらぎその立派なちゞれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のやうに露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光ってゐるのでした。カムパネルラが「あれたうもろこしだねえ」とジョバンニに云ひましたけれどもジョバンニはどうしても気持がなほりませんでしたからたゞぶっきり棒に野原を見たまま「さうだらう。」と答へました。そのとき汽車はだんだんしづかになっていくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ小さな停車場にとまりました。
その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしづかなしづかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。
そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてからかすかなかすかな音楽が糸のやうに流れて来るのでした。「新世界交響楽だわ。」向ふの席の姉がひとりごとのやうにこっちを見ながらそっと云ひました。全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見てゐるのでした。(こんなしづかないゝとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだらう。どうしてこんなにひとりさびしいのだらう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗ってゐながらまるであんな女の子とばかり談してゐるんだもの。僕はほんたうにつらい。)ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすやうにして向ふの窓のそとを見つめてゐました。すきとほった硝子のやうな笛が鳴って汽車はしづかに動き出しカムパネルラもさびしさうに星めぐりの口笛を吹きました。
「えゝ、えゝ、もうこの辺はひどい高原ですから。」うしろの方で誰かとしよりらしい人のいま眼がさめたといふ風ではきはき談してゐる声がしました。「たうもろこしだって棒で二尺も孔をあけておいてそこへ播かないと生えないんです。」
「さうですか。川まではよほどありませうかねえ、」「えゝえゝ河までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡谷になってゐるんです。」さうさうこゝはコロラドの高原ぢゃなかったらうか、ジョバンニは思はずさう思ひました。向ふではあの一ばんの姉が小さな妹を自分の胸によりかゝらせて睡らせながら黒い瞳をうっとりと遠くへ投げて何を見るでもなしに考へ込んでゐるのでしたしカムパネルラはまださびしさうにひとり口笛を吹き、二番目の女の子はまるで絹で包んだ苹果のやうな顔いろをしてジョバンニの見る方を見てゐるのでした。突然たうもろこしがなくなって巨きな黒い野原がいっぱいにひらけました。新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから湧きそのまっ黒な野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を腕と胸にかざり小さな弓に矢を番えて一目散に汽車を追って来るのでした。「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい。」黒服の青年も眼をさましました。ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。「走って来るわ、あら、走って来るわ。追ひかけてゐるんでせう。」「いゝえ、汽車を追ってるんぢゃないんですよ。猟をするか踊るかしてるんですよ。」青年はいまどこに居るか忘れたといふ風にポケットに手を入れて立ちながら云ひました。
まったくインデアンは半分は踊ってゐるやうでした。第一かけるにしても足のふみやうがもっと経済もとれ本気にもなれさうでした。にはかにくっきり白いその羽根は前の方へ倒れるやうになりインデアンはぴたっと立ちどまってすばやく弓を空にひきました。そこから一羽の鶴がふらふらと落ちて来てまた走り出したインデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。インデアンはうれしさうに立ってわらひました。そしてその鶴をもってこっちを見てゐる影ももうどんどん小さく遠くなり電しんばしらの碍子がきらっきらっと続いて二つばかり光ってまたたうもろこしの林になってしまひました。こっち側の窓を見ますと汽車はほんたうに高い高い崖の上を走ってゐてその谷の底には川がやっぱり幅ひろく明るく流れてゐたのです。
「えゝ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易ぢゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向ふからこっちへは来な[い]んです。そら、もうだんだん早くなったでせう。」さっきの老人らしい声が云ひました。
どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がかゝるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこゝろもちが明るくなって来ました。汽車が小さな小屋の前を通ってその前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見てゐるときなどは思はずほうと叫びました。
どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるやうになりながら腰掛にしっかりしがみついてゐました。ジョバンニは思はずカムパネルラとわらひました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手をゆっくりと前のやうに光ってながれてゐるのでした。うすあかい河原なでしこの花があちこち咲いてゐました。汽車はやうやく落ち着いたやうにゆっくりと走ってゐました。
向ふとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旗[旗か旄か不明]がたってゐました。
「あれ何の旗だらうね。」ジョバンニがやっとものを云ひました。「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ。」「あゝ。」「橋を架けるとこぢゃないんでせうか。」女の子が云ひました。
「あゝあれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ。」
その時向ふ岸ちかくの少し下流の方で見えない天の川の水がぎらっと光って柱のやうに高くはねあがりどぉと烈しい音がしました。「発破だよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。
その柱のやうになった水は見えなくなり大きな鮭や鱒がきらっきらっと白く腹を光らせて空中に抛り出されて円い輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらゐ気持が軽くなって云ひました。「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒やなんかゞまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いゝねえ。」「あの鱒なら近くで見たらこれくらゐあるねえ、たくさんさかな居るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もゐるんでせうか。」女の子が談につり込まれて云ひました。
「居るんでせう。大きなのが居るんだから小さいのもゐるんでせう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直って面白さうにわらって女の子に答へました。
川の向ふ岸が(直筆は字下げなし)俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火を僕はいままで見たことない。」ジョバンニが云ひました。「蝎の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答へました。「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」「蝎って、虫だらう。」「ええ、蝎は虫よ。だけどいゝ虫だわ。」「蝎いゝ虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」「さうよ。だけどいゝ虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて小さな虫やなんか殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの、
あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられやうとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうたうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんたうにあの火それだわ。」
「さうだ。見たまへ。そこらの三角標はちゃうどさそりの形にならんでゐるよ。」
ジョバンニはまったくその大きな火の向ふに三つの三角標がちゃうどさそりの腕のやうに こっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのやうにならんでゐるのを見ました。そしてほ[ん]たうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。
その火がだんだんうしろの方になるにつれて
みんなは何とも云へずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂のやうなもの口笛や人々のざわざわ云ふ声やらを聞きました。それはもうぢきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるといふやうな気がするのでした。
「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡ってゐたジョバンニのとなりの男の子が向ふの窓を見ながら叫んでゐました。
あゝそこにはクリスマストリイのやうにまっ青な唐檜かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集ったやうについてゐました。
「あゝ、さうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」「あゝ、こゝはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云ひました。
〔以下原稿一枚?なし〕

「ボール投げなら僕決してはづさない。」
男の子が大威張りで云ひました。
「もうぢきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年がみんなに云ひました。
「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云ひました。カムパネルラのとなりの女の子はそはそは立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないやうなやうすでした。
「おっかさんが待ってゐらっしゃいますよ。」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云ひました。「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」ジョバンニがこらえ兼ねて云ひました。「僕たちと一諸に乗って行かう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」「だけどあたしたちもうこゝで降りなけぁいけないのよ。こゝ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしさうにいひました。
「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。もっといゝとこへ行く切符を僕ら持ってるんだ。天上なら行きっきりでないって誰か云ったよ。」「だっていけないわよ。お母さんも行ってゐらっしゃるんだし。」女の子はほんたうに別れが惜しさうでその顔も少し青ざめて見えました。
「さあもう仕度はいゝんですか。ぢきサウザンクロスですから。」
あゝそのときでした。見えない天の川のまん中に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木といふ風に川の中から立ってかゞやきその上には青じろい雲がまるい環になってかかってゐるのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのやうにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜に飛びついたときのやうなよろこびの声や何とも云ひやうない深いつゝましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のやうな青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞ってゐるのが見えました。
「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひゞきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとほった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりたうたう十字架のちゃうどま向ひに行ってすっかりとまりました。「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひき姉妹たちは互にえりや肩を直してやってだんだん向ふの出口の方へ歩き出しました。「ぢゃさよなら。」女の子がふりかへって二人に云ひました。「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらへて怒ったやうにぶっきり棒に云ひました。女の子はいかにもつらさうに眼を大きくしても一度こっちをふりかへってそれからあとはもうだまって出て行ってしまひました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。
そして見てゐるとみんなはつゝましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいてゐました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思ふうちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。たゞたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金の円光をもった電気栗鼠が可愛い顔をその中からちらちらのぞいてゐるだけでした。
そのときすうっと霧がはれかゝりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでゐました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちゃうど挨拶でもするやうにぽかっと消え二人が通って行くときまた点くのでした。ふりかへって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまひほんたうにもうそのまゝ胸にも吊されさうになりさっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまづいてゐるのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。
ジョバンニはあゝと深く息しました。「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラはさうは云ってゐましたがそれでも胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが云ひました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云ひました。「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。」カムパネルラはさうは云ってゐましゐましたけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうのこゝろから出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。
そしてジョバンニが窓の外を見ましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました。「カムパネルラ、僕たち一諸に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびらうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びました。「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」
そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝ マジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほうたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。天の川を数知れない氷がうつくしい燐光をはなちながらお互ぶっつかり合ってまるで花火のやうにパチパチ云ひながら流れて来向ふには大犬座のまばゆい三角標がかゞやきました。
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のな[か]でたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」あのセロのやうな声がしたと思ふとジョバンニはあの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘に立ってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足[お]とのしづかに近づいて来るのをききました。
「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットにいれました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。そしてポケットが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべて見ましたらあの緑いろのさっき夢の中で見たあやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました。
「博士ありがたう、おっかさん。すぐ乳をもって行きますよ。」ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集って何とも云えずかなしいやうな新しいやうな気がするのでした。
琴の星がずっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。
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